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「……ねえ、白布君。ここ、なんでこの前置詞なの? 意味不明なんだけど」
図書室の閉館間際。周囲にはもう、私たち以外に人影はない。
私は身を乗り出して、白布君が広げている参考書を指差した。
「……だから、動詞との相性だって言っただろ。お前、三分前の説明どこで聞いてたんだよ。右の耳から左の耳に効率よくスルーしてんのか?」
白布君は呆れたように溜息をつきながら、シャーペンを持ち直した。
相変わらず口は悪いけど、教え方は驚くほど丁寧だ。……それがまた、余計に悔しいんだけど。
「スルーしてないし! 脳みそに定着するのに時間がかかるタイプなの! 白布君みたいに一瞬で処理できると思わないでよ!」
「……理屈ばっか達者だな。ほら、ここ。この例文をよく見ろ」
彼がノートの端を指差そうとした、その時。
「あ、これ?」
私も同時に手を伸ばしてしまい――。
カチッ、と。
私の指先が、白布君のテーピングが巻かれた大きな手に重なった。
「…………っ」
一瞬、図書室の空気が止まった。
バレー部のセッターらしい、節の太い、硬くて熱い手。
いつも冷徹な彼からは想像もできないほど、その肌は驚くほど熱を帯びていた。
「……あ、ごめん……」
慌てて手を引こうとしたけれど、なぜか白布君の手は動かない。
それどころか、彼は私の指先に触れたまま、石のように固まっている。
「……白布君?」
顔を覗き込むと、そこには見たこともない彼の表情があった。
いつも涼しげな切れ長の瞳が大きく見開かれ、耳の先どころか、頬まで赤く染まっている。
「……白布君、顔赤いよ? 風邪? それとも、知恵熱?」
「……うるせーよ。バカか、お前は」
彼は弾かれたように手を引っ込めると、乱暴に自分の前髪を掻き上げた。
ペンを持つ手が、微かに震えている。……あの、精密機械みたいなセッターの指先が。
「……集中力が切れた。今日は終わりだ」
「えっ、まだ途中じゃん! 白布君、逃げるの!?」
「……逃げてねーよ! 効率が悪くなったっつってんだろ!」
彼はガタガシと音を立てて荷物を鞄に詰め込み始めた。
いつもなら無駄のない動きなのに、今日は参考書を落としたり、筆箱のチャックに手間取ったりと、明らかに様子がおかしい。
「……先に帰るぞ。お前も、さっさと戸締まりして帰れ」
「あ、待ってよ! 一緒に駅まで――」
「……来んな! ……今は、顔見たくねーんだよ」
背を向けて早足で去っていく白布君。
でも、去り際に一瞬だけ見えた彼の横顔は、夕日のせいだけじゃない熱を帯びていた。
「……なによ、あんなに動揺しちゃって。……計算外だったのは、こっちの方なのに」
一人残された図書室で、私は自分の指先に残る、彼の熱い感触をぎゅっと握りしめた。
白布君の「完璧な計算」が、今、確実に狂い始めている。
「……おはよ。白布君、寝不足?」
テスト当日の朝。教室に入ると、隣の席で白布君が死んだ魚のような目で単語帳を睨んでいた。
いつもは完璧な髪型も、今日は心なしか少し乱れている気がする。
「……うるせーよ。お前の声がデカすぎて、脳細胞が効率よく死滅してんだよ」
言い返す声に、いつものキレがない。
チラッと横目で見ると、彼の手元の単語帳、さっきから1ページも進んでないじゃん。
「……ふーん。もしかして、昨日のこと引きずってたりする?」
「は!? 引きずってねーよ! 忘れたわ、あんな非効率な出来事!」
白布君がガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。
図星だったのか、耳の先がみるみるうちに赤くなっていく。
「……あーあ、そんなに動揺してて大丈夫? 私、昨日はぐっすり寝てコンディション最高なんだけど。今日こそパシリ決定だね、白布君」
「……言ったな、西村。……お前こそ、名前のスペル書き間違えて0点になんなよ」
彼は吐き捨てるように言うと、逃げるように教室を出て行った。
……あんなに余裕のない白布君、初めて見た。
勝てる。今日なら、あの「1点」の壁を越えられるかもしれない。
――そして、運命の英語テストが始まった。
教室内には、紙をめくる音とペンが走る音だけが響く。
私は昨日の白布君の教えを思い出しながら、迷いなく解答欄を埋めていった。
(あ、ここ……。白布君が『相性だ』って言ってた前置詞……!)
昨日の、あの熱い手の感触が脳裏をよぎる。
一瞬、ペンを持つ手が止まりそうになったけど、首を振って集中し直した。
ここで負けたら、昨日のドキドキまで無駄になっちゃう。
「……そこまで。解答やめ」
先生の合図で、一斉にペンが置かれる。
私は大きく息を吐き出し、隣の白布君を見た。
彼は、答案用紙を裏返したまま、じっと自分の手元を見つめている。
……昨日、私の手が触れた、あの右手を。
「……ねえ、白布君。手応え、どうだった?」
声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。
いつもの冷徹な仮面を被り直そうとしているけど、隠しきれない焦燥がその瞳に滲んでいる。
「……さあな。効率は悪かった。……一問、お前の顔がチラついて、時間をロスした」
「えっ!? 私の顔!?」
「……悪い意味でだ。……ったく、マジで計算狂いっぱなしだわ」
彼は乱暴に荷物をまとめると、部活へ行くために席を立った。
「私の顔のせい」って……それって、それだけ私のこと考えてたってこと?
耳が赤く染まる。
返却は明日。
「ふふん 次こそ勝ってやるんだからっ」