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「……それから、実家では『女はすぐ泣いて、男を困らせる無能な生き物だ』と教えられてきました。だから、泣くことは恥ずべきことで、嫌われる原因だと思っていたんです。でも……」
私は、レオナルド様の広くて逞しい胸に顔を寄せたまま、昨夜、彼が与えてくれた慈しむような温もりを思い出していた。
感情を殺し、ただの「人形」として振る舞うことが正解だと教えられてきた私にとって、あの夜の出来事は天変地異に近い衝撃だったのだ。
「レオナルド様が、優しく背中をさすってくださったとき……否定せずに、ただ受け入れてくださったのが、何よりも嬉しくて。あんなに安心したのは、生まれて初めてでした」
私の独白を聞いたレオナルド様は、包み込む腕の力を少しだけ強めた。
まるで、私という存在を物理的に繋ぎ止めておきたいと願うように。
そして、幼子を諭すような、どこまでも穏やかな声で言った。
「……アネット。辛いときは、我慢せずに泣けばいい。それを弱いなんて思う必要はない」
「え……?」
意外な言葉に、私は彼の胸の中で顔を上げた。
泣くことは弱さの象徴ではないのか。
人を不快にさせる愚行ではないのか。
戸惑う私を見つめ、レオナルド様は優しく目を細めた。
「『泣いた分だけ、女性は強くなる。だから泣きたいときは泣いて、また明日から笑えばいい』……かつて、亡くなった母がよく言っていた言葉だ」
「……!」
「だから俺の前では、どんな姿を見せても構わない。みっともなく泣き喚いても、取り乱してもいい。君の涙ごと、夫としてすべて受け止める」
その言葉が、凍りついた私の心の奥底に染み渡っていく。
視界がまた、じわりと潤んだ。
けれど、今度はあの冷たい悲しみではなく、温かな陽だまりに包まれたような幸せな涙だった。
◆◇◆◇
それから数日───…
レオナルド様は宣言通り、私をこれでもかというほどに甘やかした。
まるで、半年間の空白を一気に埋め合わせようとするかのような過保護ぶり。
そんなある日、私は彼の完璧なイメージを根底から覆す、意外な一面を見てしまった。
少しでも彼に喜んでもらいたくて、私は慣れない手つきでクッキーを焼いた。
形は不揃いで、少し焦げてしまったけれど、籠に詰めて彼の執務室を訪ねた。
「レオナルド様、お仕事の休憩にどうぞ」
「……っ、アネットが、俺のために? わざわざ焼いてくれたのか?」
彼はその瞬間、雷に打たれたように椅子の上で固まった。
そして、震える手でクッキーを一枚手に取ると、食べるのがもったいないと言わんばかりに、真剣な顔でじーっと見つめ始めたのだ。
「……食べないのですか? あ、えっと、毒とかは入ってないですよ……?」
「アネットが入れるわけないだろう。 君が作ってくれたと思うと食べるのが惜しくてな」
なんと、普段は鉄の仮面を被っているようなコワモテな彼が林檎のように耳を真っ赤に染め、クッキー一枚を前にして本気で悶絶し、葛藤しているのだ。
結局、意を決したように一口食べるたびに、「……幸せだ」「……店を出せるぐらいだ」と、消え入りそうな小声で呟きながら、拝むように食べている。
帝国を動かす冷徹な「狂犬」が、焦げたクッキーに完敗しているその光景。
そのギャップが、私にはたまらなく愛おしく、おかしくて仕方がなかった。
「……ふふっ…」
思わず噴き出した私を見て、彼は「なにかおかしなことを言ったか?」と聞いてきたが、私は「いいえ」と言って、頬が緩むのを止めれなかった。
仕事では堅物な彼も、妻の好意には耐性がゼロ。
その事実を知ったとき、私は彼との距離がさらに縮まったのを感じた。
