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世界は、正しい秩序の上に成り立っているべきだ。
冬の朝、午前七時。
私は決まった角度でカーテンを開け、冷たく、鋭い冬の光を部屋に招き入れる。
百円ショップで購入した正確すぎるデジタル時計が、秒刻みのリズムを刻んでいる。
私は、感情の起伏が周りの人と比べて殆ど無い。
怒りや悲しみは、効率を著しく低下させるシステムエラーのようなものだ。
だから私は、常に「正しい」とされる行動を選択する。
成績は学年一位を維持し、陸上部では誰よりも早くグラウンドに入り、学級委員長としてクラスの静寂を保つ。
周囲からは「高嶺の花」だとか「鉄の女」だとか囁かれているようだが、私に言わせれば、皆が少し無秩序すぎるだけだ。
「篠山さん、悪いんだけどこれ、朝香さんの家に届けてくれないかな」
担任の教師が、職員室の重い空気の中で、数枚のプリントが入ったクリアファイルを私に差し出した。
朝香雅。
出席簿にその名を見つけるたび、私の脳内にある整理整頓された棚の一部に、正体不明の埃が溜まるような感覚がしていた。
高校二年生になってから、彼女の登校日は片手で数えるほどしかない。
噂では何らかの病気だとか、ただの不登校だとか言われているが、私にとって彼女は出席番号の秩序を乱す欠番でしかなかった。
「……わかりました」
私は淡々と答え、ファイルを受け取った。
感情を込めない返答は、他人の干渉を最小限に抑えるための最も有効な防壁なのだ。
放課後の東京は、灰色に濁っていた。
地下鉄の階段から地上へ出ると、冷え切ったコンクリートの匂いが鼻を突く。
十二月の空気は乾燥しており、深く吸い込むと肺の奥がひりついた。
朝香雅の家は、高級住宅街の片隅にある、少し年季の入ったマンションだった。
オートロックを抜け、エレベーターの四階を押す。
鏡張りのエレベーターに映る自分の姿は、どこまでも記号的だった。
乱れのない制服の襟、一ミリの狂いもなく結ばれたネクタイ。
四〇二号室の前で、私は深呼吸を一つした。
チャイムを鳴らすと、間を置かずに「はーい!」という、緊張感の欠片もない声が響いた。
ドアが開いた瞬間、私の網膜に強烈な色彩が飛び込んできた。
そこに立っていたのは、冬だというのに薄手のキャミソールに派手なカーディガンを羽織り、不自然なほど明るい金髪を雑にまとめた少女だった。
「え、誰? …あ、もしかしてクラスメイトの子?」
朝香雅は、驚くほど大きな瞳を細めて笑った。
その頬は少し痩せているように見えたが、纏っている空気は、この灰色の冬空を拒絶するような熱を帯びていた。
「篠山凛です。担任に頼まれて、プリントを届けに来ました」
「えー! 凛ちゃんっていうんだ。超可愛い名前じゃん。わざわざ悪いね、上がって上がって!」
「いえ、お邪魔でしょうし……」
「いいから! 外、超寒いっしょ? ウチ、今ちょうどコーヒー淹れたとこ。飲まないと呪っちゃうよ〜?」
呪う。
その非論理的な言葉に、私は一瞬言葉を失った。
断るタイミングを逸している間に、私は彼女の手によって、カカオの匂いが充満する部屋へと引きずり込まれた。
部屋の中は、私の理解を超えた混沌だった。
床には読みかけの雑誌が散らばり、机の上には色とりどりのネイルチップや、用途不明のキーホルダーが山積みになっている。
壁にはどこか南の国のものらしい極彩色のポスターが貼られ、加湿器からは不自然なほど甘いバニラの香りの蒸気が立ち上っている。
私は、眩暈がした。
ここには秩序という概念が存在しない。
