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珈琲の芳しい香りが台所に漂った。2人掛けのダイニングテーブルには新聞紙と目玉焼き、箸が二膳揃えられていた。
「直也なおやおはよう!朝ご飯食べて!」
「ふあーーい」
ボサボサな髪を掻きながらパジャマ姿の夫が椅子に腰掛けトーストが焼き上がるのを待つ。
「莉子、今度は何処でお祝いする?」
「うーーーん、フレンチも良いけれどイタリア料理でがっつりも捨て難い」
「よく食うからな」
「直也がご馳走してくれるなんて1年に1回だけだからね!」
6月19日は私と直也の結婚記念日だ。
「そうだ、調べたんだけどさ」
「うんうん」
直也は目玉焼きは半熟が好き。
「結婚9年目は陶器婚って言うんだって」
「へえ」
チーズトーストは蕩ける直前が好き。
「でもね、一例では鉛なまり婚だって、嫌じゃない?鉛だよ、鉛筆だよ」
「それは嫌だね」
猫舌なのでコーヒーは温め。
「10年目は錫すず婚、アルミ婚だって笑うよね!」
「そうかぁ、俺たちも来年はアルミか」
朝のひとときを語り合った直也は「今日も遅刻だ!」と慌ててネクタイを締め玄関を飛び出した。
(来るぞ、来るぞ)
そして蜻蛉返とんぼかえりで戻って来る。
「んーーーー!」
私たちは毎朝抱きしめ合いキスをした。
「今日も営業頑張るぞ!」
「いってらっしゃい、気を付けてね!」
「分かった!」
そう言って振り返り散歩中のダックスフントに吠えられ飛び上がっている。
(おっちょこちょいなんだから)
その滑稽な後ろ姿を笑って見送り朝食の片付けを始める。2個のコーヒーカップ、2枚の皿、二膳の箸をキッチンのシンクに沈めた。
(良い天気、洗濯物も良く乾きそうね)
まずは洗濯機のスイッチを押して下着やタオルを次々に放り込む。
(ーーーふう)
月曜日、燃えるごみをごみ収集所に持っていくと近所のご婦人たちが「あの家のご主人は浮気をしている」だの「あそこの奥さんには彼氏が居るみたいよ」などと週刊誌並みの情報収集能力を遺憾無く発揮しゴシップトークを交えている。
(直也にそんな気配はない)
やれやれと洗濯機から立ち上がって腰を伸ばすと鈍い痛みが走った。
(ぎっくり腰になるかと思った)
最近身体の節々に衰えを感じ、口元にはほうれい線、目尻には笑いシワがうっすらと浮かび上がる。日を追うごとに変化する肉体。
(でも)
鏡の前で眉間に手を当て指を恐る恐る前髪を上げて見た。
(ーーーでもこれだけは変わらない)
私の額と心には大きな傷痕が残っている。
萩原 莉子はぎわらりこ35歳 専業主婦 結婚9年目
旧姓、市原。
市原 莉子
6月15日 土曜日
私は来週水曜日に迎える結婚9年目の記念品として陶器のティーカップを買い求める事にした。然し乍ら通信販売では愛想もなく近所の雑貨屋は可愛らしいデザインの物が大半で気に入った品が見つからなかった。
「あっ、面白そう!」
直也が読んでいる新聞紙を取り上げた私は小さな広告に釘付けになった。アンティークマーケット、骨董市場と銘打ったフリーマーケット。普段ならば気にも留めない広告だが陶器婚の記念品探しに躍起になっていた私は俄然興味が湧いた。
「直也、土曜日ここに行って来る!」
「骨董市、怪しげなところじゃないの?」
「今時そんなの流行らないって、フェスタよ祭りよ!」
久しぶりの外出、私はお気に入りのリネンのワンピースを着てベージュの日傘を持った。細かいピンタックと大人可愛いフリルが施された肩掛けショルダーバッグ、直也は可愛いと褒めながら携帯電話で写真を撮ってくれた。