だが、そんな幸せは長くは続いてくれなかった。
そんな穏やかな、春のような時間を切り裂くように、その男たちは現れた。
私の実家である伯爵家の人々と、かつて私を虐げていた親族の男たち。
彼らは厚かましくも何の連絡もなしで屋敷に乗り込んできたのだ。
「やあ、アネット。ここの旦那様に随分と可愛がられているようじゃないか。だったら、うちへの援助をもっと増やしてもらっても罰は当たらないだろう?」
応接室にどっかと座り込んだ父は、下卑た笑みを浮かべて私を値踏みするように睨みつけた。
その後ろに控える男たちの、ねっとりとした視線を感じた瞬間。
私の身体は、あの忌まわしい記憶に引きずり戻されるように、氷のように冷たくなった。
それでも、居合わせたからには妻として夫を守らなくては。
なにより、レオナルド様にこんな人たちを関わらせたくない。
迷惑をかけたくない一心で、腹を括って震える声で言葉を絞り出した。
「……お、お父様、レオナルド様は貴方たちの欲を満たす道具ではありません。も、もう、帰ってください」
しかし
「黙れ! 誰のおかげでこの豪華な屋敷にいられると思っているんだ?!お前は我々の生活を支えるための家畜だろうが!この恩知らずな女め!」
父が怒鳴りながら、かつてのように私を打とうと手を振り上げ、体がビクついた。
そのとき──
「──誰が、俺の妻に触れていいと言った?」
部屋の空気が、一瞬で極寒の地へと変わった。
扉の前に立っていたのは、私に向けていたあの優しい顔を完全に捨てた、真の「氷の狂犬」レオナルド様だった。
彼は音もなく歩み寄ると、震える私を背中に隠し、父の手首を万力のような力で掴み上げた。
「ギ、ギャアアッ! 痛い、離せっ!」
「誰に向かって言っている」
「レ、レオナルド殿、こ、これは教育なんですよ…!」
「教育? 貴様のようなゴミが、俺の宝物に何をするつもりだ。その汚い手で、妻に危害を加えるつもりなら容赦はしない」
レオナルド様の瞳は、見たこともないほど冷酷で、底知れぬ殺気に満ちていた。
彼は私を長年虐めてきた男たちを一人ずつ、まるで獲物を仕留める獣のように射抜く視線で見据えた。
そして、静かに、けれど逃げ場のない死神の声で告げた。
「お前たちがこれまでアネットにしてきた非道の数々は、すべて調べがついている。借金の肩代わりも、没落しかけた爵位の維持も……すべて今日限りで終わりだ。今すぐここから消えろ。二度と、俺たちの視界に入るな」
「そ、そんなことをしたら、我々は路頭に迷う! 死ねと言っているのか!」
「構わん。貴様らがどうなろうと、俺の知ったことではない。……だが、これ以上、一秒でもアネットを不快にさせるなら、路頭に迷うどころか、奈落の底まで叩き落としてやる」
「なっ!そんな脅しが効くと……!!」
「容易いことだ、俺の権力すべてを使えばな」
彼の放つ圧倒的な威圧感と、逃れられない絶望を前に、男たちは顔を青ざめさせた。
腰を抜かし、転げるようにして応接室から逃げ出していく。
彼らの卑屈な背中が見えなくなると、レオナルド様はすぐに私の方を振り返った。
「……怖かったろう。もう大丈夫だ。あいつらには二度と、君に指一本触れさせない」
その瞳には、先ほどの氷のような冷酷さは微塵もなかった。
そこにあるのは、ただ私を案じ、守り抜こうとする深い、深い愛だけだった。
(信じられない、でも、ああ……本当に…終わったんだ……)
二十年近く私を縛り付けていた、過去という名の重い鎖。
それが今、彼の振るう正義という名の剣によって、跡形もなく断ち切られたのを感じた。
私は彼の腕の中に顔を埋め、今度はもう、怯えることなくその温もりを噛み締めた。