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「常務、社会的な関係性ではなく、ひとりの人間として言わせてもらいます。うちの部下に暴行を加えたことに対し、私なりに報復をします。戦う準備をしてください」
「秋山さん、あなたと戦うつもりはありません」
「これはケンカです。私の部下を殴った常務を、そのまま家に帰すつもりはありません」
「深刻な負傷で格闘技界を離れたあなたを殴るなんてできません」
「そうですか。では一方的に殴られて病院に行ってください」
秋山がシャツを脱いでストレッチをはじめた。
引退してから約10年
土木工事の監督として苦労を重ねた日々だった。それでも彼の肉体は現役時代と変わらず、鍛え抜かれていた。
突然の秋山の行動に、ジョーは混乱した。
堀口課長を殴った者への制裁にはそれなりの意味がある。
だがこの人物は加害者ではない。
この人と戦ってはならない……。
そのとき、別の本能がジョーにささやいた。
戦いたくないのか?
毎日仕事もしないでトレーニングに明け暮れたのは何のためだ?
このチャンスをみすみす逃すってのか?
そうだ、俺は戦いたい。
俺は勇信を守るために存在し、今目の前にいる男は勇信を敵とみなしている。
ジョーという勇信を。
違う。
それはこじつけに過ぎない。
俺はただ戦うことが好きなだけだ。なぜなら楽しいから。
違う。
俺は勇信を守るため……。
いや。
ただ楽しみたいだけ。
俺の正体……何なんだ?
俺は誰なんだ?
俺は母体の吾妻勇信ではない。
ってことは単なる派生物か?
となると、俺は勇信ではないのか?
違う。
俺もれっきとした吾妻勇信だ!
違う!
俺はもう勇信じゃない!
すでに異なる何者かになってしまった。
だからこんな邪道な方法で彼らに制裁を加えている。
俺はもう別の道を歩きはじめてしまっている。
ふぅ……。
ジョーは大きく深呼吸した。
「秋山さん。私の体は吾妻グループにとって非常に重要でしてね。そのため一方的に殴られるわけにはいきません」
自分が何者であるか。
そんなものはこの危機を脱してから考えるべきものだ。
目の前には強者がいる。
余計な心の葛藤で、この大切な瞬間を楽しめないなんてもったいないじゃないか。
「では、手加減なくいかせていただきます」
秋山泰泳が首を一度回し、ファイティングポーズをとった。
視線が中央でかち合った。
その瞬間、秋山はすでに目の前まで接近していた。
鋭く伸びる左ジャブが、ジョーの顔面に突き刺さった。
うぐっ……!
顔のど真ん中に生まれた痛みが全身へと伝わり、すべての細胞が非常事態へと突入した。
すばやくバックステップで距離をとろうとしたが、秋山はまたも目の前にいた。
なんだ……?
そうした思考が生まれるのと同時に、視界の端に左のこぶしが見えた。
とっさにガードを上げようとしたが、秋山のフックはそれよりもはやくジョーの顎をとらえた。
ドゴッ!
……地震?
八角形の金網が地震にでもあったように揺れた。
脳が水平方向をうまく認識してくれなかった。
ジョーはよろめきながら金網に背をつけた。
すぐに視界を確保しようと前方を見渡す。
ああっ!
労働者たちの声が聞こえた。
目の前には、みたび秋山が迫っていた。
ガードを高く上げて体を丸め、相手の攻撃に備えた。
両手の隙間から見える秋山のパンチをひとつずつ目で追って対応していく。これまで多く重ねてきたスパーリングの実践経験が、かろうじてジョーを救ってくれた。
隙を見つけては、サイドに抜け出した。しかし秋山はまたも距離を詰めてくる。
ジョーは前蹴りで距離を確保しようとしたが、それよりも先に秋山のストレートが眉間のあたりをとらえた。
――アナコンダ。
記憶の中にある、若き日の秋山の姿が目の前にはあった。
アナコンダと呼ばれた彼のファイトスタイルは健在で、こぶしを交えていること自体が夢のようだった。
しかし過去は、やはり過去にすぎない。
ジョーはこの短い攻防の中で、彼が引退した理由をしっかりと見抜いた。
開始直後にもらったはずの左フックと、右ストレート。
現役時代の秋山であれば、10秒をもたずと失神させられていただろう。
しかしジョーは立っている。
呼吸は大きく乱れたが、頭は冷静だった。
自分がとるべき戦術が、整然と頭の中で形を整えた。
「やめましょう、秋山さん。あなたは私に勝てません」
ジョーが距離をとりながら言った。
一方的に押されているだけのジョーが放ったセリフに、労働者たちがあ然となった。