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妻の名前で、申請が進んでいます。
夜間窓口から持ち帰った白い書類を、美沙は何度も読み返した。
本人名義使用届
その表題の下に、自分の名前が印字されている。
藤代美沙
見慣れているはずの名前だった。
銀行の通帳にも、保険の書類にも、パート先の契約書にも、同じ名前がある。
けれど、この書類の中の名前は、美沙のものではないように見えた。
誰かが勝手に持ち出し、勝手に使い、勝手に何かを始めている。
そんな気味の悪さがあった。
朝になっても、美沙の手の冷たさは戻らなかった。
航平はいつも通り出勤の支度をしていた。洗面所で髭を剃り、寝癖を直し、リビングに置いたスマホを何度も確認する。
「今日、帰り遅くなる」
航平は食パンをかじりながら言った。
「仕事?」
「そう」
短い返事だった。
以前なら、美沙は「大変だね」と言っていた。
けれど今、その言葉は喉まで来て止まった。
仕事。
残業。
接待。
航平の口から出る言葉は、どれも一度紙に透かして見なければ信じられなくなっていた。
美沙はコーヒーをテーブルに置いた。
「ねえ、航平」
「何?」
「私の身分証のコピー、前に渡したことあったよね」
航平の手が止まった。
ほんの一瞬。
でも、止まった。
「何の話?」
「保険の手続きで必要だって言われて、免許証のコピー渡した」
「ああ、そんなことあったかもな」
「何の保険だった?」
「覚えてない」
航平はすぐにスマホへ視線を戻した。
「昔の話だろ。いちいち覚えてないよ」
「そのコピー、まだ持ってる?」
「知らない。処分したんじゃない?」
「本当に?」
航平が顔を上げた。
その目には、すでに苛立ちが浮かんでいた。
「何が言いたいわけ?」
「確認したいだけ」
「また疑ってるのか」
その言葉は、もう何度も聞いた。
けれど今日は、美沙の胸に刺さるより先に、どこかで冷めた。
疑っているのではない。
確認しているのだ。
「最近、通帳のこととか、変なことばっかり言うよな」
航平は椅子の背に寄りかかった。
「誰かに何か吹き込まれてる?」
「誰かって?」
「千尋さんとか」
美沙は何も答えなかった。
航平の目が細くなる。
「やっぱりか。あの人、昔から偉そうだもんな。司法書士事務所だっけ? そういう中途半端な知識で人の家庭に口出されるの、迷惑なんだけど」
「千尋は関係ない」
「じゃあ何? 美沙ひとりでそんなこと考えつく?」
その一言に、美沙の手が震えた。
ひとりで考えつくはずがない。
お前には分からない。
お前にはできない。
航平は、いつもそうやって美沙の頭の中まで小さくしようとする。
「私は、自分で確認してるだけ」
「確認、確認ってさ」
航平は立ち上がった。
「俺を犯罪者扱いしたいわけ?」
低い声だった。
美沙は息を飲んだ。
「そんなことは言ってない」
「同じだろ。身分証だの通帳だの、まるで俺が何か悪いことしてるみたいに」
悪いことをしているのではないか。
そう言いたかった。
でも、まだ言えなかった。
夜間窓口の書類はある。
通帳の記録もある。
けれど、現実の証拠はまだ足りない。
航平はバッグを乱暴に持ち上げた。
「朝から気分悪い」
玄関へ向かう足音が、いつもより大きい。
「航平」
「何」
「本当に、私の名前で何か申請してないよね」
航平は振り返った。
その顔を見た瞬間、美沙は体が固まった。
怒っている。
けれど、それだけではない。
見られたくないものを見られた人の顔だった。
「してるわけないだろ」
航平はそう言って、玄関のドアを閉めた。
大きな音が、部屋に残った。
美沙はしばらく動けなかった。
犯罪者扱い。
その言葉が耳に残る。
もし、何もしていないなら、なぜあんな顔をしたのだろう。
もし、やましいことがないなら、なぜ怒るのだろう。
美沙はスマホを手に取った。
千尋に電話をかけると、すぐに出た。
「どうした?」
「千尋、私の身分証のコピー、夫に渡したことがあって」
「いつ?」
「たぶん半年前。保険の手続きだって」
「その保険、心当たりある?」
「ない。書類も見てない」
電話の向こうで、千尋が小さく息を吐いた。
「まず、信用情報の開示を確認しよう」
「信用情報?」
「ローンとかクレジットとか、本人名義で申し込みがあるか調べられる。すぐ全部分かるとは限らないけど、動いた方がいい」
「私、何も分からなくて」
「大丈夫。順番にやればいい」
千尋の声は、いつも現実に足をつけさせてくれる。
「ただし、航平さんにはしばらく言わないで。相手が本当にあなたの名義を使っているなら、先に気づかれると証拠を消される」
「うん」
「あと、郵便物。最近、金融会社とかカード会社から何か届いてない?」
「見てないと思う」
「ポストも確認して。家に届かないように勤務先や別住所を使ってる可能性もある」
別住所。
美沙は、夜間窓口の書類に黒く塗りつぶされていた移動先口座の名義を思い出した。
お金はどこへ行っているのか。
誰のためなのか。
それとも、何から逃げるためなのか。
電話を切ったあと、美沙は家中の書類を確認した。
保険証券。
カード会社からの通知。
古い封筒。
航平が「もういらない」と言ってまとめていた紙袋。
リビングの棚の奥に、見慣れないクリアファイルがあった。