「行って来るね」
「俺も行かなくて良いのか」
「素敵なティーカップを見つけて来るから」
「気を付けて」
「うん」
私は素っ気なく出掛けた振りをして蜻蛉返りで玄関の扉を開けた。案の定、寂しそうにしている直也の姿がありその背中に飛びついてキスをした。
「行ってきます」
「ゆっくりしておいで」
「夕ご飯はレンジで温めてね」
「分かったよ」
おひとり様を体験してみたいと言ったら「イタリアンでもなんでも食べておいで」とお小遣いまで持たせてくれた。ちょっとした日帰り旅行、私の心は弾んだ。
プシュー
バスに揺られて15分で大きな椎木しいのきが2本並んだしいのき迎賓館に到着した。裏手には金沢城を臨む広々とした芝生広場、そこには色彩豊かなフラッグが風にはためき幾つものテントが並んでいた。
(へぇーー、アンティークのドールも扱っているんだ)
その値札を見て仰天した私は両手でそっと元の場所に戻した。子どもたちがシャボン玉を吹きながら走り回り、子犬を連れた老夫婦がオルゴールの箱を品定めしていた。
(あ、これ)
それは高等学校の合唱コンクールの課題曲だった。
(懐かしいなぁ)
ふと見遣ると如何にもアンティークと表現すべきティーカップやティーポットを並べている出店があった。やや色褪せた陶磁器に鈍い金の縁取り、渋さを感じさせる茶系の薔薇が私の手を引き寄せた。
(ーーー高いんだろうなぁ)
財布の中身と相談しながら思い切って声を掛けた。
「これ下さい」
「3,500円になります」
「そんなに安くて良いんですか」
「もう店じまいですから」
長い髪を後ろで縛った青年は2客のティーカップを英字新聞紙で包み始めた。指先が覚束おぼつかなく落としてしまうのではないかと内心ハラハラした。
「ビニール袋か紙袋、要りますか」
「あ、じゃあ紙袋で」
「はい、3.500円、500円のお釣りですね」
私を見上げ500円硬貨を手渡そうとした男性は初恋の人、雨月 蔵之介うげつくらのすけだった。
獅子座の流星群を見る事が叶わなかったあの深い夜、私と蔵之介はそれぞれの救急車に運び込まれ別々の病院に搬送された。
蔵之介は3ヶ月後に退院したが私たちは会う事を禁じられた。右半身が覚束無い蔵之介は高等学校を休学し、私は東京の大学に合格した。
2度と会う事はないとそう思っていた。
「はい、500円のお釣りです」
無愛想な青年は私に銀色の硬貨を握らせると広げていた店を片付け始めた。動作はぎこちなく右脚を引き摺っていた。その姿を見た私は喉の奥が熱くなり胸が締め付けられた。
あの夜、蔵之介に会いに行かなければ
あの夜、星を見に行かなければ
この17年間後悔しない日はなかった。けれど蔵之介は私を覚えていなかった。私は一瞬で蔵之介だと気付いたが彼はそんな素振りすら見せなかった。
(そんなに私、変わってしまったのかな)
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
私の心はあの自転車のホイールの様に押し潰されて歪いびつになった。青い芝生を踏む音、チクチクと痛む感触、レンガ畳みの現実に足を踏み入れた瞬間、ベージュのスニーカーの横に何かが落ちた。
紙飛行機
振り返ると半袖にジーンズ姿の青年は深々とお辞儀をした。涙が溢れた。丁度停留所にバスが到着した。私は紙飛行機を摘むと踵を返してバスに飛び乗った。
会ってはいけない
本能がそう言って私をあの場所から引き剥がした。車窓に遠ざかる色彩豊かなフラッグが滲んで見えた。手にした紙飛行機はティーカップを包んだ英字新聞と同じだった。慌ててちぎったのだろう折り目は不揃いだった。
