テラーノベル
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「さっくん、手紙届いてたで〜」
「ありがとね〜」
自室で漫画を読んでいると、康二が手紙を持ってきてくれた。
見慣れた水色の便箋は、ユキちゃんからのもの。
でも、それは、いつもと少し違っていた。
いつもなら綺麗に並んでいる文字が、今日はとても歪んでいて、線の一本一本がガタガタと震えていた。
俺は、嫌な胸騒ぎがした。
ユキちゃんとは今でもずっと手紙を送り合っている。
この組に入った時に、一番最初にもらった給料で切手とレターセットを買って、しばらく出せていなかった分、たくさん書いたのを思い出す。
仕事が見つかったこと、ちゃんと元気にやっていること、住み込みだけどしっかり家に住んでいること、周りの人たちがとてもいい奴だってこと、伝える順番なんて考えず、話したかったことをたくさん書き連ねた。
返ってきたユキちゃんからの手紙には、
「大ちゃんが元気そうでよかった。私も細々ですが、やっと生活が安定してきました。身体に気を付けて、たくさんお仕事がんばってね」と書かれていた。
その文面に、16歳の俺は首を傾げた。
細々…?やっと安定してきたって、どういうこと…?
と、得体の知れない不安と疑問が一気に押し寄せた。
そんなはずがなかったからだ。
その時の俺は、親戚の人がユキちゃんにちゃんとお金を渡してくれていると思っていたから、ユキちゃんが大変なわけがないって、そう信じていた。
しかし、そんなわけはなかったんだ。
その時になって、親戚の人は俺との約束を守ってくれていなかったことを悟った。
俺は、狂いそうになる程の怒りを覚えたが、手に持っていたユキちゃんからの手紙がグチャグチャになってしまわないようにと、綺麗に畳んで箱にしまった。そこに気を遣えるくらいの理性だけを持ち合わせて、俺は手のひらに爪で穴が開くんじゃないかというくらいに拳を握り締めながら、ふっかの部屋に向かった。
「ふっか、入っていい?」
「ぁいぁい、いいよー」
俺はふっかが中にいることを確認してから、思い切り襖を開け放ってふっかに尋ねた。
「ふっか、お金ってどうやって送るの」
その後すぐ、俺はふっかに郵便屋まで連れて行ってもらって、もらった給料を全部封筒に入れてユキちゃんに送った。
「あらま、こないだ入った初給料全部入れちゃうの?」
「うん、俺の大事な人に使って欲しいんだ」
「…そ」
それからも毎月、俺はほとんどのお金をユキちゃんに送り続けた。
お金でどうにかなるのかは分からなかったけど、幸せになって欲しかった。
子供の時からわかっていたから。
お金があれば困らないって。
手紙のやり取りはそれからも続いて、ユキちゃんはいつも、送られてくるお金への申し訳なさと、俺の体の心配ばかりの手紙をくれた。
反対に、俺はユキちゃんの心配と、美味しいものをたくさん食べて欲しいと、そればかりを書き続けた。
ある時、ユキちゃんの住所が変わっていることに気付いて、何の気なしにその場所を調べてみた。そこは屋敷の近所に建っていた病院の住所だった。
どこか悪いのかと、俺は屋敷を飛び出して、その病院に向かった。
受付でユキちゃんの病室を教えてもらって、急ぎ足で部屋の前まで来ると、息も絶え絶えのままノックをした。
「はい」と小さな声が聞こえてきたので、俺はドアを開けて中に入った。
そこには、顔色の悪い、最後に見た時とは見違えるほどにやつれてしまっているユキちゃんがいた。
「あら、大ちゃん、来てくれたの?」
つい昨日会ったばかりかのように話しかけてきてくれるユキちゃんは、ふわっと優しく微笑んでいるはずなのに、俺にはその笑顔が辛かった。
でも、きっとユキちゃんは俺がいる時は、辛いとか苦しいとか、そういうのを見せたくないんだろうなって感じたから、俺もそれに合わせた。
