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小鳥のさえずりと、庭園の鹿威しが奏でる澄んだ音色で、私はゆっくりと瞼を開けた。
「……ん……」
視界に入ったのは、見慣れた東京のマンションの白い天井ではなく、美しい木目の格天井だった。障子越しに差し込む柔らかな朝陽が、部屋の中を淡い金色に染めている。
そして私の身体は、背後から強靭で温かい腕によってすっぽりと抱きすくめられていた。背中にぴたりと密着した広い胸板からは、規則正しく落ち着いた心音が伝わってきていた。
「おはよう、琴音。……睡眠スコア九十九点、深い睡眠の割合が過去最高で中途覚醒もゼロだ。昨夜の薬膳料理とアロママッサージが完璧に効いたようだな」
頭上から降ってきた、寝起きとは思えないほど艶のある低音ボイス。
私は一気に意識が覚醒し、耳の先まで熱くなるのを感じた。
「お、おはようございます、社長……っ! す、すみません、私、社長の腕を枕にしたまま朝までぐっすり……」
「謝るな。俺が抱き枕にして離さなかっただけだ。君の規則正しい寝息と温かい体温を感じながら眠れたおかげで、俺自身の睡眠スコアも九十八点だ」
神崎は喉の奥でくすりと笑うと、私の身体をくるりと自分の方へ向けさせ、前髪をかき上げて額に優しく朝のキスを落とした。
「さあ、顔を洗ってこい。朝食の土鍋粥がちょうど蒸らし終わる頃合いだ」
身支度を整えてダイニングへ出ると、アイランドキッチンからは伊勢海老の頭で取った出汁と加賀味噌の芳醇な香りが漂っていた。
ふっくらと炙られたのどぐろの一夜干し、美しい黄金色の出汁巻き卵、山椒の香るちりめんじゃこ、そして胃に優しい生姜と百合根入りの土鍋白粥。旅館の朝の澄んだ空気のなかで味わう神崎の手料理は、五臓六腑に染み渡るような優しさだった。
今朝も当然のように神崎の隣に座らされ、一口ずつ丁寧に「あーん」で朝食を食べさせられた私は、身も心もぽかぽかに満たされた状態で宿の玄関へと向かった。
◆
午前中は、腹ごなしも兼ねて温泉街の石畳を散策することになっていた。
黒のハイネックニットに上質なチャコールグレーのカシミヤロングコートを羽織った神崎は、まるで海外のファッション誌から抜け出してきたかのように洗練されており、すれ違う観光客の女性たちの視線を一身に集めている。
一方の私は、急な北陸行きだったため、手持ちの控えめなベージュのニットとオフィスカジュアル用のプリーツスカートという、いかにも「休日の秘書」といった出で立ちだった。
「……琴音。少し止まれ」
温泉街のメインストリートに入る手前で、神崎が不意に足を止め、私の姿を上から下までじっと見つめた。
その端正な眉間に、わずかな皺が寄る。
「山あいの冷え込む気候に対して、その薄手のニットとコートでは防寒性が足りない。首元から冷気が入って自律神経が乱れる。それに、俺の隣を歩くパートナーには、もっと君自身の美しさを引き立てる装いがふさわしい」
「えっ? で、でも、歩いているうちに温まりますし、普通の服ですよ……?」
「俺の健康管理基準では不合格だ。こっちへ来い」
神崎は私の手を取ると、石畳の脇道に佇む、歴史ある町家を改装した完全予約制のラグジュアリー・ブティックへと迷いなく足を踏み入れた。格子戸の奥には美しい坪庭が広がり、選び抜かれたヨーロッパの一流ブランドの衣装だけが静かにディスプレイされている。
「お待ちしておりました、神崎様」
出迎えたオーナーらしき気品ある女性が恭しく一礼する。どうやら神崎は、宿を出る前にすでにこの店を手配していたらしい。
「あの、社長……!? こんな高級ブティック、私にはとても場違いです……!」
「黙って俺に任せろ。君の食事と睡眠だけでなく、君の肌に触れる衣服の保温性や靴の快適さも、すべて俺の健康管理の範疇だ」
神崎はラックに用意されていた新作コレクションの中から、深みのあるボルドーのカシミヤワンピースと、オフホワイトの軽やかなロングコートを迷いなく選び出した。
「サイズは七号、ウエストは少し絞ったラインのものを。それから靴は二十三・五センチ、石畳の坂道を歩いても足首と土踏まずに負担がかからないよう、インソールにクッション性の高い三センチヒールのショートブーツを持ってきてくれ」
「えっ……!? 社長、どうして私の服の号数や靴のサイズ、土踏まずの形まで正確にわかるんですか!?」
目を丸くする私に、神崎は悪びれもせず口角を上げた。
「俺の管理能力を舐めるな。スマートウォッチが計測している君の歩幅と重心バランス、そして毎日抱きしめてマッサージしている俺の掌の感覚があれば、スリーサイズから足の形まで一ミリの狂いもなく把握できる。……ほら、着替えてこい」
押し込まれるように入った試着室で袖を通したボルドーのワンピースは、驚くほどしっとりと肌に馴染み、鏡の中の自分をまるで物語のヒロインのように華やかに見せてくれた。
おずおずとカーテンを開けて出ていくと、神崎は一瞬だけ息を呑み、満足そうに目を細めてブラックカードで即座に決済を済ませてしまった。
「……完璧だ。君の白い肌と黒髪によく映える。代金は俺の目の保養と、君の防寒管理のための必要経費だから一切気にするな」
◆
