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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
ブラシを握ったまま、私はベッドの端に座った。
この部屋の鍵は、私が持っている一本と、厨房の鍵掛けの合鍵が一本。
夕方、鍵掛けの前を通ったとき、半地下の札の下がった鍵が、いつもと逆を向いて揺れていた。気のせいだと思った。
気のせいでは、なかった。
髪が欲しかったのだ。
生きている女の、根元のついた髪が。
なら、比べる相手は何か。
澪の物は、この家に残っていない。服も、靴も、化粧品も。
六つの段ボールを八つのゴミ袋に詰め替えたのは、私自身だ。
そこまで考えて、息が止まった。
一つだけ、箱に入っていなかったものがある。
鏡台に置いていた、木の柄のヘアブラシ。
*
翌朝、十時。
蒼真が会社へ出たあと、私はいつものように書斎の掃除に入った。
窓を開け、机の上の書類を揃え、灰皿を洗う。
本棚の右端、三段目。
五冊、抜いた。
奥の板を、指で押す。小さな引き出しが、音もなく滑り出た。
黒いUSB。署名の練習紙。保険の申込書の控え。
その上に、前にはなかった白い封筒が一つ、のっていた。
角に、横文字の社名が印刷されていた。
その下に、小さく。個人識別鑑定サービス。
封筒の口は、開いていた。
中に、透明な小袋が二つ。
どちらにも、白いラベルが貼ってあった。右上がりの、蒼真の字だった。
A 御影澪。
B 佐伯凛。
Bの袋には、短い黒い髪が三本。
ゆうべ、私のブラシから消えたものだ。
Aの袋を、光にかざした。
長い髪が、四本入っていた。
腰まで届く長さの、黒い髪。毛先のほうだけが、一つ結びの癖で、ゆるく波打っていた。
私の髪だった。
四月の朝、トキさんの家の洗面所で切り落とし、新聞紙に包んでもらったはずの、私の髪だった。
封筒の表に、黄色い付箋が貼ってあった。
明朝、堂島。速達。至急扱い。
私は、全部を写真に撮った。
封筒を元の角度に戻し、引き出しを閉め、五冊の本を元の順番で差し込んだ。
雑巾を持つ手が、ようやく震えだしたのは、廊下に出てからだった。
昼過ぎに、厨房の電話が鳴った。
「凛さん? 僕だけど」
会社からの、蒼真の声だった。
「今日、書斎の掃除はした? ……机の上の物、動かしてないよな」
「書類を揃えて、灰皿を洗っただけでございます。いつものように」
ええ、いつものように。
あなたが本の裏に隠した引き出しの中まで、いつものように。
「ならいいんだ。ありがとう」
電話は、それで切れた。
受話器を置いてから、私は自分の指が、受話器の形のまま固まっているのに気づいた。
*
午後、陽翔は幼稚園の夏の預かり保育に出ていた。
子ども部屋に入り、窓を開けた。
ベッドの下から、おもちゃの宝箱を引き出した。
ブリキの箱だった。
蓋に、陽翔が自分で貼った電車のシールが、斜めに並んでいた。
真ん中の一枚だけは、去年の春に私が貼ってあげたものだった。めくれた端を、小さな指で何度も押さえつけた跡があった。
蓋を開ける。
積み木。どんぐり。紫陽花の押し花になりかけた花びら。
その一番下に、小さなタオルにくるまれたものがあった。
タオルを、ほどいた。
木の柄の、私のヘアブラシだった。
柄の先が、子どもの手の脂で、黒く光っていた。
何度も、何度も、握られた跡だった。
九か月。
遺品の箱がゴミ袋になった日も、新しい奥様が家に来た日も、あの子はこれを、この底に隠していた。
ブラシの毛のあいだに、長い髪が、まだ何本か絡んでいた。
そのうちの何本かが、根元から、きれいに抜き取られた跡があった。毛並みが、そこだけ乱れていた。
私は、ブラシを胸に当てなかった。
当てたら、元に戻せなくなる。
タオルを、元のとおりに巻いた。
宝箱の底に寝かせ、積み木とどんぐりを、元の場所に戻した。
*
夕方、ムギの散歩のあとで、離れの卓袱台に写真を並べた。
榊さんは、Aの袋の写真を、長いあいだ見ていた。
「私的な鑑定だ。裁判の証拠にはならない」
低い声だった。