「ユキちゃん、久しぶり!住所が近所だって気付いたから来ちゃった!突然ごめんね!」
「ううん、嬉しいわ。久しぶりに大ちゃんに会えて。大きくなったわね」
「そうかな、あんま身長は伸びなかったんだけどね」
「それでも、私には大ちゃんが立派になったように見えるわ。まぁ、綺麗な髪ね」
「へへ、大事な人とお揃いの色なんだ!」
「そうなの、よかったわ。大ちゃんに大切な人ができて。恋人かしら?」
「えっ!?違うよー!!でも、すんげぇ尊敬してて、すんげぇ大好きな人」
「ふふふ、そう。いつか大ちゃんに恋人が出来たら、ぜひ会ってみたいわ。きっと素敵な人なんでしょうね」
そんな言葉を交わした日が懐かしい。
それから今に至るまで、ユキちゃんはずっと入院している。
「ちょっと風邪を拗らせちゃったのよ」
なんて、平気なふりをしてユキちゃんは俺に笑いかけたけど、あれはきっと、ユキちゃんの優しい嘘だったんだと思う。だって、一向に回復の兆しが見えなかったから。
町内のパトロールに出かけるたびに、俺はお見舞いに行った。
ユキちゃんはいつだって俺の話に笑ってくれて、元気そうに振る舞っていた。
でも、たった今、ユキちゃんが必死に書いてくれた震える文字を見て、俺は、もうすぐこんな日に終わりが来てしまうんじゃないかという不安をひしひしと感じた。
今すぐに病院に行かなければいけないような気がした。
上着を引っ掛けて、部屋を出ようと襖を開けると、部屋の前に坊を抱いた翔太が立っていた。
「ぅぉ!?翔太、どした?」
「今日、パトロール連れてってくれるんでしょ?佐久間来ないから迎えに来た」
「ぁ、そうだった。ごめんごめん」
「早く行こう。俺、涼太のこと康二に渡してくるから」
「お、おぉ…」
翔太は要件だけ俺に伝えると、トテトテと足音を立てながら台所へ向かって行った。
昨日から翔太が張り切っていたことを、今思い出した。
毎日特訓を頑張っている翔太は、もう随分と強くなった。
少し前から、手合わせをする相手が俺からめめに変わって、翔太は昨日やっと、めめの拳をかわしてから小さい体を潜り込ませて、めめの体に一発入れることができた。
俺もめめも、翔太の成長が嬉しくて、二人で翔太を胴上げした。
翔太はこの遊びが好きらしく、そうやって体を上に軽く放り投げる時だけは声を上げて笑ってくれる。
遊びなのかお祝いなのか分からなくなってきた頃、三人が三人とも、ひとしきり満足して、俺たちは翔太の体を武道場の床に下ろした。
めめはしゃがみ込んでから、翔太の頭を撫でて言った。
「明日はちょっと違うことしてみようか」
「違うこと?」
「パトロール、行ってみようか」
「!ん、いく」
分かりづらいが、翔太はかなり嬉しそうだった。
今日の朝も、ご飯を食べながら阿部ちゃんとラウールに「今日、勉強終わったら佐久間とパトロール行く」と話していた。
パトロールとはいえど、大抵は町中を歩いて終わりなのだが、こんなに楽しみにしてくれている翔太に、今更一緒に行けないとは言えなかった。
玄関に向かいながら、どうしたものかと考えを巡らせていると、不意にユキちゃんの声が脳内に蘇ってきた。
「大ちゃんの新しい家族、みんな面白い方ね。そんな人たちに出会えてよかったわね。いつか退院したら、ご挨拶させていただきたいわ。大ちゃんと出会ってくれてありがとうって、これからもよろしくお願いしますって」
病気で辛そうでも、ユキちゃんの透き通った声はいつも変わらなかった。
ユキちゃんが願う「いつか」を叶えてあげたかった。
病気は治せないけど、俺の家族に会わせてあげることならできるかもしれない。
翔太は嫌がるかどうか分からなかったから、聞いてみることにした。
俺は、玄関で俺が来るのを今か今かと待っていた翔太に尋ねた。
「翔太、パトロールの後、行きたいとこあんだけどさ、行ってもいい?」
「どこ?」
