紀之の後妻の聖菜はまだ二十八歳で、以前の私同様、某大手企業の受付嬢だった。私の時と大きく違うのは、実家が都内で、両親は娘の妊娠と結婚の経緯にご立腹であること。
「遅くなるかもしれないって梨々花に言っておいたし、飯だって買っておいた。湊がそんなに大変なら、俺に電話すればよかったんだ! なのに――」
「――パパは忙しいから電話に出られないって言った!」
娘にピシャリと言われて、叱られた子供のように狼狽えているのが、後ろ姿でもわかる。
お義母さんがほろほろと涙を流しながらため息をつく。
背後からそっとグレーのハンカチを差し出されたが、それを遠慮して自分のポーチから黄色のハンカチを取り出して涙を拭いた。
「紀之。梨々花と湊は千恵さんに任せなさい。お前には、聖菜さんとお腹の子供だけで精いっぱいでしょう」
「でも――」
「――お前なりに子供たちを愛しているのがわかったから、夫婦の問題には口出ししてきませんでしたけどね、今回のことは許せないの。湊がどれだけ苦しんだと思っているの。梨々花がどれだけ心細かったと思っているの」
ボロボロの結婚生活で、唯一の救いはお義母さんだった。
娘も欲しかったと言って私を可愛がってくれた。
そして、離婚した今も、私と子供たちの見方をしてくれる。
「私の孫を傷つけるのは、息子のお前でも許しません」
「……だけどっ! 実際、どうやって暮らしていくんだよ!? 梨々花も湊も転校はヤだろ? 友達と離れ離れだぞ!? ママの祖母ちゃん家は狭くて、自分の部屋なんて――」
「――紀之!」
「母さんは黙って――」
「――転校せず、梨々花ちゃんと湊くんの部屋があるマンション暮らしができれば、問題はありませんか」
黙って梨々花と義母の後ろに立ち、じっと私を見つめていた彼が、割と穏やかな微笑みすら浮かべて、紀之を見た。
匡……。
どうして東京にいるのか。
どうして義母と梨々花と一緒にいるのか。
聞きたいことだらけだけれど、それよりも、もう会うことはないだろうと思っていた彼が、二十四時間も経たずに目の前にいる現実が、現実に思えない。
白のTシャツに黒のスラックス、手にはグレーのジャケットを持ち、ピンと背筋を伸ばした立ち姿は、私の記憶にあるどの匡とも違う。
「誰だ」
紀之がそう問うのは当然だ。
「申し遅れました」と言いながら、匡が義母の横に立ち、紀之に名刺を差し出した。
奪い取るように名刺を手にした紀之が、それをじっと見る。
「トーウンコーポレーション社外監査役、柳澤匡……」
トーウンコーポレーション!?
家具やインテリアのオリジナルブランドを持ちながら、海外ブランドとのコラボやトータルコーディネートサービスで急成長を遂げている大企業の名に、紀之はもちろん私も驚いた。
『社外監査役』という役職がどんなものかはわからないが、前に曜日はあまり関係のない仕事をしていると言っていた。
「他の肩書での名刺もありますが、それで十分でしょう?」
「こんな大企業様の監査役が、なんでここに?」
「千恵の再婚相手候補なんで」
「……はぁ~!?」
紀之がバッと振り向いて、私を睨みつける。
離婚が成立している今、私の交友関係は元夫には何の関係もないのだけれど、なぜか気まずい。
「中学の同級生なんですよ。ひと月ほど前に再会して、アプローチ中です。デートに現れないと思ったら東京に飛んでるって聞いて、俺も急いで駆け付けたわけです」
誰に聞いたのだろう。なんて考えるまでもない。
私の居場所は実家の親と柚葉しか知らない。
そして、匡の存在を知っているのは柚葉だけ。
再会してからのことは話していないけれど、大学時代に一緒に暮らしていたことは、地元の友達では柚葉と槇ちゃんしか知らない。
一緒に暮らすときに親にはざっくりとした情報を伝えたけれど、会わせたことはない。
柚葉……。
あの、タイムリーなランチのお誘いは、匡に頼まれてかけてきたのかもしれない。
「そういうわけで、お子さんの居住や学校の問題がクリアできたら、親権を千恵に渡してもらえますか」
「匡!」
私を見た彼の表情が、ふっと和らぐ。まるで、大丈夫だと頭を撫でられているような気持ちになる。
「あんたが子供たちの父親になると? 冗談じゃない。梨々花、湊。な? パパが言ったとおりだろ? ママが再婚して子供ができたら、お前たちは邪魔者だ。それなら――」
「――それはあり得ません」
匡はきっと、自分の身体のことを話すつもりだ。
私のためなら、誰にも知られたくない傷を自分で抉るくらいする。そんな気がした。
させたくない。
私は立ち上がった。
「私に、梨々花と湊以上に大切なものなんてないわ!」
視界の下の方で、湊が心配そうに私を見上げているのがわかる。梨々花もだ。お義母さんの服の裾を掴んで離さない。
「子供にそんなことを言ったの? だから子供たちは『パパがいい』って言ったの? どこまで自分勝手なの!!?」
「うるさい! 俺は――」
「――俺には子供ができません」
「匡!」
「いいんだ」
「でも――」
匡は紀之と対峙し、それでも決して威圧的ではなく、落ち着いた表情で言った。
「――子供を作れない身体です。だから、梨々花ちゃんと湊くんを実の子供のように大切にします」
「子供を持ったことがなくせに、簡単に言うな!」
「すぐには無理だと思います。でも、時間がかかっても、本当の家族になれるように努力します。だから――」
言葉を区切り、匡が頭を下げた。
紀之に、深々と。
「――あなたのお子さんたちと、家族にさせてください」
なんてプロポーズだ。
私に向かってじゃない。
よりにもよって別れた夫に頭を下げて、この上なく嬉しいプロポーズをするなんて。
「絶対、幸せにします。一生の宝物にします。だから、お願いします!」
父親に娘さんを下さいと頭を下げているようだ。
『宝物はひとつじゃなくてもいいじゃない』
昨夜の柚葉の言葉が思い出される。
子供も匡も大事にするなんて……できるかな。
「転校してもいいもん……」
静寂を破ったのは、梨々花。
「北海道、好きだもん」
「俺も! とうきび好きだもん! ひとりの部屋がなくてもいいもん! お母さんと一緒でもいいもん!」
「湊……」
いつも『僕』というくせに、こんな時に大人ぶって『俺』と言った息子の背のびが可愛くて、思わずぎゅっと抱きしめた。
「北海道は空気が美味しいって言うから、きっと湊の喘息もよくなるわね」
義母が梨々花の肩を抱いて言った。
「お祖母ちゃん、遊びに来てね?」
「うん……うん」
この状況で、全員を敵に回して突っ撥ねられるほど強くもなく、弁が立つわけでもない紀之は、「勝手にしろ!」と吐き捨てて病室を出て行った。
入れ替わりで、退院前の診察のために医師と看護師が入ってきて、泣きながら抱き合う私たちに目を丸くした。
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