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実家との決別を経て、私の中に新しい勇気が芽生えていた。
レオナルド様が命懸けで守ってくれたこの穏やかな日々を、もっと大切にしたい。
彼が与えてくれる無償の愛に、私も全力で応えたい。そして何より───
(……もっと、自分から彼に近づきたい)
勇気を振り絞り、私は隣に座る彼を見上げて切り出した。
「あの……レオナルド様。私、男の人に対する怖さを克服したいんです。その、少しでいいので、リハビリ……のようなことを、手伝っていただけませんか?」
私の唐突な申し出に、レオナルド様は驚いたように銀灰色の目を見開いた。
けれど、その驚きはすぐに深い歓喜と覚悟に変わり、彼は力強く頷いてくれた。
「もちろんだ。……では、まず聞かせてくれ。君は何を考えて怖くなる?具体的に、どういう要素に恐怖を感じる?」
彼はまるでお堅い学者のような真剣な顔つきで、私の言葉を一つも漏らさぬよう身を乗り出す。
私は指を折りながら、自分の心の傷に触れるように、慎重に言葉を選んだ。
「……殴られたり、酷いことを言われたり……あと、自分よりずっと大きい人も怖いです。力が強いのも。大きな音を出されたりするのも……って、ご、ごめんなさい。なんだか、注文の多い客みたいなこと言っちゃって……」
自分の臆病さを羅列するのが急に恥ずかしくなり、私は慌てて俯いた。
レオナルド様は、私が挙げた条件──
「大きい」「力が強い」「怖い」──のすべてに、自分という存在が完全に当てはまっていることに気づいたのだろう。
彼は少しだけ複雑そうな顔をして、困ったように苦笑した。
「……アネット。俺は大きいし、力も強い。世間からは『狂犬』なんて呼ばれている。……俺のことは、怖くないのか?」
「レオナルド様は……怖そうで、怖くないです」
私の即答に、彼は呆然と目を瞬かせた。
まさかそんな言葉が返ってくるとは思っていなかったようで、彼は一瞬呼吸を忘れたように固まっている。
「……どういう意味だ?」
「……その、変な意味じゃなくて……っ、黙っていると確かに怖いですけど、関わってみると、誰よりも誠実で優しい人だって分かりますから。……私を傷つけるような、悪い人じゃないんだって信じられるので……」
顔を真っ赤にしながら、胸の奥の本心を伝えた。
するとレオナルド様は、口元を大きな片手で覆い、視線を斜め下へと逸らした。
端正な横顔がみるみる赤らみ、耳の先まで真っ赤になっている。
「……そうか。なら、まずは──ハグする習慣を作ってみないか?」
「ハ、ハグですか……?」
「そうだ。医学的にも抱擁にはリラックスやストレス軽減効果がある。1日30秒のハグでストレスの3分の1が解消されるとも言われているんだ」
「えっ、そんな効果が……っ?」
思わぬ科学的な根拠を、必死すぎるほど真面目な顔で並べ立てる彼に、私は目を丸くした。
どこでそんな知識を仕入れてきたのだろう。
「ああ、信頼関係の構築にもピッタリだと思ってな……どうだろうか」
「……それぐらいなら…できると思います、分かりました…!お願いします、レオナルド様」
そうして翌日から、リハビリは始まった。
「では……失礼する」
レオナルド様が、ゆっくりと、本当にゆっくりと両腕を広げた。
それは、私がいつでも逃げ出せるように
背後の退路を確保したままの、どこまでも慎重で優しい誘いだった。
私はおずおずと彼の一歩踏み出し、広い胸に顔を埋めた。
瞬間、鼻腔をくすぐる清潔な石鹸の香りと、彼の体温が私を包み込む。
……トクン、トクン、トクン…
彼の規則正しい、けれど少し早まった心臓の音が、私の耳に直接響いてくる。
大きくて、逞しい身体。
岩のように硬い筋肉。
でも、そこからは暴力の気配なんて微塵も感じない。
ただ、私を温め、世界から守ろうとする静かな意思だけが伝わってくる。
「1、2……10……」
彼が真面目に秒数を数える低い声が、胸板を通して心地よいリズムとなり、私を優しく包む。
いつの間にか私の身体から余計な力が抜け、冷え切っていた指先に血が通い始めた。
気づけば、自分からも彼の背中にそっと手を回していた。
私のささやかな応えに、彼の身体がビクリと跳ねる。
「……29、30。……よし」
名残惜しそうに、彼はゆっくりと腕を解いた。
私の顔を覗き込む彼の瞳には、蕩けるような深い熱と、慈しみが宿っている。
「あとは……目を合わせる練習もしような。少しずつでいいから、一緒に慣れていこう」
「……はい」
私は逃げずに、彼の瞳をじっと見つめ返した。
至近距離で見るその瞳には、かつて社交界で恐れられていた「狂犬」の鋭さなどどこにもない。
そこには、私を世界で一番幸せな女性にしたいと心から願い
慣れない愛情表現に戸惑いながらも奮闘する、ひとりの愛しい夫の姿があるだけだった。
私は、彼の大きな手に自分の手を重ね、穏やかな微笑みを浮かべた。