「…俺のもう一人の家族に会いに行きたいんだ」
「いいよ」
「ありがと!」
出会った頃から翔太は表情に乏しい子だったが、今も表情一つ変えずに了承してくれた。特に嫌そうには見えなかったから、嫌な気持ちにはなっていないなと、俺はひとまず安心した。
この子の境遇に比べたら、俺の生い立ちなんてちっぽけなものだ。
翔太は、誰かの家族に対して何を思うのだろうか。
家族、いや。大人、親というものに対して何を感じるのだろうか。
俺は、身勝手な存在だと常に思っていた。
自分の思い通りに支配しようとする父さんにも、何がそこまでさせるのかというくらいに束縛してくる母さんにも、約束の一つも守ろうとはしなかった親戚の人にも、俺は何一つ尊敬の気持ちは持てなかった。今後、何一つ関わりたくなかった。
翔太も俺と同じタイプのように感じる。
毎日一緒に過ごしているが、翔太の中に母親に会いたいという気持ちはあまりないように見える。血が繋がった肉親よりも、俺たちと、なによりも坊を本当の弟のように大切にしてくれる。
翔太から直接話を聞いたことはないが、あの子がどんな風に生きていたのか、大体のところは俺たちの中で見当がついている。
酷い、なんて言葉では言い表しきれないだろう。
昔、照からも照の家族の話を聞いたことがある。
その時も、翔太がこの家にやってきた時も、俺が思うことはただ一つだけだった。
親なんて、大人なんて、ろくなもんじゃねぇ。
この手の話になると、俺は自分の記憶も相まって余計に怒りの気持ちでいっぱいになる。それを表面に出すことはしないが、俺はいつだってそういった存在に憤っていた。
それに引き換え、今、俺の隣を歩く翔太は、俺から「家族」という言葉を聞いても特段何も感じていないように見えた。
興味がないのか、自分を守るために感情が鈍くなってしまったのか定かではなかったが、俺は翔太をすごいと、素直に感じた。
パトロールも無事に終わって、俺たちはコンビニへ向かった。
「悪い奴いなかったね」と少し残念そうに言う翔太に「悪い奴いて欲しかったの?」と少し笑いながら聞いた。
「いたら、俺がやっつけられた。外出ても良いってことは、俺、もう涼太守れるってことでしょ?」
「そうだね、翔太強くなったもんね。でも、もう充分守ってくれてるよ?」
「そうなの?」
「そうだよ!毎日坊と遊んでくれて、屋敷の中で守ってくれてる。ありがとね」
「…普通のことしてるだけだし」
褒められるのに慣れていないのか、翔太はそっぽを向きながらそう答えた。
素直じゃないのに、逆にそこに可愛げを感じるから翔太は面白い。
出掛ける前に持ってくるのを忘れてしまったマスクを、大人用と子供用と二つ買ってコンビニを出た。
「その白いの、この前阿部ちゃんも顔につけてた。何に使うの?」
「今から行くところで使うんだよ、風邪ひかないように」
「風邪?」
「翔太風邪引いたことない?」
「うん、よくわかんない」
「そりゃ丈夫だね!強い子じゃん!」
「!俺強い?佐久間倒せる?」
「ふははッ、その強いじゃないけど、倒してみろー!」
「この前佐久間に一発当てられたもん」
「ぐぬぅ…生意気な奴め…!」
病院に入る前にマスクをつけて、余ったものはポケットに突っ込んで、自動ドアを翔太とくぐった。
受付の人に面会に来たと伝えて、渡された二つの札を俺の首に下げたあと、しゃがんで翔太の首にもかけた。
初めてつけるのか、翔太はマスクに少し煩わしそうな顔をしながら、俺から掛けられた札を触っていた。
はぐれないように翔太と手を繋いでエレベーターに乗り、ユキちゃんのいる病室まで向かった。
ユキちゃんの部屋のドアをノックしたが、返事はなかった。
「ユキちゃん、入るよ」
外で一言声を掛けて、中に入った。
ユキちゃんは眠っていた。
機械的な音を鳴らす酸素マスクが痛々しかった。
