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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
逃げ道は、一つしかなかった。
背中の後ろの、配膳室の扉。
三歩で届く。
私は本棚から手を離し、暗がりを後ろ向きに下がった。
配膳室に体を滑り込ませ、扉を、音が鳴る手前で止めた。
書斎のドアが開いた。
廊下の常夜灯の光が、床に長く伸びた。
スリッパの音。蒼真の、寝起きの咳払い。
私は、配膳室を横切り、リフトの扉を開けた。
箱は、上がってきたときのまま、そこにあった。
膝を抱えて、乗った。
内側から、扉を引いて閉めた。
真っ暗になった。
ロープを、上へ送る。
箱が、ぎし、と鳴って、下りはじめた。
*
一度目の軋みで、手が止まった。
頭上の、扉一枚向こう。
書斎の灯りが点く音が、竪穴を伝って降りてきた。
止まっていたら、見つかる。
私は、もう一度ロープを送った。
二階と一階のあいだで、手袋が滑った。
二枚重ねの手袋は、ロープの上で、氷の上の靴底のように役に立たなかった。
箱が、がくん、と落ちた。
息を呑む暇もなかった。
私は、手袋ごと、ロープを握りしめた。
ざらざらした縄目が、手のひらの中を擦り抜けていった。
焼けるような痛みが、両の手のひらを走った。
箱が、止まった。
一メートルか、もっとか。
暗闇の中で、自分の心臓の音しか聞こえなかった。
手のひらが、熱く濡れていた。
もう一度、ゆっくりと、ロープを送った。
一手ずつ。痛みで、指が勝手に開こうとするのを、歯を食いしばって止めながら。
一階の厨房の扉の裏を過ぎた。
さらに下へ。ワインの冷たい匂いが、箱の隙間から上がってきた。
箱の底が、ことり、と地下の床に着いた。
そのときだった。
「……誰か、いるのか」
頭上の竪穴から、蒼真の声が降ってきた。
配膳室の、リフトの扉を開けたのだ。
二階から地下まで続く暗い穴の底に向かって、あの人が身を乗り出している。
私は、箱の中で膝を抱えたまま、息を止めた。
手のひらから、何かが滴って、箱の床板に落ちた。
長い沈黙だった。
「……ネズミか」
扉が閉まる音がした。
竪穴の上の、ほのかな明かりが消えた。
*
半地下の部屋に戻り、鍵をかけてから、手袋を外した。
肌色の薄い手袋の内側に、皮がはりついていた。
両の手のひらの真ん中が、赤く剥けて、血がにじんでいた。
エプロンの胸ポケットから、懐紙の包みを出した。
私の髪が三本。榊さんに言われたとおり、一本も、あの部屋には残していない。
隣のランドリーの流しで、マッチを擦った。
懐紙は、小さな炎になって、すぐに灰になった。灰を水で流してから、やっと、手のひらの痛みが戻ってきた。
スマホの画面に、榊さんからのメッセージが、いくつも並んでいた。
どこだ。
返事をしてくれ。
勝手口の前にいる。あと五分で、戸を壊す。
震える指で、打った。
戻りました。終わりました。
返事は、すぐに来た。
朝、離れへ。
*
翌朝の七時過ぎ、堂島がガレージから出てくるのを、厨房の窓から見た。
ハッカ飴の匂いをさせて、脇に白い封筒を抱えていた。
黒いセダンが、坂の下へ消えていった。
蒼真は、朝食の席で、コーヒーを飲みながら言った。
木曜日は私の休日だが、朝食を出し終えるまでは、いつもどおりの家政婦だった。
「凛さん。ゆうべ、リフトのあたりで、何か鳴ってなかった?」
「古い滑車でございますので、夜は冷えて鳴ることがございます。前にも、何度か」
「そうか。……ネズミかと思ったよ」
蒼真は、私の手を見なかった。
手袋の下で、手のひらがずきずきと脈を打っていた。
*
朝食の皿を下げ終えて、エプロンを外した。
ムギを連れて離れへ行くと、榊さんは、縁側で待っていた。
寝ていない顔だった。二晩続けて。
「手を」
それだけ言って、榊さんは私の手首を取った。
手袋を、一枚ずつ、ゆっくり外された。
剥けた手のひらが、朝の光の下に出た。
榊さんは、何も言わなかった。
奥から、小さな容器を持ってきた。
階段の夜に、私の手首に塗ってくれたのと、同じ軟膏だった。
指先に取って、私の手のひらに、そっと置いた。
傷の縁から真ん中へ。触れているのかいないのか、わからないほどの力で。
「勝手口の前で、二十分待った」
