テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
46,527
159
雨は、昼過ぎから降りだした。
本所に帰されて、六日目の夕方だった。
路地の溝があふれて、格子戸の前の敷石が黒く濡れている。私は、上がり框に座って、膝の上の罫紙を見ていた。
屋敷へ行かなければ、と思う。この紙を、あの人に見せなければ。
けれど、どの顔をして門をくぐればいいのか。追い出された嫁が。夫を疑って嫁いだ女が。
そのとき、路地の入口のほうで、自動車の警笛が短く鳴った。
長屋の戸が、一斉に開く音がした。雨だというのに、傘を差した人影が、ぞろぞろと路地に出てくる。
「また来たよ、黒い自動車」
「今度は何だい。行李を取りに来たのかね」
私は、格子戸を細く開けた。
黒い自動車が、路地の入口に止まっていた。
その前に、背の高い人が立っていた。
黒い三つ揃いに、外套も着ていない。帽子もかぶっていない。傘も差さずに、雨の中に立っている。前髪が一筋、額に張りついていた。
両腕で、風呂敷の包みを、胸に抱えこむように持っていた。
運転手が、慌てて傘を差しかけようとする。その人は、首を振って、それを断った。
そして、まっすぐに、路地を歩いてきた。
長屋の人たちが、息を呑んで道をあける。
その人は、格子戸の前で、立ち止まった。
雨の雫が、顎の先から落ちていた。
「……食べていないだろう」
侯爵様は、そう言って、濡れた手袋の手で、風呂敷の包みを差し出した。
包みだけが、少しも濡れていなかった。
*
奥の部屋で、父が布団の上に正座していた。
侯爵様は、狭い土間で靴を脱ぎ、畳に膝をついて、父に深く頭を下げた。
「父上。長くご挨拶にも伺わず、申し訳ない」
「お、御前様、どうか、お手を」
父は、おろおろと手を泳がせた。
風呂敷の中は、黒塗りの重箱だった。
一の重には、いびつな三角の握り飯が六つ。二の重に、蓮根と人参の煮しめ。それから、卵焼き。
卵焼きの端は、やはり、焦げていた。
「……焦げた。食べなくていい」
そう言いながら、侯爵様は重箱を、少しも引っこめなかった。
私は、箸を取った。
焦げたところから、口に入れた。
甘い。砂糖の多い、あの人の卵焼きの味がした。
噛むたびに、喉の奥が熱くなって、飲みこむのが難しかった。
父が、握り飯を一つ取って、口に運んだ。
「……塩が、きついですな」
そう言って、父は、少し笑った。
父は、握り飯を一つ平らげると、「俺は、奥で休ませてもらう」と言って、襖を閉めた。
六畳の表の間に、ランプと、重箱と、私たちだけが残った。
雨の音が、強くなった。
*
私は、手拭いを差し出した。
侯爵様が、黙って髪を拭く。その手が止まるのを待って、私は帯の内側から、封筒を出した。
「宇佐美先生が亡くなったとき、私が、先生の胸の隠しから抜き取りました」
侯爵様の手が、止まった。
「警部補にも、旦那様にも、黙っておりました。この字が、もし本当に、旦那様のものだったらと思って」
私は、罫紙を広げ、ランプの笠を外した。
炎を低くして、紙を斜めに傾ける。
「見てください。墨の脇に、鉛筆の溝があります。誰かが、旦那様の字を下に敷いて、なぞったのです」
侯爵様は、紙を覗きこんだ。長いあいだ、身じろぎもしなかった。
「旦那様は、書いていない。……見ました。この目で」
それから私は、全部話した。
千鶴さんが、女学校の二つ上の先輩で、いちばんの友達だったこと。千鶴さんの手紙を持って、千鶴さんを殺したのは侯爵様ではないかと疑って、嫁いできたこと。十二階の雁皮紙は、古本などではなく、千鶴さんが私に遺したものだったこと。
そして、この罫紙の左下の欠け。
「大正七年に、うちの店で刷った紙です。この欠けは、十五の私が罫を落として作ったものです」
声が、震えた。
「私の家が刷った紙で、小夜子様の死は嘘に書き換えられました。千鶴さんは、この欠けに気づいて、死にました」
侯爵様は、何も言わなかった。
私は、畳に手をついた。
「旦那様を疑いました。毎朝、旦那様の作ってくださるものを食べながら、ずっと。……申し訳、ございませんでした」
「顔を上げろ」
冬馬、と書かれた紙を、侯爵様は指で押さえた。
