ジミンside
入院病棟のラウンジの隅の椅子で、いつも本を読んでいる女の子がいた。色白で薄い茶色の髪に目がぱっちりとした、かわいい子。大体いつも、点滴のスタンドと一緒。
僕が入院している小児病棟は小さな子供が多いから、同じ年頃の人は珍しい。僕はいつからか、その子を目で追うようになっていた。
ラウンジに行くと、その女の子がいつもの椅子で、泣いていた。僕は迷ったけれど、勇気を振り絞って車椅子で近づき、そっと肩に触れて声をかけた。
「ね……どうした…の?」
「う…ぐすん。こ、このあと、検査で…怖くて…こんなところで泣いてごめんなさい…病室、戻らなきゃ…」
「何の…検査?」
「骨髄穿刺って言って…腰の骨に、太い針を刺すの…(泣)骨髄液っていうのを抜くんだけど、すっごく痛い…。何度もやったことあるんだけど、毎回怖すぎて、震えちゃう…。」
「そうなんだ…それは痛そう…。僕もいつも、検査や治療が怖くて、すぐ泣いちゃうんだ。男なのに、恥ずかしいよね…?」
「そんなことない!私もすぐ泣いちゃうし、注射も苦手だし、怖がりで…いっつも先生に子供だなぁって言われちゃうの(泣)」
「君の気持ち、分かるよ…。先生も看護師さんもさ、いつだって『大丈夫、すぐ終わる、我慢して』って言う。でもさ、僕の痛みや苦しさは、結局僕自身にしか分からないでしょ?そういうのって、すごくきついと思わない?」
「うん…私もおんなじだよ。いつもいつも怖くて…。それにこの先のことが不安で、病気になる前に戻りたいって思ってる…。ねぇ私、半年前まで普通の中学生だったんだよ。ある日学校で倒れて、突然病院に運ばれて、そのまま入院になっちゃったの。」
この子はまだ、病気である自分を受け入れられていないんだなぁと僕は思った。ある日突然、自分の人生がガラッと変わってしまった。それはなんとせつないことだろう。
「そっかそっか。大変だったね…。僕は生まれつきの病気でね、人生の半分ぐらいはこの病院で過ごしてきたんだよ。分からないことあったら、何でもきいて。ね?」
「ねぇ…あなたって、私より年上だよね?オッパって呼んでもいい?」
「オ、オッパ…?いいけど…」
この僕が、オッパ…?僕は恥ずかしいような、甘酸っぱいような、不思議な気持ちがしていた。
「あのさ…もし良かったら、僕、検査室の前で待ってるよ。そばにはいられなくても、ずっと見守ってる。だから、検査頑張ろうよ。ね?その検査が終わったら、一緒に中庭にお散歩に行かない?」
僕はそう言って彼女の手をそっと握った。殆ど初対面なのに図々しいかなって思ったけれど、泣いている彼女を少しでも勇気づけたくて…。
「オッパ〜。すごく怖いけど、オッパがいてくれるなら、耐えられるかも…」
そこに看護師さんがやってきた。
「あらここにいたのね。ジミン君も一緒だったの?そろそろ検査室に移動するよ〜」
彼女は僕の方をすがるように振り返り、検査室のドアの中に消えて行った。僕は検査室の前に車椅子をつけて待つ。
しばらくすると、
「うぅぅぅぅ…あーーーっやめてーーー」
悲鳴が聞こえてくる…。僕は辛くて耳を塞ぎたくなったけれど、唇を噛んで我慢した。彼女の痛みを、自分のことのように感じたかったから…。がんばれ、痛いの早く終われ…祈るような気持ちだった。
しばらく経って、彼女は看護師さんに付き添われて出てきた。廊下のベンチに崩れ落ちるように座り込み、両手で顔を覆って子供みたいに泣いていた。小さな背中がガクガク震えていて、かわいそうで見ていられない…。
「うわーん。すっごく痛かったし、怖かったよぅ…。」
僕は彼女の頭を撫でて、ハンカチを渡した。
「大丈夫?よしよし。がんばったね。えらかったね。僕が付いてるから、ここで少し休んどこうね?」
僕は、彼女の震える背中を、ずっとずっとさすっていた。テヒョンって、いつも、こんな気持ちなのかな…。だとしたら、なんて辛いんだろうか。代わってあげることも、何もできない無力感を、僕は初めて感じていた…。
「ぐすん…先生や、看護師さん達がいっぱいいて、みんなで私を抑えつけたの…全く動けないし、叫ぶことしかできなかった…。」
「うんうん、分かるよ…。無理矢理抑えつけられるとさ、自分がすごく弱くて無力な感じがしない?」
「うん、まるでジェットコースターに乗せられて安全バーがおりたみたいな…。すごく怖いし惨めだった…。」
僕は本当は、遊園地に行ったこともジェットコースターに乗ったことも無かったけれど、うんうんと頷いた。
「釘みたいな太い針を、ここの腰のところにぐりぐり突き刺されたの。痛くて痛くて死ぬかと思ったよ(泣)」
彼女は震える手で入院着の上衣を少しめくって、腰に貼られた大きなガーゼを見せてくれた。僕はそこにそうっと触れて、優しく撫でた。どんなに痛かっただろう…。
「骨髄液を抜く時は、ヒュウっていう、すごく嫌な感じがするんだよ…。もう嫌だよ…痛い検査ばっかり。どうせ病気だって、良くならないのに…(泣)」
僕は、彼女の気持ちが分かりすぎて、もう何も言えなかった。僕にできるのは、唯一動く右手で、背中をさすってあげることだけ…。
しばらくしたら、彼女は少し落ち着いてきた。涙が溜まった目で僕を上目遣いで見て、