軟膏を塗る手を止めずに、榊さんが言った。
「戸に手をかけたまま、二十分。弁護士が他人の家の戸を壊していい理由を、ずっと数えていた。……一つも、見つからなかった」
「ごめんなさい」
「謝ってほしいんじゃない」
「……乗ったんですね。あれに」
「階段は、使えませんでした」
「わかっている」
榊さんの指が、止まった。
「わかっているから、言う」
ガーゼを当て、包帯を巻いていく。
巻き終わりを留める指が、少しだけ震えていた。
「二度と、一人であれに乗るな」
敬語が、消えていた。
「乗るなら、俺が下で受ける」
ムギが、縁側の下で、くうん、と鳴いた。
私は、包帯の手を膝の上に置いたまま、うなずくことしかできなかった。
*
結果が届いたのは、八日後の金曜日だった。
夕方、厨房の勝手口に、速達の封筒が置かれていた。
堂島が、郵便受けから取ってきたものだった。
蒼真は、厨房の配膳台の前で、封を切った。
私は、流しで、夕食のじゃがいもを剥いていた。
包帯は外れたが、手のひらの皮はまだ薄く、包丁の柄が当たるところが、ひりひりと痛んだ。
紙の音がした。
蒼真の息が、長く、深く、吐き出された。
「……不一致、か」
小さく、笑う声がした。
「だよな。そうだよな」
蒼真は、封筒ごと紙を丸めて、厨房のゴミ箱に捨てた。
それから、私の背中に、明るい声で言った。
「凛さん。ちょっと待ってて」
十分後、蒼真は、のしのかかった箱を持って戻ってきた。
銀座の老舗の最中だった。
私が嫁いだ年の暮れ、お義母さまへの歳暮に、蒼真が選んだのと同じ店のものだった。
「この前は、すまなかった。酔ってたんだ。……君には、ひどいことをした」
蒼真は、私の手に箱を押しつけた。
「君は、澪の最期に、そばにいてくれた人なのに」
「お気になさらないでください、旦那様」
凛の声で、そう答えた。
あなたが謝ったのは、私にではない。
鑑定の紙一枚に、安心させてもらった自分に、謝っただけだ。
最中の箱は、ずしりと重かった。
厨房を出ていく蒼真と入れ違いに、麗奈が入ってきた。
客間から昼間に出てくるのを見るのは、階段の夜から初めてだった。
麗奈の目が、私の手の中の、のしのかかった箱に止まった。
「……何それ」
「旦那様から、頂戴いたしました」
麗奈は、箱の店の名を読んだ。
付け爪の先が、自分の腕に食い込むのが見えた。
「私には、もう二週間、おはようも言わないのに」
それだけ言って、麗奈は冷蔵庫から炭酸水を一本抜き、何も飲まずに出ていった。
*
夜、離れの縁側で、私は話した。
不一致。蒼真の安堵の息。丸めて捨てられた紙。
話し終えたところで、声が出なくなった。
あの夜、運転を代わってくれた人。
私のコートを着て、私の代わりに燃えた人。
坂の途中で、骨の折れた傘を律儀に差して歩いていた人。
お屋敷ってどんな靴で行けばいいずら、と面接の前の晩、トキさんに電話をかけた人。
その人の髪が、今度も、私の前に立った。
「……凛さんに、また、命を救われました」
言った途端に、涙が落ちた。
止められなかった。
包帯の取れたばかりの手のひらで、顔を覆った。
榊さんは、何も言わなかった。
ただ、隣に座ったまま、動かなかった。
ムギが、急に顔を上げた。
離れの戸口のほうを見て、尻尾を一度だけ振った。
振り向くと、開いた戸の向こうに、小さな影が立っていた。
パジャマ姿の陽翔だった。
ぴょんたではなく、タオルにくるんだ何かを、両腕で抱えていた。
木の柄の、ヘアブラシだった。
「パパが、澪ママのブラシの毛を、取ってった」
陽翔は、私をまっすぐに見ていた。
「……りんさん、なんで泣いてるの」
コメント
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第43話、読みました。リフトでの脱出シーン、手袋が滑ってロープを握り直すところが手に汗握りました……「焼けるような痛み」という表現が、こちらまでじんときました。 榊さんの「二度と一人であれに乗るな。乗るなら俺が下で受ける」という言葉、敬語が消えたところに本音が溢れていて、すごく好きなシーンです。それと、涙を止められない凛さんのそばで、ただ座っているだけの榊さんの優しさが伝わってきました。 陽翔くんがブラシを持って現れたラスト、震えました。子どもはちゃんと見ているんですね……。続きが気になります。