「ごめんね、散らかってて。ウチ、整理整頓とかマジ無理な人なんだよね」
彼女はソファの上のクッションを適当にどかし、私に座るよう促した。
私は制服のスカートに皺が寄らないよう、慎重に腰を下ろした。
「……朝香さん。このプリントは、次の試験範囲に関する重要事項です。確認しておいてください」
「はーい。あ、アンタ、コーヒー飲める? ブラック? ミルク入れる?」
「…ブラックで」
彼女は「了解!」と指でVサインを作ると、キッチンへと消えた。
部屋に残された私は、自分の足元にある一冊のノートに目を留めた。
それは使い古された大学ノートで、表紙にはマジックで大きく『やりたいことリスト』と書かれていた。
その文字は、彼女の派手な外見に反して、驚くほど丁寧で、背筋が伸びるような美しい書体だった。
「お待たせ! 特製ブレンド、召し上がれ」
運ばれてきたマグカップからは、湯気が立ち上っていた。
一口含むと、苦味の中に強い酸味が混ざっていた。
それは、私がいつも飲んでいるコンビニの機械的なコーヒーとは、明らかに異なる誰かの手が入った味がした。
「……美味しいです」
「でしょ? ウチさ、心臓がちょっと弱いんだけど、まぁ…バッテリーの持ちが悪いスマホみたいなもんでさ〜」
「でも、コーヒーを淹れてる時は、病気がなくなったみたいに落ち着けるんだ」
彼女は自分のマグカップを両手で包み込み、幸せそうに目を細めた。
バッテリー。
彼女は自分の命を、そんな無機質なものに例えた。
私はその表現に、妙な親近感を覚えた。
私にとって世界はシステムであり、彼女にとって自分はデバイスなのだ。
「朝香さんは、いつ学校に戻れるのですか」
私の問いに、彼女の動きが一瞬止まった。
彼女は窓の外、暮れなずむ東京の街並みを見つめた。
新宿のビル群が、点々と灯りを宿し始めている。
「さあね。冬のバッテリーってさ、すぐゼロになるじゃん? あったかくなったら、また充電されるかもだけど」
彼女は冗談めかして言ったが、その横顔に、一瞬だけ深い闇が差したのを私は見逃さなかった。
それは、秩序を何よりも重んじる私が、最も忌むべき不確定要素だった。
死。あるいは、終わり。
この金髪の少女の体の中で、秒刻みのリズムを刻んでいるはずの心臓が、いつか不規則に、あるいは唐突に、その活動を止める。それはどれほど計算を尽くしても導き出せない、最悪のバグだ。
「……プリントは確かに渡しました。失礼します」
私は逃げるように立ち上がった。
この部屋に漂う、甘ったるい死の予感から距離を置きたかった。
玄関まで見送りに来た朝香雅は、ドアを閉める直前、私の袖を軽く引いた。
「ねえ、凛ちゃん。アンタ、字、綺麗?」
突拍子もない質問だった。
私は少し眉をひそめ、正直に答えた。
「いいえ。私は昔から、字を書くのが苦手です。形が整わず、いつも崩れてしまうので、あまり好きではありません」
「ふーん。意外!」
彼女はニシシ笑った。
「ウチはね、習字やってたから、字だけは綺麗なんだ。でもさ、心臓がバクバクすると、線が震えちゃうんだよね。面白いよね」
何が面白いのか、私にはさっぱりわからなかった。
私は何も言わずに彼女に背を向け、エレベーターへと向かった。
灰色の空の下、東京の街には無数の灯りが灯っている。
その一つひとつに、誰かの人生があり、システムがあり、そしていつか訪れる終わりがある。
私のポケットの中で、スマートフォンのバイブレーションが規則正しく鳴った。
塾へ行く時間だ。
私は足を速めた。
冷たい風が、さっき飲んだコーヒーの、苦い後味をさらっていった。
これが、私と彼女の、長く、そして短すぎる冬の始まりだった。