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数日後、Lueurの工房はいつもの柔らかな光に満ちていた。コンペの最優秀賞と新ブランドのチーフ就任が決まってから、社内の空気は明らかに変わった。
祝福の言葉、同僚の好奇の視線。
私は作業台で『Reborn Eternal』の最終調整をしていた。傷跡に沿って光を屈折させるメレダイヤの配置を、ルーペ越しに何度も確認する。
サファイアの深い青が、私の指先で静かに息づいている。ひび割れは意図的に残し、光が当たるたび、傷がより鮮やかに輝く。破られた誓いが、再生の光になる瞬間を、形にした。
中央のサファイアは、意図的に小さなクラックを入れている。完璧なカットではなく、表面に細かな亀裂が走り、光が当たる角度によって青が複雑に屈折する。傷跡は、まるで心の裂け目をそのまま映し出したかのように、リングの内側まで伸びている。メレダイヤは傷の周りに散らばり、星屑のように小さな光を放ち、裂け目から漏れる光を増幅させる。バンドはプラチナの細いラインで、ひび割れを強調するように少し歪んだ曲線を描いている。
このリングは、ただのジュエリーではない。私の5年間の痛み、裏切り、再生のすべてを閉じ込めたもの。
結婚2年目の夏、私が初めて大きなジュエリー展に出品した夜のことだった。拓也が仕事帰りに会場に駆けつけてきて、そっと耳元で囁いた。「今日の瑞穂、ダイヤモンドより輝いてる」その後、家に帰ってから、彼が作ってくれたフレンチトーストを食べながら、「ずっと一緒にいよう」と彼は笑っていた。
けれどそれは粉々に砕け散った。そんな傷を隠さず、光に変える——それが『Reborn Eternal』の本質だ。
その時、スマートフォンが小さく震えた。画面に表示されたのは、倉橋智久の名前。
『今夜、空いていますか? 約束のワインを飲みに行きませんか ──倉橋』
私は一瞬、息を止めた。拓也と決別したあの日、静かな復讐に乱されていた心を、穏やかな微笑みと温もりで癒してくれた人。
『空いています。どこで?』
すぐに返事が来た。
『またRencontreで。20時頃、迎えに行きます』
──迎え?
私はルーペを外し、鏡を見た。徹夜続きの目は少し腫れていたが、コンシーラーで隠すほどではない。白いブラウスに黒のタイトスカート、薔薇の香水はもう使っていない。代わりに、無香料のハンドクリームだけを手首に塗った。
傷跡のサファイアをネックレスに変え、首元に下げた。『Broken Vows』のひび割れた輝きが、静かに光る。
20時少し前、マンションのエントランスに黒いセダンが滑り込んだ。後部座席から降りてきた倉橋は、ダークグレーのスーツにネクタイを外したラフな姿。会議室で見せたCEOの威厳とは違い、あの夜の穏やかなバーの隣人に戻っていた。
「こんばんは。乗って」
私は小さく会釈して乗り込んだ。運転手が恭しくドアを静かに閉める。車内は清潔で、かすかにウッディなコロンの香りがした。白檀ではない。もっと落ち着いた、森のような香り。車は夜の街を静かに走る。
「急に誘って、ごめん。君のデザインの試作が見たくて」
「ありがとうございます」
「新ブランドの立ち上げ、具体的に動き出してるんだ。君の『Reborn Eternal』と『Broken Vows』を軸にしたいと思ってる」
私は窓の外を見ながら、頷いた。
「光栄です。でも……まだ試作段階ですよ」
「それでいい。完璧じゃない君のデザインが、見たかった」
その言葉に、胸が少し熱くなった。
Rencontreに着くと、店内は平日ということもあり、空いていた。カウンターのいつもの席に並んで座る。バーテンダーが笑顔で迎え、倉橋はウイスキー、私は赤ワインを注文した。アメイジング・グレイスが、今日も静かに流れている。
「どう?俺との未来は考えてくれた?」
倉橋がグラスを回しながら、穏やかに訊いた。私はワインを飲むふりをして、視線を逸らした。頬が熱い。
「倉橋さんは……どうして、あの夜、私に声をかけたんですか?」
彼はウイスキーを一口飲み、遠くを見るような目をした。
「たまたま隣に座っただけ。でも、君が夫のテーブルを見てる目が、痛々しくて……放っておけなかった。それが、Rencontreだった」
出会い。
私は小さく笑った。
「不思議ですね」
倉橋がグラスを置いて、私をまっすぐ見た。
「瑞穂さん」
名前を呼ばれた瞬間、胸がどきりと鳴った。
「これから、仕事でもプライベートでも、君の隣にいさせてくれないか。急がない。君のペースでいい。ただ、君の光を、近くで見ていたい」
私はワイングラスを握りしめた。
拓也との5年は、傷と再生の連続だった。でも今、目の前にいるこの人は、私の傷を「美しい」と呼んでくれる。信じても良いのだろうか。私はゆっくりと息を吸い、グラスを掲げた。
「……少しずつ、なら」
倉橋が微笑んだ。あの夜と同じ、凪の海のような笑み。
「少しずつで、いい」
グラスが軽く触れ合い、静かな音が響いた。
──新しい絆は、こんな風に、静かに始まるのかもしれない。
私はサファイアのリングを嵌めていない左手を見つめた。傷跡はまだ残っている。でも、そこから光が漏れ始めていた。倉橋の手が、私の指先にそっと触れる。温かな感触が、静かに広がる。
「これから、よろしくね」
私は微笑み、頷いた。陽光のような未来が、ゆっくりと、胸に差し込んできた。