コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「いってらっしゃい」
「いってきます」
「気を付けてね」
「莉子も気を付けてね」
直也が改まった表情で莉子を見上げた。
「今日は雨が降っているから出掛けないよ?」
「あ、そうか」
「直也、どうしたの」
「なんでもないよ、いってきます」
見送る挨拶のキスをして抱き締め合うと玄関の扉が閉まった。
この頃、直也の様子がおかしい。何処か余所余所よそよそしくて落ち着きが無い。数日前の深夜に目が覚めると隣に直也の気配が無く足音を立てずに階段を降りた。
(なにをしているの?)
リビングのソファーで仄ほのかに明かりを感じた。
(ーーーLINE?こんな時間に?)
携帯電話はマナーモードにしてあるが一定間隔でバイブレーション機能の振動音が聞こえた。
(アッ!)
LINEの遣り取りが終わった直也がソファから立ち上がりトイレへと向かった。莉子は慌てて寝室に戻ると布団に潜り込んで息を殺し寝た振りをした。
ぎしっ
ベッドのマットレスが直也の重みで沈み込む。
(ーーー見てる)
莉子は背中に直也の視線を感じた。
月曜日の朝は憂鬱だ、燃えるごみをごみ収集場に持って行けば近所のご婦人たちのゴシップトークを耳にしなければならない。案の定この雨の中にも関わらず、赤や青、紺色の傘が屯たむろしていた。
「おはようございます」
莉子は緑色の害獣避けネットを退かし満杯になったごみ袋を押し込んだ。
「おはよう、萩原さん」
「おはようございます」
「萩原さんのところ、結婚歴長いわよね」
如何やら週刊記者に捕まってしまったようだ。
「はい、9年になります」
「あらぁ、それは危ないわよ!」
「危ない、なにが危ないんですか?」
赤い傘のご婦人が莉子に詰め寄った。彼女の持論では3の倍数が倦怠期で浮気や不倫不貞行為が起きやすいのだと言った。
「萩原さんのご主人、格好良いじゃない?」
「そうですか」
「背も高いし、ほら、あの俳優さんに似てるって言われない?」
「ああディーンなんとか!」
「そうでしょうか」
「それそれ、萩原さん要注意よぉ」
「はい、気を付けます」
莉子は玄関先で裸足の足裏を拭きながら深夜に誰かとLINEで文字を遣り取りをする直也の背中を思い出した。
(私と直也は倦怠期、なの?)
そしてもう1人、莉子は青い芝生広場の蔵之介を思い出していた。
湿り気が多い季節、莉子はリビングの床を乾いた雑巾で拭きながら視線を上げた。風呂場のバケツの中に雫が落ちて波紋を作った。
(ーーーー)
それはまるで吸い寄せられる様に階段を上り寝室の扉を開けた。クローゼットの中から踏み台を取り出し足を掛けて腕を伸ばした。そして指先に触れたクッキー缶を手に取りベッドに腰を下ろした。
(ーーーー)
蓋を開けると溢れ出す幼い恋の思い出。莉子は紙飛行機を一機取り出すと破いてしまわぬようにそっと開いた。
莉子 大好き
もう一機。
莉子 勉強がんばれ
莉子 合格
莉子 会いたい
頭上の瓦屋根に叩き付ける雨音が激しさを増した。
莉子 愛してる
(蔵之介)
気が付くと正方形の青い色紙に点々と涙が落ちて滲んだ。莉子は慌てて涙を拭うとチェストの上で紙飛行機を折り直した。
(ーーーやだ、破れちゃった)
何度こうして紙飛行機を開き思い出を辿ったか分からない。その折り目は白く毛羽立っていた。莉子は蔵之介の思いをクッキー缶に戻し蓋を閉めた。
(蔵之介)
莉子は踏み台に上った足を躊躇ためらいながらゆっくりと床に下ろした。
(会いたい!)
気が付くと莉子はクッキー缶の蓋を開けベッドのマットレスに全ての紙飛行機を勢いよく広げていた。
(これじゃない!これも違う!)
積もり積もった蔵之介への思いをより分けながら英字新聞の紙飛行機を探した。慌てる指先は一機の紙飛行機をベッドの下に落としたが莉子はその事に気付かずリビングに駆け降りると携帯電話を握った。
(声が聞きたい)
震える指で紙飛行機を開くと蔵之介の携帯電話番号を目で追い打ち込んだ。
壁掛け時計は13:15、平日のこの時間帯に電話が繋がるとは思えなかった。
(5回、5回鳴らして出なかったら諦めよう)
スピーカーをオンにすると寂しげなリビングに呼び出し音が響いた。1回、2回、莉子の心臓は早鐘を打った。3回、息を呑む。4回、唾を飲み込んだ。5回、蔵之介へ莉子の切なる願いは通じなかった。
6回
然し乍ら莉子は自身の決め事を破った。
7回
携帯電話を握る手が震えた。
8回
電話番号が間違っていないか視線を落とした。
9回
間違ってはいなかった。
10回
縁がなかったのだと発信ボタンに指を置こうとした瞬間、莉子の呼吸は止まった。
「もしもし」
未登録の携帯電話番号からの着信、蔵之介は怪訝そうな声で電話に出た。
(蔵之介ーーー!)
それは喧嘩した時の不機嫌な声色によく似ていた。
「もしもし?」
莉子はその問いかけに応える事が出来ず携帯電話を見つめた。すると蔵之介も無言になり互いの息遣いをスピーカー越しに感じた。
「ーーー莉子さん」
涙が溢れた。莉子は昂る感情を抑え平静を装った。
「う、うん。突然ごめんね」
「誰からの電話か分からなかった」
「蔵之介、げ、元気だった?」
「このまえはありがとう」
「ーーーえ、なに」
「紅茶の」
「あ、うん。あんなに安くて良かったの」
「婆ちゃんの遺品なんだ、山ほどあってフリマで処分しているんだ」
「ネットに出せば高く売れるのに」
「割れ物だから、なにかあったら面倒くさいんだ」
「ーーーそうなの」
「うん」
17年間の歳月は2人を隔て会話が思う様に続かなかった。すると一呼吸置いた蔵之介が重みのある声で語り掛けた。
「莉子さん」
「なに」
「初めて行った喫茶店、覚えている?」
「鞍月くらつきのスミカグラスだよね」
蔵之介の唾を呑む音が聞こえた様な気がした。
「明後日の水曜日、スミカグラスで会えないかな」
莉子は心臓が止まるかと思った。
「明後日」
「ーーー無理か」
「だ、大丈夫、水曜日何時?」
「何時が都合良い?」
壁掛け時計は14:00だった。
「14:00」
「分かった、目印は」
「分かる、蔵之介ならすぐに分かる」
「僕、バスの時間で遅れるかもしれない」
「バス」
「自動車の運転が出来ないから」
「そうなんだ」
「うん」
蔵之介の右半身の麻痺は成人した今も影響し自転車や自動車の運転は覚束おぼつかず極力控えていると言った。
「じゃあ、また」
「うん」
莉子の頬は上気し、携帯電話の黒い画面にその顔が映った。