「だが、あいつにとっては十分だ。一致と出れば、あいつはあなたが誰か、確信する。……そうなれば、あなたをこの家に生かしておく理由が、なくなる」
「はい」
「今夜のうちに、ここを出てください。東雲先生のところでも、村雨さんのところでもいい」
「出ません」
私は、膝の上で両手を重ねた。
「私がいなくなれば、それが答えになります。それに、坊ちゃんが……あの子は、九か月、あのブラシを守っていたんです」
榊さんが、何か言いかけて、黙った。
私は、エプロンのポケットから、ハンカチの包みを出した。
開くと、柘植の櫛が一つ。
「凛さんの櫛です。歯の根元に、髪が二本、残っています」
茶色がかった、短い髪。
凛さんが、あの日、面接の前に整えた髪。
「Bの袋には、佐伯凛と書いてあります。旦那様が、ご自分の字で」
榊さんの目が、櫛から私の顔へ上がった。
「名前は、一文字も書き換えません。中に入るのが、本当に佐伯凛さんの髪になるだけです」
長い沈黙だった。
「……あいつが書いたとおりの物が、袋に入る」
榊さんは、眼鏡を外して、目頭を押さえた。
「封筒は、明日の朝には出る。今夜しかない、ということですね」
「はい」
「旦那様が眠ったあとで、行きます。一人では動きません。行く前に、必ず連絡します」
榊さんは、眼鏡をかけ直した。
私の顔を、見なかった。見たら、止めてしまうという顔だった。
「……一つだけ」
卓袱台の上の櫛を見たまま、榊さんが言った。
「抜き取ったあなたの髪は、必ず持ち帰ってください。あの部屋に、一本も残さないで」
「はい」
「それから、手袋は外すな。指紋の話じゃない。あなたの手は、もう十分に、あの家に覚えられている」
*
夜中の二時。
蒼真は、十二時過ぎに主寝室へ上がっていた。
麗奈が和館に移ってから、あの人は一人であの部屋に寝ている。
主寝室の扉は、大階段を上りきったすぐ先にある。
十三段目を踏めば、音が届く。跨げば、家の者の歩き方になる。
階段は、使えない。
スマホに、一行だけ打った。
今から上がります。
送信して、返事を待たずに、厨房のリフトの扉を開けた。
箱は、一階に止めてあった。
靴を脱ぎ、膝を抱えて乗った。柘植の櫛を包んだ懐紙が、エプロンの胸ポケットで小さく鳴った。
ロープを、下へ引いた。
箱が、軋みながら、暗い竪穴を上がっていく。
頭上で、滑車が小さく鳴った。そのたびに、手を止めて耳を澄ませた。
二階の配膳室の扉の裏で、箱を止めた。
扉を押す。
暗い配膳室に、廊下の常夜灯の光が、ドアの下からひとすじ差し込んでいた。
配膳室と書斎のあいだの扉は、鍵がかかっていない。
デザートを運ぶとき、いつもこちらから入っていた。
書斎は、真っ暗だった。
昼間に残った蒼真のコロンの匂いが、閉めきった部屋の空気に沈んでいた。机の上の置き時計の秒針が、やけに大きく聞こえた。
スマホの画面を、手のひらで覆って、本棚を照らした。
右端。三段目。五冊。
引き出しを開け、封筒を出した。
白い木綿の手袋だけを外した。薄い手袋の指先で、Bの袋の口を開いた。
私の髪が、三本。
もう一枚の懐紙に移して、きつく折った。
胸ポケットから、櫛の包みを出した。
櫛の歯から、凛さんの髪を一本ずつ外して、袋に落とした。
二本。
三本が、二本になった。
蒼真が袋の中を数えたら、終わる。
それでも、私に入れられるのは、この二本だけだった。
ごめんなさい、凛さん。
あなたの名前を借りて、あなたの代わりに生き残って、今度はあなたの髪まで借ります。
袋の口を閉じ、ラベルを指でなでた。
佐伯凛。蒼真の字だ。嘘は、一文字も書いていない。
封筒を戻し、引き出しを閉め、板を押した。
本を、一冊ずつ差し込んでいく。三冊。四冊。
五冊目の背表紙を押し込んだとき、廊下の側で、かちり、と音がした。
書斎のドアノブが、ゆっくりと回りはじめていた。
コメント
1件
いやー、今回も引き込まれたわ…! ブラシから髪が抜かれてるって気づいた瞬間、背筋が冷えた。陽翔くんがずっとあのブラシを隠してたってのがもう、胸にくるものがある…。ラストのドアノブのタイミング、ホントずるいわ、続き気になりすぎる🔥 凛さんの髪、二本だけしか入れられなかったのも効くね。あの選択、重いよな…。