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翌日。
重い身体に鞭を打って、出社した。
部長に寝不足を悟られるのが嫌で、目の下のクマを隠すのに十分もかけた。けれど、部長は一日会議に追われていて、顔を合わせることはなかった。
ホッとしている自分と、ガッカリしている自分。私はどちらの自分も見ぬふりして、仕事をした。
「お疲れさまでした」
沖くんが帰って、企画課には私一人になった。
二十二時三十分。
私はノートパソコンの電源を切って、パタンと閉じた。
「はぁ……」と、椅子にもたれてため息を漏らす。
「一人?」
私は慌てて身体を起こした。
黛賢也《まゆずみけんや》――。
「お疲れさまです」
私は嫌悪を隠さずに、低い声で言った。
「食事でもどう?」
何十回も聞いた台詞。
私は聞いた分だけ言った台詞を口にした。
「お断りします」
「そんなに警戒しなくても、食事だけだよ」
黛の自信満々のにやけ顔を見ると、厚さ二十センチのハードファイルで殴ってやりたくなる。
「食事に何を入れられるか、わかりませんから」
私はデスクの上を片付け、足元の鞄を手に取った。
「その手があったか」
白々しい!
黛が薬を盛って女をホテルに連れ込むことは、実証済みだ。
被害者は、桜。
悔しいことに、桜本人は自分を被害者だとは思っていないが。
「どうしたら一緒に食事してくれるのかなぁ? お義姉《ねえ》さん?」
全身の毛が逆立つ。
吐き気がする。
「気持ち悪い呼び方しないで」
「事実だろ?」
「私はあんたの義姉《あね》じゃないし、これからもならないわ」
叫びださないように、精一杯冷静さを保つ。けれど、私の努力など一瞬で粉々にされた。
「じゃあ、妻になってよ」
「いい加減にっ――」
「遅くなって悪かったな」
黛の背後から男性の声がした。
槇田部長。
「お疲れ、黛」
「あ、お疲れさまです」と言って、黛が一歩横にずれた。
「出られるか? 馨」
唐突に名前を呼ばれ、私は耳を疑った。
「槇田部長、那須川さんと約束ですか?」
黛が頬を引き攣らせて聞く。
「ああ。お前は? 馨に用か?」
「い、いえ。姿が見えたので世間話していただけです」
「そうか。じゃあ、行こうか」
訳が分からないまま、部長の後に続く。
「安心するのはまだだよ」
すれ違い様に、黛が囁いた。
気持ち悪い――!
引っ叩いてやりたくて振り返ろうとした私は、グイッと腰を引き寄せられた。
「黛、わかってると思うが他言無用だぞ」
どこからどう見ても恋人が寄り添う様に、黛が眉をひそめた。すぐに、作り笑顔。
「もちろん、わかってますよ」
「じゃ、お疲れさん」
私は背中に黛の視線を感じながら、部長と共にエレベーターに乗り込んだ。
黛のことを考えると、身体が震える。
いっそ、殺してやりたい――。
私は俯き、必死で感情を殺していた。
「余計な事、したか?」
「え?」
ハッとして顔を上げると、部長が無表情で私を見ていた。
「いえ……。助かりました。ありがとうございます……」
部長、いつから聞いてたんだろう……?
「素直だな」
「本当に……助かりましたから」
「黛に俺と付き合ってると思わせて良かったのか?」
「あの男にどう思われても……どうでもいいです」
「……そうか」
エレベーターが一階に到着し、降りようとしてようやく、部長の手がまだ私の腰を抱いていることに気がついた。慌てて身体を放す。
「チッ」と、部長の舌うちが聞こえた。
何考えてるのよ、ホント!
「ラーメン食うには遅すぎるな」
ビルを出ると、部長が言った。
「は?」
「何か、食いたいもんあるか?」
「へ?」
「苦手なもんとか――」
「ちょ、ちょっと待ってください。私、真っ直ぐ帰りますから!」
「桜って――」
心臓がドクッと鈍い音を立てた。
「お前の妹……?」
話、聞いて――。
「黛と結婚――」
「しませんよ!」
部長の言葉を遮って、言った。
「――っさせません! 絶対っ――!!」
桜と黛が結婚なんて、考えただけでも吐き気がする。
「そうか……」と言って、部長は私の手から鞄を奪って歩き出した。
手が痺れるほど強く、鞄を握りしめていたことに気がついた。
「で? 何食べる?」
気まぐれに、思った。
ま、いっか……。
「寿司!」
私が答えると、部長は振り返って笑った。
「了解」
今は、部長の強引さと優しさが心地よかった。