テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
管野アリオ
4,274
530
86
そんなことを考えているうちに二人は亜佑美の住むマンションへと辿り着いていた。
エントランス前で足を止めた朝陽は、
「それじゃあ、俺はこれで」
そう言って微笑むと、来た道へ向かって踵を返す。
「あっ……」
亜佑美の口から思わず漏れた声に朝陽が振り返った。
「どうしました?」
「えっと、その……」
引き止めたものの、理由が見つからない。
ただ、このまま別れてしまうのが惜しくて。
「あの……よかったら、上がっていかない?」
口にした途端、亜佑美は自分でも何を言っているのかと思った。
朝陽も僅かに目を見開いている。
「ご、ごめん! 変な意味じゃなくて……! その、送ってもらったし、お礼とか……」
慌てて言い訳を重ねる亜佑美だったが、何のお礼をするつもりなのか自分でも分からない。
時刻は午後十一時を回っているし、こんな時間に引き止めるなんて迷惑だったかもしれない。
そう思うと申し訳なさが込み上げた。
一方の朝陽も少し困ったような表情を浮かべる。
恋人でも家族でもない男が、こんな時間に女性の部屋へ上がるのはどうなのか。
そんな葛藤が見えた。
「お気持ちは嬉しいですけど……今日はもう遅いので」
「……そう、だよね」
亜佑美は小さく笑う。
「ごめんね、変なこと言って」
「いえ」
「今日は本当にありがとう」
「こちらこそ。それじゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ。気をつけて帰ってね」
「はい」
そうして朝陽は再び頭を下げると駅へ向かって歩き出した。
亜佑美はその背中を見送る中、遠ざかっていく姿を見ているうちに胸の奥がきゅっと締め付けられた。
まだ帰ってほしくない。
もう少しだけ一緒にいたい。
そんな我儘な気持ちが膨らんでいく。
「……何考えてるんだろう、私」
小さく呟きながらマンションへ入り、エレベーターのボタンを押す。
到着を告げる音が鳴って扉が開いたけれど――亜佑美は乗り込めなかった。
そして気付けばバッグからスマートフォンを取り出し、履歴から朝陽へ発信していた。
スマートフォンを手にしていたのか呼び出し音は一度も鳴らず、
『もしもし』
すぐに聞こえた声に亜佑美の心臓が跳ねた。
「あ……」
『木葉さん?』
足を止めたのだろう。
電話の向こうから聞こえていた雑踏の音が少し遠のく。
『どうしましたか?』
その優しい声を聞いた瞬間、自分がとんでもないことをしている気がして急に怖くなった。
「ご、ごめん……」
『何かありましたか?』
「えっと、その……」
言葉が続かない。
困ったことが起きた訳ではない。
ただ――。
「……まだ、帰って欲しくなくて……」
小さく零れた本音に電話の向こうが静かになった。
困らせてしまった。
そう思った亜佑美は慌てて口を開く。
「ごめん! やっぱり何でもないの! 気にしないで――」
『木葉さん』
名前を呼ばれ、思わず言葉を止める。
『そういうこと、簡単に言っちゃ駄目ですよ』
「ご、ごめん……」
『謝らないでください。ただ、そんなことを言われたら勘違いする人もいますから』
優しく諭すような声だけど亜佑美の胸には別の言葉が浮かぶ。
(簡単なんかじゃない。藍島くんだから言ったのに……)
そう思った、その時だった。
『そんなこと言われたら、俺だって……帰れなくなります』
思いもよらない言葉に亜佑美の胸が大きく跳ねた。
『今、どちらにいますか?』
「エレベーターの前……」
『分かりました。そのまま待っていてください。すぐ戻りますから』
そこで通話は切れ、耳からスマートフォンを離した亜佑美はその場に立ち尽くす。
自分から電話を掛けて、帰って欲しくないなんて言ってしまったことを思い返すだけで顔が熱い。
「私……何してるんだろう……」
それでも、不思議と後悔はなかった。
そして数分後、自動ドアの向こうに駅へ向かったはずの朝陽が現れた。
「すみません。お待たせしました」
少し息を弾ませながら近付いてくる朝陽に亜佑美は申し訳なさそうに眉を下げる。
「……ごめんね。私が変なこと言ったから……」
すると朝陽は小さく首を振った。
「謝らないでください」
一瞬だけ視線を伏せ、それから照れたように笑う。
「俺、さっきの電話……すごく嬉しかったから……だから、大丈夫です」
その優しい声に、亜佑美は小さく頷いた。
帰ってほしくないと思ったことも、戻ってきてほしいと願ったことも、全部、間違いじゃなかった。
そんな気がして亜佑美は自然と微笑んでいた。
コメント
1件
「上がっていかない?」って口にした後の慌てた言い訳、すごくリアルで心掴まれました。それで断られて電話してしまう展開、もう切なくて…。でも朝陽の「帰れなくなります」の一言で全部ひっくり返る感じがたまらなかったです。戻ってきてくれた時の照れた笑顔、お互いの気持ちが確かに通じ合った瞬間で、すごく温かくなりました🤍