「ユキちゃん、一ヶ月ぶりだね。」と声を掛けると、ユキちゃんの目が僅かに開いて、俺と目が合うと、ゆっくりと体を起こしてくれた。
「……よいしょ、、大ちゃん、今日も来てくれたの?」
「うん、今日も来た。ほんとは毎日でも行きたいくらいだよ?」
「お仕事忙しいだろうに、ありがとうね。あら、その子は?」
「俺の今の家族」
「まぁそうなの。可愛い子ね、こんにちは、名前はなんて言うの?」
「翔太。おばさんは誰?」
「翔太くん、素敵な名前ね。おばちゃんはユキって言います。大ちゃんのお友達です」
「ユキちゃんは俺の家族、今の翔太の歳くらいまで俺を育ててくれたの」
「ふーん。ユキおばさんは佐久間の母親なの?」
「ううん、血は繋がってないから、ユキちゃんはお母さんじゃないけど、俺にとっては母さんみたいな人なんだ」
「そうなんだ。」
「今日は素敵な日だわ。…っごほッ、、っ、だいちゃんの、、っげほッ…かぞくに会えて、っ」
「ユキちゃん!大丈夫!?」
「っだいじょうぶ…よ…っ、ごほッ、え”ほッ!!!」
「なんか飲む!?息できてる?!無理しないで…!」
さっきまで普通に話していたユキちゃんは、急に苦しそうに咳をし始めて、やっぱり手紙を見た時に感じた不安は気のせいなんかじゃなかったんだって、一気に怖くなった。
連れて行かないでよ。
まだまだユキちゃんと生きていたいんだよ。
離れたくない、ユキちゃん、先に行かないでよ。まだここにいてよ。
寂しさ、喪失感、恐怖、底の無い不安で俺の心がいっぱいになっていく。
力が抜けたように体をまたベッドに預けて寝転がってしまったユキちゃんの姿に切なくなって、目頭と喉が焼けるように熱くなる。
視界が歪むからと前が見えるように瞬きをすれば、ぽたぽたとこぼれ落ちる雫が止まらない。鼻が詰まって息苦しくなる。
「ゆ“ぎち”ゃん“ッ、、くるしいの…?おれっ、ッなにしたらいい…っ?」
情けないくらいこんな時、どうしたら良いのかわからない。
お医者さんを呼ばなきゃって、それだけが頭に浮かんで、ベッドの脇に垂れ下がっていたリモコンのボタンを強く押した。
早く来てくれと願うようにリモコンを強く握りしめたままの俺の震える手に、ユキちゃんが弱々しく触れた。
「だいちゃん…そこに、、はこ、、っ、っひゅッ…」
もう片方の手を伸ばして、ユキちゃんが指差した先には、一つの箱があった。
「箱ね、わかった…っ!これ、どうしたらいい!?」
「そのなかに、だんなさまと、おくさまから…っごほッ、だいちゃんへのてがみ、、ッげほッ、、っはぁ、はぁッ…」
「ユキちゃんもう喋んなくていいから!!お願いだから!!」
「ッはぁっ、はぁ、、、っすぅ、かひゅッ、、、っ大ちゃん」
「なぁに?どうしたの?」
ユキちゃんは止まらない咳をなんとか押し殺して、忙しない息を精一杯で整えて、俺に言った。
「旦那様と奥様は、これまでに無いほど、大ちゃんを愛していらっしゃいましたよ」
ユキちゃんは微笑みながら俺に言ってくれたその言葉を最後に、気絶するようにまた眠ってしまった。俺の口からは「……へ…」という言葉なのか吐息なのか判別のつかない音だけが出て行った。
そのタイミングで看護師さんが中に入ってきたようで、俺の体は後ろに下げられた。
「失礼します!患者さん見ますから少し下がってくださいね!」
「ユキちゃん!ユキちゃんッ!」
「下がってください!落ち着いて!」
「行かないでッ!!!ゆ”ぎち“ゃん”ッ!!!!や“だッ!!!」
置いて行かないで。
独りにしないで。
まだ二人でいろんな話してようよ。
ユキちゃん、俺の恋人に会いたいって言ってたじゃん。最近やっと付き合えたばっかりなんだ。三人で行ったら驚かれちゃうかな。
まだ他にもたくさん家族がいるんだ。みんないい奴なんだ。
親父にも会わせたかった。俺が世界一尊敬してる人なんだ。
今すぐみんな連れてくるから、なんでもするから、目開けてよ!!!!!
