放課後の教室は、静かだった。
机も椅子も、全部元の位置に戻っていて、
誰かがいた痕跡だけが、空気に残っている。
おらふくんは、窓際の席に座ったまま、
ぼんやり外を見ていた。
(……今日は、何もなかった)
それが、少しだけ不思議だった。
いじめも、暴言も、
“たまたま”起きなかった日。
何もないのに、
胸が落ち着かない。
「……あ」
足音。
振り向く前に、分かってしまう。
「まだいたんだ」
おんりーだった。
鞄を肩にかけて、
いつもの、落ち着いた顔。
「……うん」
おらふくんは、小さく答える。
「帰らないの?」
「おらふくんが、まだだったから」
それだけ。
理由としては、
あまりにも単純で。
でも、胸が、少しあったかくなる。
「……なにそれ」
「事実」
おんりーは、空いている隣の席に座った。
二人分の距離。
近すぎず、遠すぎず。
「今日はさ」
おんりーが、前を向いたまま言う。
「……静かだったね」
「……うん」
おらふくんは、机の端を指でなぞる。
(……見られてる)
(……気づかれてる)
「……平気?」
その一言に、
心臓が、少しだけ跳ねる。
「……平気、だとおもう」
正直じゃない答え。
でも、嘘でもない。
おんりーは、深く突っ込まなかった。
「そっか」
それだけ。
でも。
「……無理なら」
少し間を置いて。
「言っていいから」
おらふくんは、思わず笑ってしまった。
「……それ、ずるい」
「なにが」
「……言えなくなるやつ」
おんりーは、少しだけ困ったように笑った。
「じゃあ」
「言わなくても、いい」
おらふくんは、驚いて顔を見る。
「……いいの?」
「うん」
「ここにいるだけで」
「分かることも、あるから」
沈黙。
でも、重くない。
夕日が、教室をオレンジ色に染める。
「……ねえ」
おらふくんが、ぽつりと言う。
「……もしさ」
「うん」
「……ずっと、こうだったら」
言葉が、途中で止まる。
おんりーは、答えなかった。
でも、
おらふくんの方を見て、
静かに言った。
「……悪くない」
それだけで、
胸の奥が、じんわりした。
帰り道。
二人で並んで歩く。
影が、少し重なる。
「……今日さ」
おらふくんが、照れたように言う。
「……ちょっと、楽しかった」
おんりーは、即答だった。
「俺も」
その短い会話が、
その日の全部だった。
でも。
それで、十分だった。
正直に言うと、
俺はあまり前に出るタイプじゃない。
誰かを引っ張るより、
様子を見るほうが得意だ。
教室の後ろの席。
そこから、だいたい全部が見える。
今日は少し騒がしい。
「なあなあ、今日部活あるっけ?」
どずるが、でかい声で言う。
「あるある!サボんなよー」
ぼんじゅうるが笑いながら返す。
「先生また遅れるってさ」
おらこーるが、黒板の方を見て言った。
「え、まじ?ラッキーじゃん」
MENが、机に突っ伏す。
いつも通りの光景。
いつも通りの声。
――なのに。
俺の視線は、
自然と、ひとつの席に向いていた。
窓際。
おらふくん。
肩が、少し内側に入っている。
視線は外。
でも、外を見ていない。
(……今日も、静かだな)
声を出さないから、
問題がないように見える。
でも、
何もないわけじゃないってことくらい、
もう分かってる。
「おんりー、何見てんの?」
どずるが、ひょいっと顔を出す。
「……別に」
即答。
でも、
どずるは一瞬だけ、俺の視線の先を追った。
「……ああ」
それだけで、察したみたいだった。
「今日、平和だといいな」
ぼそっと言う。
「うん」
俺は、それ以上言わない。
言わないけど、
見ている。
休み時間。
廊下が、ざわつく。
笑い声。
足音。
誰かの大きな声。
その中で、
おらふくんは、席を立たない。
(……行かないんだ)
誰かに呼ばれても、
首を横に振るだけ。
無理に笑わない。
無理に溶け込まない。
それを、
弱さだとは思わない。
(……耐えてる)
それだけ。
MENが、俺の隣で言った。
「なーんか、空気変だよな」
「……そう?」
「うん。前より」
俺は、少し考えてから答えた。
「……前より、静か」
「それ、よくないやつじゃん」
MENは、苦笑いする。
俺は、何も言わない。
でも、
おらふくんが、ペンを落としたのを見て、
自然と立ち上がっていた。
「はい」
拾って、渡す。
目が合う。
一瞬。
「……ありがとう」
小さな声。
それだけで、
胸の奥が、少しだけ締まる。
(……やっぱり)
(……近くにいよう)
戻ると、
ぼんじゅうるが、にやっとした。
「やさしーじゃん」
「……うるさい」
「はいはい」
でも、その顔は、どこか安心していた。
放課後。
みんなが、わいわい帰る準備をしている中で、
俺は、少しだけ残る。
おらふくんも、残っている。
理由は、分からない。
でも。
(……俺が、見る)
助ける、とか、
守る、とか。
大きな言葉じゃなくていい。
ただ、
見て、離れないこと。
それが、
今の俺の選択だった。
教室の明かりが、少しずつ落ちていく。
今日も、何も起きなかった。
でも、
“何も起きなかった”の裏側で、
ちゃんと、誰かを見ていた。
それでいい。
今は、それでいい。
かんけつだぁ