「オッパ〜。お散歩…連れて行ってくれるんでしょ?」
「う、うん…。」
連れて行くと言ったって、僕車椅子で歩けないんだけどな…。
「私ね、久しぶりにお洋服着たい。一着だけ、ロッカーにお気に入りのワンピースが入ってるの。もう長いこと着てないけど…。着替えてくるから、一緒にお散歩行こ?ねぇいいでしょう?」
「いいよ。じゃあ、着替えたらラウンジに集合ね。」
もしかしてこれって…デート?いやいや、そんなんじゃないよね…。
僕は急いで病室に戻り、ロッカーに入っている、唯一の私服を取り出した。紫のパーカーに、チノパン。今は夏だから厚着だったけれど、病室においてある服はそれしかなかった。靴はないから、サンダルで仕方ないよね…。
さすがにナースコールは呼べないから、1人で焦って着替える。ズボンにベルトをしたかったけど、片手ではどうしても上手くできなくて諦めた。なんとかパーカーを着てズボンを履くと、僕は急いで車椅子に乗った。
ラウンジに行くと、彼女は白いワンピースを着ていつもの場所に座っていた。薄っすらピンクのリップを塗って、髪はポニーテールにしていて、見違えるようにかわいい。
僕は、せつなくて、恥ずかしくて、嬉しかった。
彼女が僕の車椅子を押してくれて、一緒に寄り添うようにエレベーターに乗り、中庭に出た。
病院のお庭はとても気持ちが良かった。外に出るのは久しぶりだった。空気がおいしくて、蝉が鳴いていて、草木の匂いがする。
日陰になったベンチの横に車椅子を付けて並んで座る。僕は持ってきた薄いブランケットを、彼女の膝にかけてあげた。
そして僕たちは、ずっと話をしていた。
彼女はワンピースの袖口から出た細い腕を僕に見せてくれた。
「ねぇ見て。点滴と採血をしすぎて、こんなにボロボロになっちゃった…。私血管が細いから、刺せる場所がだんだん無くなってきちゃったんだって。いっつも何回も刺し直しになっちゃうんだよ。汚いよね。」
僕は彼女の腕の注射跡をそっと撫でながら言った。
「そんなことない。全然汚くなんかない。それに、僕だって同じなんだよ。」
僕もパーカーの袖をめくって、注射跡だらけで紫色になって、今も点滴の置き針が刺さっている腕を見せた。普段は絶対に他人に見られたくないと思っている腕を、自分から見せたのは初めてだった。
それから僕は、彼女の手をそっと握った。
学校に行けていないこと、家族のこと、もし退院できたら何をしたいか…。話は尽きなかった。
でも僕は、彼女の病名を訊けなかったし、彼女も僕の病名を、訊いてこなかった。僕たちは怖かったんだと思う。自分の病気だけでもいっぱいいっぱいなのに、相手の病気を背負うことが…。僕たちはただ、たわいない話をしながら、ずっと手を握っていた。
1時間ぐらいはそこにいただろうか。そろそろ戻らないと、看護師さんたちに怪しまれちゃうかも。
彼女がまた車椅子を押してくれて、僕たちは病棟に戻った。
ラウンジで分かれようとしたその時…彼女は突然屈んだかと思うと、車椅子に座る僕の顔に、自分の顔を近づけてきた。え?と思った瞬間、彼女は、僕の唇にキスをした…。
僕はびっくりして彼女を見上げたけど、彼女は「じゃあね、ありがと!」と言って病室に入って行ってしまった。
僕は突然のことに戸惑って、この気持ちをどうしていいか分からなくて、しばらくそのままラウンジで窓の外を眺めてた。リップを付けたかわいい彼女の唇と、その感触が、ずっと残っていた…。
その時、ナースステーションで話すジン先生の声が、僕の耳に入ってきた。
「ジミナみたー?なんか私服に着替えてさ、女の子とデートしてんの。車椅子押してもらってさぁ。この暑いのにパーカー着てたよ。アハハ」
それをきいた瞬間、僕の頭は真っ白になった…。思考が、停止した。
僕は、誰にも気付かれませんようにとそれだけを考えながら、震える手で車椅子を動かして、病室に戻った。
早く…早く入院着に着替えて、病人に戻らなきゃ。病室で私服なんかを着ている自分が滑稽で、恥ずかしかった。
震える右手でパーカーとズボンを脱いでロッカーに投げ込む。入院着をはおったけど、紐は結べないからそのまま…。焦ってズボンも途中までしか履けてなかったけれど、もうどうでもよくなって、僕はそのまま布団をかぶった。
デート…?キス…?少しでも浮かれた自分が、惨めだった。
1人で着替えも出来なくて、車椅子で、トイレや食事すら満足にできない僕が、女の子とデートなんて…。
僕は、恋愛なんか、しちゃいけないんだ。一生無理だ。
だって生きてるだけでこんなにもみんなの世話になってるんだから…女の子1人を守ることなんて、とてもできない。
もう、僕の中に残っている感情は、絶望しか、無かった…。
僕は布団の中で、むせび泣いた。嗚咽が外に漏れないように、布団をかぶって。涙がボロボロとこぼれ落ちて、シーツが濡れていくのが分かった。
泣きすぎて、心臓が痛い…苦しいよ…。
今度こそ、このまま死ねますように…。
そんなことを考えている、自分がいた。
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