「こんばんは。今日はわざわざお越しくださりありがとうございます」
場を仕切るのは、課長のお母様……いえ、いずれわたしの義母になる方だ。
「いいえー。莉子の父と母です。……まあ三田様はお若くてお綺麗で……遼一さんは、お母さまにそっくりですのね……!」
流石は母。社交辞令も忘れない。
「三田の父です。……初めまして。まあ、流石莉子さんのお母様なだけあって、お美しい……!」
「ちょっとあなたぁ……」
「ああ、すまんすまん」頬を緩める課長のお父様は、「さぁ。立ち話もなんですから、入りましょう……」
「はい」
「綾音は、まだ戻らんのか」
「ああ、ちょっと電話してくるって……」
「まったく仕方がないやつだな」
「でもあの……」本日の主役であるわたしは、ロングワンピに身を包んでいる。「綾音ちゃん、受験を控えているのに、なんだか申し訳ないです……」
「いいのよあの子なら。……ほら。来た」
ずんずん廊下を進む綾音ちゃんは、ピンクのワンピースを着ている。可憐でとても、可愛い。
ところがそんな可愛い綾音ちゃんは、わたしの真正面に来ると、きっ、とわたしを睨みつけ、
「あんたのことだからどうせ、あたしの受験のことを心配しているんでしょう」
「こら。綾音」と課長のお母様が綾音ちゃんを諫めるが、綾音ちゃんはわたしを見据えたまま、「大きなお世話なのよ」と言い切る。
「受験勉強は確かに大変よ。けど、それとこれとは話が別。……大好きなお兄ちゃんと、大切な莉子さんの結婚を祝うイベントに欠席するとか。そっちのほうがありえなくない? だからね、遠慮なんかしないで。結婚式も、あたし、出るから!」
「サンキュー綾音」
「ちょ。兄貴髪。セットが……!」
「ああすまんすまん」
課長は妹である綾音ちゃんの髪を撫でると、照れたように笑った。「そんなにもお兄ちゃんたちのことを思ってくれているなんて、嬉しいなあ。兄貴冥利に尽きるぜ」
そう言って課長は綾音ちゃんを解放する。そして――ウェイターさんに促され、個室に通され、華やかな会食会が開かれた。
* * *
テーブルに並ぶ、料理、料理、料理……!
高級ホテルの中華料理を頂いている。前菜からしてなんか味が全然違う! 食べたことのない味がする! きくらげ。チャーシュー。濃厚で濃密……!
それから海鮮野菜炒めに、チャーハンに、北京ダックに、ふかひれの姿煮に……! ああもう、こんなに美味しいご飯、ご飯、ご飯……! 食べたことがない!
円卓に並ぶ料理の数々。交わされる和やかな会話……も、料理をより美味しくするエッセンスになる。
「遼一は自慢の息子で……。なにをやらせても失敗することのない、自慢の息子でしたの。それが、いい年になってもなかなか結婚の気配がないものだから、親としてはひやひやしておりまして。
それが、莉子さんみたいに素晴らしい女性と一緒になるっていうのですもの。もう……驚きで。盆と正月がいっぺんに来たような気持ちですわ。まだ、……信じられません」
「末永いおつき合いになるますもの。どうか……よろしくお願い致します。娘は、世間知らずでご迷惑をおかけする場面もあるかもしれませんが……何卒、よろしくお願い致します」
見れば、父も頭を下げている。クレーマー気質。値段に見合ったサービスを受けられないとすぐに怒るあの父が。
目頭が熱くなる。わたしも、頭を下げた。
「いえ。顔をあげてください桐島さん。……おれだって不十分な人間ですし」間に入ったのは課長だ。「完璧な人間なんてどこにもいません。不完全な者同士だからこそ、一緒に……手を取り合ってやっていきたいと、そう思っております。
ぼくのほうこそ、どうぞ……よろしくお願い致します」
* * *
「……楽しかったね」
無事会食会を終え、帰りの電車のなかで、ぽつぽつ浮かぶ街の明かりを見つめながらわたしは、「なんか……知らない課長をもっと知れた感じで……嬉しかったな……」
わたしの知る課長と、三田のご家族の知る課長像には乖離がある。家族の前で、課長は、破綻がなく、論理的で完璧な……誇れる息子なのだと思う。