「ぅ“ぁ”ぁあぁッ、、ゆきちゃん…ゆきちゃ…ッ」
俺がユキちゃんにしてあげたかったこと、沢山あった。
ユキちゃんが夢を見るように願った「いつか」は、ささやかだけど色々あった。
でも、俺は何一つ叶えてあげることができなかった。
今だって、終わりに向かって行こうとするユキちゃんを繋ぎ止める方法さえ何も分からなくて、看護師さんの動きを遠巻きに見ていることしかできない。
何もできない無力感に囚われながら、床に這いつくばる俺に、翔太が静かに声を掛けた。
「佐久間、ちゃんと見ててあげなよ」
「…へ…?」
「見て、ユキおばさん笑ってるみたい」
俺はゆっくりと顔を上げて、看護師さんの隙間からユキちゃんの顔を覗き込んだ。
確かにユキちゃんの口角は上がっていて、その顔は看護師さんに処置をされつつも、穏やかに寝ているように見えた。
幸せな夢を見ているような表情だった。
「佐久間が来て嬉しいって言ってた」
「うん」
「俺のこと知らないのに、俺見て嬉しそうにしてた」
「うんっ…」
「ユキおばさん、佐久間にありがとうって言ってたよ」
「え?」
「涼太にご飯食べさせてると、涼太、いつも笑うの。なんで涼太はご飯食べさせると笑うの?って康二に聞いたら、そうやってありがとうって伝えてるんだって言ってた。ユキおばさんもおんなじ顔してた」
「ぅ“ん”ッ、そっか、、そうだね、、そうだといいな…ッ」
俺は、ユキちゃんに何か返せたのかな。
生まれた時からずっとユキちゃんと一緒にいた。
ユキちゃんは何も言わなかったが、父さんと母さんがいなくなってから、沢山苦労したのだろう。俺が屋敷で暮らすようになってから初めて返ってきたユキちゃんの手紙を見た時から、そんな予感はしていた。
親戚の人からの送金もないまま、ユキちゃんは一人で生きて行かなければならなくなったのだろう。初めてこの病室を訪れた時にその予感は的中した。
年齢としてはまだ若いはずなのに、こんなに優しくて心の綺麗な人が、なんでこんなに早く旅立ってしまうんだろう。
俺はただただ悔しかった。
ユキちゃんはもう目を開けなかった。
働き者のユキちゃんは、ずっとずっと働き続けたその体を休めるように永い眠りについた。
未婚だったユキちゃんの肉親は、ユキちゃんよりももっと先に旅立ってしまっていたようで、俺の後に病室に来る人はもちろんいなかった。
看護師さんは、俺に「手続きは佐久間さんとさせていただく形でよろしいですか?」と作業的に言った。
俺でいいのかなと思う前に、反射的に「はい」と答えた。
俺がやりたかった。
最後の最後まで、ユキちゃんを見送りたかった。
それが、俺にできるユキちゃんへの最後の恩返しな気がしたから。
小さな葬儀会場で、俺と、棺の中で眠るユキちゃんと二人きりの空間。
部屋中に渋い線香の匂いが漂っている。
「ユキちゃん、俺、あの箱まだ開けられてないんだ」
「ちょっと怖くてさ」
「そんな箱あるなんて知らなかったよ。今まで持っててくれてありがとう」
返事は返ってこないって分かっていても、俺は喋り続けた。
何か音を立てていないと、寂しすぎて泣いてしまいそうだったから。
子供の頃から、静かな空間が苦手なんだ。
独りぼっちだって気付いてしまうから。
式が始まる五分前に、誰かが階段を登ってくる音が聞こえた。
式場の人かな?と思って後ろを振り返ると、そこには見慣れた家族の姿があった。
「よ」
「ふっか!?」
「こんな大事な式あるなら呼んでよ」
「ひかる!?」
「さっくん水臭いで?」
「こうじ…」
「綺麗な人だねー!優しそうな人」
「ラウールまで」
「佐久間くん、なんで俺たちに教えてくれなかったんすか」
「めめ、、、ごめん…」
「そうだよ?俺たちは家族でもあるし、こ、恋人でもあるんだからなんでも言ってよ」
「あべち“ゃ…ぐすっ……」
「大介くんの大切な人、僕たちにもお見送りさせてくれるかな?」
「ぉ、親父!?お仕事は!?」
「ふふ、辰哉くんが明日に回してくれたの、涼太も一緒にバイバイしようね」
「ぁいっ!」
なんでみんながここにいるんだ?と思考を巡らせて、一つの答えが浮かび上がった。
俺は、めめと手を繋ぎながらいつも通りのぼーっとした顔で俺を見上げる翔太に尋ねた。
「もしかして、翔太がみんなに教えてくれたの?」
「うん。」
「…っ、ありがとうな、、ッ」
ユキちゃん、俺の家族、みんなすげぇ良い奴でしょ?