「この紙を刷ったのは、君の家だ。だが、この上に嘘を書いたのは、君の家ではない」
襖の向こうで、父が身じろぎする気配がした。
「活字は嘘をつかない。嘘をつくのは組む人間だと、父上は言われるそうだな。……君が、前にそう話していた」
覚えていたのだ。嫁いで間もない夜、ライスカレーの湯気の向こうで、ぽつりと話しただけのことを。
*
「それに、知っていた」
低い声だった。
私は、顔を上げた。
「君が、千鶴の友人だということは。嫁に迎える前から、知っていた」
侯爵様は、濡れた前髪を、指でかき上げた。
「千鶴が死んだあと、警察から遺品が返された。その中に、手帳があった。最後の頁に、こう書いてあった」
灰色がかった黒い目が、私を見た。
「栞を巻きこみたくない。でも、この家の紙の嘘を見抜けるのは、栞だけ」
息が、止まった。
「神田の活版所の娘で、名を栞という。それだけを手がかりに、探させた。見つけたときには、店は焼けて、父上は寝ついて、借金が残っていた」
「それで、証文を」
「次に狙われるのは、千鶴が名を書き残した娘かもしれない。それなら、手元に置くほうが守れる。……そう考えた。同時に、君の目を借りようとも考えた」
侯爵様は、目を伏せた。
「卑怯なやり方だ。わかっている。だから、一年で離縁すると決めていた。署名した離縁状を、書斎の引き出しに入れてある。一年たったら、借金のない身で、君を父上のもとへ返すつもりだった」
状、という一字が、頭の中で鳴った。書斎の引き出しの、白い封筒。
「礼は要らない、そういう約束だ、と仰ったのは」
「千鶴との約束だ。手帳に、そう誓った。巻きこむ代わりに、必ず無事に返すと」
「十二階の紙が、古本に挟まっていたというのも」
「嘘だと、わかっていた。千鶴の字を、見間違えるものか」
「書庫の歌集も」
「千鶴が好きだった歌集だ。萩の間から、一冊だけ移した。君が見つけるかもしれないと思った。……何が書いてあるのかは、知らなかった」
私は、膝の上で、手を握りしめた。
「それなら、なぜ、最初に仰ってくださらなかったのですか」
「君も、言わなかった」
「それは、旦那様を」
疑っていたから。言いかけて、口をつぐんだ。
侯爵様が、ほんのかすかに、口の端を動かした。
同じだったのだ。この人も、私も。相手を信じきれないまま、同じ屋根の下で、同じ卵焼きを食べていた。
「一年たったら、私を返すおつもりだったのですね」
自分でも驚くほど、尖った声が出た。
「借金がなくなれば、それで済むと。私に、何も訊かずに」
「……ああ」
「勝手です」
涙が、ぼろぼろとこぼれた。怒っているのか、泣いているのか、自分でもわからなかった。
「勝手です。旦那様も、私も」
侯爵様の手が、伸びてきた。
濡れた手袋を外した、素手だった。その指が、私の頬の涙を、不器用にぬぐった。
「栞」
初めて、名前を呼ばれた。
婚礼の夜から、七か月。一度も呼ばれなかった名前だった。
「帰ってきてくれ」
私は、うなずいた。
声は出なかった。何度も、何度も、うなずいた。
侯爵様、と心の中で呼ぶのを、私はその夜からやめた。
冬馬様。
胸の内でそう呼んだだけで、また涙があふれた。
*
そのとき、格子戸が、がたがたと激しく鳴った。
「奥様。奥様、いらっしゃいますか」
冬馬様が立ち上がるより先に、戸が開いた。
雨の路地から、小さな影が転がりこんできた。
お鈴だった。傘もなく、前掛けも裾も、泥だらけだった。市電の停留所から、走ってきたのだろう。肩で息をしている。
「お鈴、どうしたの」
お鈴は、冬馬様の姿に一瞬ぎょっとして、それから、私の袖にすがりついた。
「タキさんが、奥様にお話があるって。葡萄酒のことで」
コメント
1件
うわあああああ第44話読み終わったよ!!😭💦💦 雨の中、重箱抱えて迎えに来る侯爵様…焦げた卵焼きのエピソードがあのときの朝食に重なるのエモすぎる~~!そっか、最初から千鶴さんの手がかりで栞さんを探してたんだね…「卑怯なやり方だ」って言いながらも守ろうとしてたの、切ないよ… 最後「帰ってきてくれ」からの「冬馬様」の呼び名変わる瞬間、めっちゃグッときた😭✨ お鈴が乱入してきたけど、続き気になりすぎる~~!!