航平のものだ。
開けるかどうか、迷った。
夫の書類を勝手に見る。
その罪悪感が、まだ美沙の中には残っていた。
けれど、夜間窓口の言葉が浮かぶ。
あなたが見ないふりをしたものも、すべて記録されています。
美沙はファイルを開いた。
中には、保険のパンフレット、古い給与明細、名刺の束が入っていた。
その間に、コピー用紙が一枚挟まっている。
美沙の免許証のコピーだった。
そして、その下にもう一枚。
ローン申込書の下書き。
氏名欄には、美沙の名前。
住所も、生年月日も、合っている。
勤務先の欄には、美沙のパート先が記されていた。
けれど、連絡先電話番号だけが違っていた。
航平の携帯番号だった。
美沙の視界が、すっと狭くなった。
自分の名前。
自分の住所。
自分の職場。
でも、連絡は夫へ行く。
美沙の存在だけを借りて、美沙を通さずに何かを進めようとしている。
申込金額の欄には、百五十万円と書かれていた。
百五十万円。
美沙はその場にしゃがみ込んだ。
呼吸が浅くなる。
頭の中で、数字だけが何度も跳ねた。
百五十万円。
私の名前で。
私の知らないところで。
コピー用紙を持つ手が震える。
その震えを止めるように、美沙はスマホで写真を撮った。
表。
裏。
全体。
氏名欄。
連絡先。
申込金額。
撮り終えてから、紙を元の場所に戻した。
戻しながら、自分が少しずつ変わっていることに気づいた。
以前の美沙なら、見つけた瞬間に泣いていた。
航平に電話していた。
どういうことなの、と震えながら聞いていた。
でも今は違う。
怒りより先に、記録。
涙より先に、保存。
それが悲しくもあり、必要でもあった。
夕方、航平からメッセージが来た。
今日、飲みになった。遅くなる。
美沙は画面を見つめた。
仕事ではなかったのか。
飲み。
誰と。
どこで。
聞きたいことはいくつもあった。
でも、返信は短くした。
分かりました。
送信後、美沙はスマホを伏せた。
その夜、美沙はひとりで夕食を食べた。
味噌汁は温めなかった。
航平の分も作らなかった。
それだけのことなのに、少し罪悪感があった。
妻なのに。
夫が帰ってくるかもしれないのに。
そう思いかけて、美沙は箸を置いた。
夫は、妻の名前で百五十万円を借りようとしていたかもしれない。
それでも私は、味噌汁の心配をしている。
そのことが、急に怖くなった。
怖いのは、航平の怒鳴り声だけではない。
怖いのは、それでも自分が「いい妻」に戻ろうとすることだった。
午前零時。
美沙は市役所へ向かった。
夜間受理窓口には、宮乃が座っていた。
美沙がコピーした書類の写真を見せると、宮乃は静かにうなずいた。
「現実側での確認が進みました」
「夫は、本当に私の名前を使おうとしていたんですね」
「はい」
短い返事だった。
分かっていた。
それでも、断言されると胸が痛んだ。
「どうして、こんなことを」
「理由は、次の書類に記載されています」
宮乃は、奥の引き出しを開けた。
今夜の音は、重かった。
紙ではなく、石の蓋がずれるような音。
取り出されたのは、白い書類ではなかった。
薄い灰色の紙。
端が少し黒ずんでいる。
表題は、
妻名義借入申請書
美沙は唇を噛んだ。
宮乃は書類を窓口に置く。
「こちらは、まだ受理も差戻しもされていません」
「どういうことですか」
「審査中です」
「誰が審査しているんですか」
「あなたです」
美沙は、宮乃を見た。
「私?」
「あなたが、この申請を見なかったことにするか。無効として差し戻すか。それによって処理が変わります」
見なかったことにする。
その言葉に、美沙の胸がざわついた。
今まで何度、そうしてきただろう。
少し変だと思っても、見なかった。
傷ついても、言わなかった。
苦しくても、家庭のためだと思った。
その結果、自分の名前まで使われようとしている。
「差し戻します」
美沙は言った。
声は震えていた。
でも、はっきり聞こえた。
「この申請は、私の意思ではありません」
宮乃は、赤い印ではなく、黒い小さな印を出した。
「では、こちらに署名を」
書類の下部に、空欄があった。
本人意思確認欄
美沙はペンを持った。
藤代美沙。
自分の名前を書く。
それだけのことなのに、胸が詰まった。
この名前は、私のものだ。
航平のものではない。
家族のものでもない。
誰かが都合よく使っていいものではない。
美沙が署名すると、宮乃は黒い印を押した。
本人不同意
その瞬間、灰色の書類の端が、じわりと黒く滲んだ。
まるで、誰かの嘘が燃え残った灰のようだった。
宮乃は静かに言った。
「申請は差し戻されました」
美沙は息を吐いた。
少しだけ、体の力が抜ける。
けれど、宮乃は続けた。
「ただし、ご注意ください」
「何をですか」
「ご主人は、差戻理由を確認します」
美沙の背筋が冷えた。
「つまり、私が気づいたことが、夫に分かる?」
「はい」
夜間窓口の奥で、また別の引き出しが開いた。
今度は、美沙の方ではなく、宮乃の背後のずっと暗い場所で。
宮乃は新しい白い書類を取り出した。
「次の返送対象です」
美沙は、それを見る前から嫌な予感がした。
表題には、こう書かれていた。
我慢届
申請者欄には、夫でも義母でもない名前。
藤代美沙
宮乃は、美沙の目を見て言った。
「次の書類は、ご主人ではなく、あなた自身が提出したものです」