毎日、こいつらと楽しくやってるよ。
俺も、ユキちゃんと同じところに行ける日がそのうち来るだろうから、それまでは待っててくれると嬉しいな。
その時は、またいろんな話、しようね。
「めめ、ちょっとこれ持ってて」
「うん、いいよ」
「作法とか軽くは調べたんだけど、間違えちゃったらどうしよう」
「大丈夫大丈夫!ユキちゃんそんなことで怒んないから!」
「阿部ちゃんは心配性だね、三人でいれば、なんでもきっと大丈夫だよ」
「そうかなぁ」
ユキちゃんの葬式も手続きも無事に終わって、あれから一ヶ月が経った。
今日は、めめと阿部ちゃんと三人で、ユキちゃんのお墓参りに来た。
墓石に水をかけて、花を手向けて、線香を焚いて。
一通りの手順を踏んでから、三人並んで手を合わせた。
ユキちゃんは、俺が送り続けたお金を一円たりとも使っていなかった。
最期に渡された箱の中に、三通の手紙とユキちゃんの通帳が入っていた。
通帳の中には、俺が毎月送ったお金を、律儀に全部入金していた履歴が印刷されていた。
使っててくれたら、こんなに早くお別れすることはなかったのかな、なんて野暮なことは考えないようにした。
通帳の中に挟まっていた小さな紙に、「大ちゃんが幸せになれることに使ってください。ありがとう」という言葉と口座の暗証番号が書かれていたから。
ユキちゃんが選んで使わなかったのなら、それを尊重したかった。
俺が幸せになれること、うまく想像はつかなかったから、俺はそのお金でユキちゃんのお墓を立てた。
それが、今の俺にとっての幸せだと思ったから。
「ユキちゃん、遅くなっちゃったけど、俺、やっと好きな人ができたんだ。俺の恋人たち」
お墓の中にその人はいない、なんてよく言うけど、それでも俺は伝えたかった。
「めめと阿部ちゃんっていうの。めめは強くて、阿部ちゃんはすんごいあざとくてかわいいの」
「めめと二人で、阿部ちゃんに何回も告白したんだよ」
「この間、やっと阿部ちゃんが振り向いてくれたの。俺、今すげぇ幸せなんだ」
「ユキちゃん、今までありがとう。また来るね」
立ち上がって、二人の方を振り返る。
二人とも、優しい顔で笑ってくれていた。
「帰ろっか!」
無理なんてしていない、心からの元気を込めて、二人にそう伝えた。
俺たちは阿部ちゃんを真ん中に挟んで、手を繋ぎながら屋敷へと続く道をゆっくり歩いて行った。
その日の夜、俺は自室に籠って、未だに読めていない三通の手紙と見つめ合っていた。
ユキちゃんからのもの。
父さんからのもの。
母さんからのもの。
ユキちゃんのものはすぐに読めそうだったし、すぐにでも読みたかったけれど、父さんと母さんの手紙には何が書いてあるのか、全然想像もつかなくて、開けるのが怖かった。
長い間、じっとその手紙たちと睨めっこしていると、部屋の外から
「佐久間、入っていい?」と翔太の声がした。
「ぉよ?どったの?いいよーん」
と答えると、翔太は坊と一緒に部屋に入ってきた。
「今日、佐久間とお風呂入る日。早く入ろう」
「ぁ、ゃべ!忘れてた!ごめんごめん!行こう!」
「それなに?」
翔太は、床に広げられた三通の紙切れを指差して、俺に聞いた。
「ん?これ?手紙だよ」
「てがみ?」
「そう、字を書いて、相手に送るの」
「へー、佐久間がもらったの?」
「そうそう、ユキちゃんと父さんと母さんから」
「ユキおばさん、もう会えないの?」
「そうだね、もう会ってお話はできないけど、お墓まで会いに行くことはできるよ。」
「そっか。………読まないの?」
