「大学時代、社会人の照彦さん、つまり、あなたのお父さんと付き合っていたのよ。照彦さんは、私が大学を卒業したら結婚しようって言ってくれていたの。
でも、前に話したように、照彦さんは、海外出張の帰りの飛行機が墜落して亡くなってしまった。
ショックだったわ。毎日、とても楽しくて幸せだったのに、突然、奈落の底に突き落とされたようだった。でも」
そう言って、行彦の顔を優しい目で見つめる。
「お腹の中に、あなたがいたの。照彦さんは、もういなくても、照彦さんの血を分けた、あなたがいる。
この子さえいれば、私は、この先も幸せに生きて行くことが出来る。これからは、この子と一緒に生きて行こう。
そう思って、大学を中退して、芙紗子さんと、ここに引っ越して来たの」
行彦は尋ねる。
「お母さんは、僕のために大学を辞めたの?」
「そうじゃないわ」
母は微笑む。
「もともと、卒業したら、すぐに結婚するつもりだったし、そうでなくても、亡くなった両親の遺産があったから、就職するつもりはなかったのよ。
だから、大学を卒業するメリットをそれほど感じなかったし、卒業まで通い続けるより、早く静かな生活を始めたかったの。
行彦がいなくても、そうしていたと思うわ」
行彦が、膝の上で握りしめた手を、母は、ぽんぽんと優しく叩く。
「私一人だったら、寂しくて、今のあなたみたいに、泣いてばかりいたかもしれないわ。でも、あなたがいたから、辛いことなんて何もなかったし、毎日、楽しかった。
それは、今も変わらないわ。行彦、あなたには本当に感謝しているの。
お母さんがついているから大丈夫。何も心配いらない。あなたは、ただいてくれるだけでいいのよ」
「お母さん……」
泣くまいと思ったのに、涙があふれる。お母さん。僕の大好きなお母さん。
相変わらず、部屋から出ることが出来ないし、ときどき悪夢も見る。それでも、母と静かに過ごす日々は、行彦に安らぎをもたらした。
毎日、部屋で一緒に食事をし、母が、そばで刺繍や編み物をするのを眺めたり、本を読んだりして過ごす。
ときには、窓から見える景色を絵に描いてみたり、芙紗子が部屋を掃除しに来るときは、恐縮されながら、それを手伝ったりもした。
そんなある日、滅多に来客のない洋館に、タクシーがやって来た。窓から、門の外に停まったタクシーを見て、行彦は、にわかに不安を覚える。
ベッドに腰を下ろして、身を硬くしていると、玄関のチャイムが鳴るのが聞こえた。三階のこの部屋からでは、階下の様子はわからないが、おそらく、芙紗子が対応に出るのだろう。
大丈夫。来客くらいで動揺することはない。
そう思っていたのだが、数分後、部屋の外の廊下で物音がした。誰かがこちらに近づいて来るようで、母のものらしい話し声も聞こえる。
いったい何が? 嫌な予感に、胸の動悸が早まる。
「やめて!」
母が叫ぶのが聞こえたのとほぼ同時に、勢いよくドアが開いた。
母より少し年下だろうか、小柄で痩せた女性が、ずかずかと部屋の中に入って来た。すぐ後ろから入って来た母は、困惑の表情を浮かべている。
女性は、行彦を認めると、満面の笑みを浮かべて近づいて来た。行彦は、助けを求めて母を見る。
「ボクちゃん、大きくなって」
それが、女性の最初の言葉だった。母が、女性の肩に手をかける。
「お願い、やめて」
女性は、母のほうを見て言う。
「どうして? ようやく会えたんじゃない」
この人は、僕を知っている? 呆然と見つめている行彦に、女性が言った。
「ボクちゃん、お母さん、会えてうれしいわ」
……え? 今、なんて? 行彦の思考を遮って、母が叫ぶ。
「志保、やめて!」
名前を知っているということは、母の知り合いなのか。
志保と呼ばれた女性は、どこか狂気めいた雰囲気を漂わせながら、まくし立てる。
「素敵な洋館で、優雅な暮らし。うらやましいわ。私は未だにアパート住まいなのに。
資産家のご両親の遺産がたくさんあるんでしょう? 少し融通してほしいの。十万や二十万、あなたたちには、はした金よね。
ねぇ、ボクちゃんからも響子さんにお願いして。お母さん、生活が苦しいのよ!」
女性は、肩で息をしている。行彦は、その姿に釘づけになったまま、目を離すことが出来ない。
白い肌、華奢な体つき。行彦に向かって、自分のことを「お母さん」と……。
そのとき、母が叫んだ。
「いい加減にして! 約束が違うじゃない。お金なら払うから、早くここから出て行って!」
そして、女性の腕を掴むと、強引に部屋から引きずり出した。大きな音を立ててドアが閉まり、バタバタと足音が遠ざかって行く。
志保は、大学のサークルの後輩だった。ほっそりとして色白で、一見おとなしそうなのだけれど、甘え上手なところがあって、するりと人の懐に入って来る。
だが、甘えられると悪い気はしないし、先輩先輩と慕ってくれるとうれしい。志保のことは、ずっとかわいい後輩だと思っていた。
だから、あのときも素直に応じた。疑う気持ちなど少しもなかった。
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