病んでる課長を知ることに優越感を感じるってこれ、変態かな。わたしがそのことを打ち明けると課長は、
「莉子のほうだって。家族といるときと、おれとふたりきりのときだとなんか、顔が違うぞ。気づいてない?」
「あ……完全無意識」わたしが頬に手を添えそう答えると、課長は、
「おれの前でだけ無防備な莉子がおれは大好きなの」課長はそっとわたしの顎先を持ち上げ、彼のほうを向かせ、「おれの前でだけ乱れる……莉子が、大好きだな……」
あのう、課長、ここ、電車のなかですけど。
されど、課長の熱っぽい眼差しに囚われれば、逃れられなくなる。その想いからも。熱情からも。
鼓動が、波打つ。痛いほどに。切ないほどに。締め上げ――苦しくなる。
切ない、って感情を教えてくれたのは、課長、あなたなんだよ……。
あなたのことを思うといつも胸が切なくなる。きゅっ、と締まって……苦しい、痛いような、不可思議な感覚を味わわせてくれる。
「課長。好き……」
「おれも」
そして手を繋ぎ合わせる。人前ゆえ、思い切り感情を表出することはならないが、それでもわたしたちは満たされていた。肌を重ねる、そのことだけで。
* * *
そして、月日は流れ、中野さんが産休育休に入る日がやってきた。みんなの前で、花束を渡された中野さんは目を潤ませ、ありがとうございます、と頭を下げる。――無事赤ちゃんが生まれたら、名前の入ったタオルギフトをあげよう。そう思っている。中野さんがいままでしてくれたみたいに、きちんと仕切らないと。
「ご迷惑をおかけしますが、必ず戻って参りますので。またそのときは、どうか、よろしくお願い致します……!」
鼻をすする音がするから、何事かと思ってみれば、紅城さんがハンカチで目元を押さえている。……見た目クールビューティーな紅城さんだけれど、案外エモーショナルなひとなのかもしれない。不思議と、わたしは、彼女のなかに、課長との共通点を見出していた。
挨拶を終えると、中野さんは、職場のみんなひとりひとりに挨拶をする。焼き菓子を配って。……大変だな、と思う。日本ならではの風習。お世話になったみんなに挨拶をする。アメリカでは考えられない風習かもしれない。
けども。いいな……と思った。こうやって、家族みたいに寄り添って。性別も年齢もバックグラウンドも思想も違う同士が、寄り添って、あたたかい空間を作っている。
かつて、課長は、職場を、感情を持ち込まない場だと語った。その彼が、わたしとの交際をスタートさせた週明けに、早速みんなの前で打ち明けて――わたしの心理的負担を減らすために。
あのとき、直情的に愛を打ち明けたときの課長の表情。声音――が、わたしを虜にして離さない。
中野さんは、別の部署から挨拶周りをしていたので、わたしたちのところに来るのは、最後になってしまった。
「お待たせしてごめんなさい」とやや、ふっくらした頬を緩めると中野さんは、「桐島ちゃんにも、紅城さんにも、迷惑をかけるわね……ごめんなさい」
紅城さんは、仕事とプライベートの区分けをきっちりしているタイプらしく、ほとんど残業をしない。早く帰宅して、料理をしたり、動画を見たり、自分の時間を充実させているそうだ。
ところが、そんな彼女が、中野さんの挨拶周りを待って、残っている。不満を感じている様子は、微塵も見られない。わたしは、こころのなかで、紅城さんをリスペクトしていた。わたしが紅城さんの立場なら果たして――同じように出来るだろうか?
彼氏がいるかいないかまでは聞いていないが、……先を越されたとか思ったり。嫉妬したり。女ならそんな感情を抱くのが当たり前だというのに、紅城さんは、わたしの結婚を祝福してくれた。結婚式に喜んで出席させて頂きます、と嘘偽りのない瞳で語ってくれた。
「中野さん。元気な赤ちゃんを産んでくださいね……」
ほろほろと涙する紅城さんはとても美しかった。――まさかそのときは思いもしなかったのだ。このときの、感極まる紅城さんに、こころを射抜かれる男がいるなどとは。
*
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誰が心を射矢れたのかしら🩷