「いや、読みたいんだけど、勇気が出なくて…」
「じゃあ、一緒に読んであげる。読み終わったらお風呂入ろ」
「お、おう…」
お風呂好きの翔太は、早くお風呂に入りたいのだろう。
それでも俺のことを優先してくれる、そんな天邪鬼な可愛い子に半ば強引に促されるまま、俺はまずユキちゃんからの手紙を開いた。
ーー
大ちゃんへ。
この手紙が、大ちゃんの元へ届く日が来ることを願っています。
大ちゃんが産まれたとき、旦那様と奥様は一通ずつ大ちゃんにお手紙を書いていました。
でも、旦那様は「大介が20歳になったら渡すんだ」と言って隠してしまったので、お二人が亡くなった後、私が引き継ぎました。
お家が壊されてしまうとき、私はこれだけは絶対に失くしちゃいけないって、そればかりを思って過ごしたものです。
心の優しい大ちゃんが、いつまでも幸せでいられますように。
離れていても、ユキはいつでも大ちゃんのことを思っていますよ。
大人になってからも、私を大切にしてくれてありがとう。
体に気をつけてね。
「…っ、ゆきちゃん…んぐっ…」
「ぇんぇん?」
「涼太、佐久間は今手紙読んでるから静かにしてよう?」
「んぶぅ」
「佐久間、これ貸してやる」
「ぇぐッ、ぁりがと…っ」
翔太が手渡してくれた白い犬のフード付きのタオルで目を拭きながら、俺は次に父さんの手紙を開いた。
ーー
大介
今日、お前が産まれてきてくれたことを私はとても誇りに思う。
お前は私と母さんの宝だ。
お前をきっと立派な大人にすると誓う。
それによっては、もしかしたら、お前に厳しいことばかり言ってしまうかもしれない。
私の仕事柄、お前に充分な時間をかけてやれないかもしれない。
それでも、私はどんな時でもお前を愛している。
これだけは決して変わらないからな。
続けて、母さんからの手紙も開いた。
ーー
大介へ
今日、あなたが産まれてきてくれたことが、私の人生の中で一番の幸せです。
お父さんのお仕事についていってばかりの私は、この先もあなたと一緒に過ごせる機会は少ないかもしれません。
そばにいてあげられなくて、ごめんね。
あなたはずっと、私とお父さんの宝物。
どこにいても、大ちゃんをずっと見守っているからね。
お母さん、心配性だからついつい過保護になってしまいそうで、大ちゃんを困らせないようになるべく気を付けるけど、今はまだ少し自信がないの。
鬱陶しいかもしれないけど、大目に見てやってくれたら嬉しいわ。
私は大ちゃんをずっと愛していますよ。
全ての手紙を読み終えて、俺はその場で苦しくなるほどに嗚咽した。
ボタボタと零れ落ちる涙が、手紙に落ちて文字を滲ませた。
「…っ、やっぱ身勝手だ…っ、そういうことは、っぅ”、ずびっ、先に言っといてよ…ぅぁあぁぁあ”ッ」
父さんの厳しさと期待が、
母さんの加護と愛情が、
今になってやっとわかった。
俺もほんとは大好きだったよ。
わからなくなっちゃって、苦しくなっちゃって、二人からの気持ちからずっと目を背け続けてたけど、ほんとは俺も二人が宝物だったんだよ。
だから父さんの期待に応えたかった。
だから母さんの過保護がなんだかんだ幸せだった。
「会いに行かないの?」
「っ、ぅえ…?」
「ユキおばさんみたいに、会いに行かないの?」
「………ぇっと…二人とももういないから…」
「じゃあ、おはか?まで会いにいけばいいじゃん」
「ぅぐ…」
やっぱり頭いいなコイツ…。
でも、確かに、今なら会いに行ける気がした。
二人への誤解が解けて、自分の凍った心も溶けた今なら、ちゃんと二人の前に顔を出せそうな気がした。