ブティックを出た私たちは、恋人繋ぎで指を絡め合いながら温泉街の情緒ある坂道を歩いた。
途中の老舗和菓子店の前で、蒸籠から白い湯気を立てる出来立ての黒糖温泉まんじゅうに私が目を奪われていると、神崎は一つだけ購入し、懐紙の上で半分に割って私の口元へ差し出してくれた。
「空きっ腹に丸ごと一個食べると血糖値が急上昇して午後の眠気を招くが、半分こなら許容範囲だ。ほら、あーん」
「も、もう……外なのに恥ずかしいです……っ」
周囲の観光客が微笑ましそうに見守る中、顔を赤らめながら彼の指先からパクリと頬張ると、温かい黒糖生地と滑らかなこしあんの優しい甘みが口いっぱいに広がった。
さらに石畳の坂道を、渓谷を見渡せる展望足湯テラスへと向かって歩いていた時だ。
新しいブーツの履き心地に弾むような気分で歩いていた私だったが、急に神崎が立ち止まり、手元のスマートフォンに視線を落とした。
「……ストライドが二ミリ短くなり、右足への荷重が三パーセント偏ったな。石畳の傾斜でふくらはぎに微細な疲労が出始めている。このまま歩くと夕方に靴擦れか筋肉痛を起こすぞ」
「えっ? まだ全然痛くありませんし、ピンピンしていますよ?」
「痛くなってからでは遅いんだ。未然に防ぐのが一流の健康管理だ」
言うが早いか、神崎は私の身体をふわりと横抱き――いわゆるお姫様抱っこで軽々と掬い上げた。
「きゃあっ!? しゃ、社長、道端でお姫様抱っこは目立ちますっ! 降ろしてくださいっ!」
「暴れるな、危ないだろう。すぐ上の貸切展望テラスまで残り三百メートルだ。俺の腕の中で大人しく紅葉でも見ていろ」
すれ違う老夫婦や観光客たちが「まあ、素敵ね」と微笑む中、私はリンゴのように真っ赤になった顔を彼のカシミヤコートの襟元に隠すしかなかった。
やがて辿り着いた高台の貸切足湯テラス。
茜色に染まる北陸の雄大な山並みを見下ろしながら二人並んで温かい足湯に浸かっていると、神崎がふと私の左手を大きな手で包み込み、真剣な眼差しで呟いた。
「……琴音。俺はやはり、君に対して強引で、厳しすぎるだろうか」
「え……?」
いつも絶対的な自信に満ちている彼の声に、初めて聞くようなわずかな揺らぎが混じっていた。
「俺は、君が俺の知らないところで無理をして倒れるのも、俺以外の誰かに心を動かされるのも、耐えられないほど恐ろしい。だから時計を着けさせ、食事も服も管理して、君を俺の檻の中に縛り付けている。……これは俺のエゴだ。君は、こんな息苦しい男の隣にいて、本当に嫌にならないか?」
夕陽に照らされた神崎の琥珀色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめていた。
かつて自らも過労で倒れた痛みを抱え、大切な人を失う恐怖から不器用なほど必死に私を守ろうとしてくれている、一人の男性の切実な素顔がそこにあった。
私の胸の奥で、最後の迷いが完全に消え去り、澄み切った決意が満ちていくのがわかった。
私は神崎の大きな手を両手でぎゅっと握り返し、彼の瞳を見上げて微笑んだ。
「社長は、ちっとも息苦しくなんてありません。世界一優しくて、不器用な人です」
「琴音……?」
「毎朝誰よりも早く起きて私のためにお出汁を引いてくださることも、お仕置きで叱った後に私の手首や肩を丁寧にマッサージしてくださることも、全部知っています。このスマートウォッチは、私にとって鎖じゃありません。社長が私を二十四時間守ってくれているっていう、一番温かいお守りです」
私は背筋を伸ばし、夕焼けの空の下ではっきりと言葉を紡いだ。
「でも、私はただ守られて餌をもらうだけのペットにはなりたくありません。東京に戻ったら、お義母様に直接お会いさせてください。私が社長の秘書としても、生涯のパートナーとしてもふさわしい人間だと、私自身の力で証明してみせます。……そして、いつか社長が疲れた時は、私があなたを支えられる女性になりますから」
私の言葉に、神崎は大きく目を見開き、やがて感極まったように私を強く胸に抱きしめた。
「……敵わないな、君には。ああ、東京に戻ったら、母さんのテストを正面から突破してこい。俺が最高の燃料で、君の頭脳と身体をバックアップしてやる」
夕暮れの温泉街で重なり合った熱い唇と、スマートウォッチが刻む力強い二つの鼓動。
山の稜線に沈んでいく夕陽が、私たちの影を石畳の上に長く重ね合わせていた。かつては自分の弱さを隠すために必死で張り詰めていた氷の仮面が、彼の体温によってゆっくりと溶かされ、代わりにどんな嵐にも折れないしなやかな強さが胸の内に芽生えているのを私は感じていた。ただ守られるだけだった氷の秘書は、こうして自らの足で魔王の隣に並び立つ決意を固めたのだった。
コメント
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**第9話、読み終えたよ!** もうもう、今回も甘々で最高だった😭 朝のあーんからお姫様抱っこ、ブティックでの採寸まで…社長の管理がエスカレートしてて笑ったけど、最後の「これは俺のエゴだ」って弱音にグッときた。琴音が「ペットじゃなくてパートナーになる」って決意したシーン、めっちゃ熱かった!氷の秘書が自らの足で立つ決意を固めた第9話、次が待ち遠しい🔥