姿形は無くても、それでも会いたかった。
「うん、そうだね。明日会いに行くよ」
「じゃあ、明日パトロール終わったら行こう。」
「そうだった、明日も翔太とパトロールだったね。」
「だから、早くお風呂入ろ。」
「ぉぅろ!」
「にゃはは!坊もお風呂好きだもんね!お待たせ!」
今までにユキちゃんから貰った手紙を入れている箱に、三通の宝物をしまってから、俺は翔太の後に続いて脱衣場へ向かった。
いつもと変わらない町を一通り歩いて、スーパーで花を買ってから、両親が眠る墓へ翔太と向かった。
墓の場所は知っていたが、今まで行こうと思ったことがなかった。
三通の手紙と、翔太の言葉が無ければ会いに行こうなんて、きっと一生思わなかっただろう。
「俺もなんかやる」
「ありがと、じゃあこのお花あそこに刺してくれる?」
「わかった、これでいい?」
「うん、おっけおっけ」
この間ユキちゃんの墓参りに行った時に余った線香に火をつけて、幾らか束にして供えた。
「手合わせて?」
「こう?」
「そーそー、それで挨拶するの」
「おはようって?」
「うん、ちっと違うかな。なんでもいいよ、翔太が話したいこと、心の中で話してごらん」
「わかった」
伝えたことを素直に聞き入れくれる翔太は、手を合わせながら目を閉じた。
翔太の姿を見届けてから、俺も同じように手を合わせて目を閉じた。
父さん、母さん、今まで会いに行けなくてごめん。
俺、今までどんな顔して二人に会いに行けば良いのかわかんなかったんだ。
二人が生きてた頃、二人の愛情が理解できなかった。
今になってやっとわかったよ。
父さんと母さんが、どんな気持ちで俺に接してくれてたのか。
たくさん愛してくれて、ありがとう。
二人とも愛し下手だけどね。
もし、まだどこかで見守っててくれてるならもう知ってるかな。
俺今ね、新しい家族と、大好きな恋人と、毎日すげぇ幸せに暮らしてるよ。
父さんと母さんが俺を大事にしてくれたから、きっとあいつらに会えたんだと思う。
本当にありがとう。
言いたいことを全て言い終えて、俺は目を開けた。
横に目をやると、翔太ももう目を開けていて、俺が終わるのを待ってくれていた。
「ありがと、終わったよ。帰ろっか!」
「うん」
「なんか買って帰る?翔太、なんか食いたいもんある?奢ってやるぞ!」
「佐久間のお金ならいいよ。俺、阿部ちゃんに怒られたくない」
「ぅっ、、組のお金で買ったことないよー!何食いたい?佐久間さん、なんでも買ったげる!」
「あれ食いたい。赤と黄色の味がかかってる、甘いやつ」
「んにゃ?なんだそれ」
「この前、康二が朝ごはんの時に俺にだけ入れてくれたやつ」
「…あぁ!アメリカンドッグね!任せろ!!」
俺たちは手を繋ぎながら、かけがえのないもう一つの家族が待っている家路を辿りつつ、コンビニへ向かった。
大人なんて、親なんて、みんな身勝手だ。
その考え方は今でもあまり変わらない。
でも、そこには、彼らなりの曲げられないものと、深い愛情が秘められていた。
そう気付けた俺は、翔太の手をしっかりと握って、 青く澄み渡った空の下をゆっくりとした歩幅で進んで行った。
鉄砲玉への手紙 完
続
コメント
17件
三文小説さんが書くお話大好きです!続き楽しみです!
ご無沙汰してます!まきぴよさんにオススメされて一気読みしました😭😭😭 辛いけどあたたかくて、誰もが心のわだかまりを翔太くんに解かれていく優しいお話。 めっちゃ面白かったです!続きも楽しみにしてます🥺