(ーーーなんだろう)
赤い筋が見えた。紙飛行機を破らない様にそっと開くと赤い油性マジックで携帯電話番号が書かれていた。
私の足取りは重く玄関の扉を開けた。
「あれ、早かったね」
「1人で出掛けてもやっぱり面白くないから帰って来ちゃった」
「おひとり様計画は失敗だね」
「だねーーー」
「骨董市はどうだった?」
「やだなぁフェスタよ、お祭り!色んなお店が並んでいて賑やかだったよ」
「へぇ、今度俺も行ってみたいな」
どきっとした。
「うん、今度一緒に行こう」
「それでどんなティーカップを買ったの?」
「そうだ、見てみてすごくシックで素敵なの!」
クラフト紙の袋から英字新聞に包まれたアンティークローズのティーカップを取り出して直也に見せた。
(蔵之介が包んでくれた)
そう思うといつもより丁寧にセロハンテープを剥がした。
(指先が震えていたのも事故の後遺症だったのかな)
そう思うと胸が痛んだ。
「良いね、これ」
直也の声で我に帰った。確かにティーカップやソーサーに欠けやひび割れも無く状態は良かった。LEDライトの下で見直すと花弁一枚、葉脈の一本まで繊細に描かれた茶褐色の薔薇の花。
「良いね」
デザインも繊細な造りだった。
「これは良いね、莉子は見る目がある!」
直也はソーサーを裏返して目を凝らした。
「コ、ウルドン」
「コウルドンね、調べてみる」
コウルドンと検索してみたところイギリスから北アメリカに輸出されたアンティーク品で現在値段が高騰しているメーカー製品だという事が分かった。
「にっ、20,000円!」
「これ、幾らだったの!そんなに奮発しちゃったの!」
「ううん、3,500円」
「じゃあこれはレプリカかな」
「そうなのかな」
私が落胆していると「これも記念の品だよ」と私の肩を引き寄せた。
「そうだね」
「そうだよ、記念のティーカップだよ」
(記念品)
直也に肩を抱かれた私の瞼の裏にはジーンズにTシャツ姿で深々とお辞儀をした青年の姿が焼き付き、身体中から切なさが留めようもなく溢れていた。
(蔵之介)
私は嬉しそうな直也の横顔を凝視した。
(直也は私の夫、私は結婚している、もうあの時の私じゃない)
けれど蔵之介は私にとって特別な存在だった。手を繋いで歩いた図書館へと続く小径、蝉時雨、打ち上げ花火の河川敷で交わした初めてのキス、午前0時の紙飛行機、深夜に部屋を抜け出した背徳感と胸のときめき、坂の上から見下ろした黒い街、金石街道で数えた電信柱。
(もう2度と会えないと思っていた)
「なに、どうかした?」
「ううんなんでもない」
私は17年前に引き戻されてしまった。
「お風呂入るね」
「疲れただろうゆっくり入りな」
「うん」
「ビール先に飲んでるから」
私はお気に入りのショルダーバッグをソファに置いたまま風呂場へと向かった。
「シワになるぞ、莉子は本当に」
直也はショルダーバッグを壁に掛けようと持ち上げた。その時サイドポケットに英字新聞で折られた紙飛行機を見つけた。
(これは)
直也は英字新聞の紙飛行機をショルダーバッグに戻しおもむろに立ち上がると2階の寝室へと向かった。薄暗闇の中、クローゼットの前に椅子を置き背を伸ばして冬物のカットソーが入ったカゴを手で避けた。その奥にはなんの変哲もないクッキー缶が置いてあった。静かに蓋を開けると中には幾つもの古びた紙飛行機が入っていた。
(新しい紙飛行機)
直也は蓋を閉めるとクッキー缶をそっと元の場所に戻した。直也は私の17年前の思い出の在処ありかを知っていた。
6月19日 結婚記念日
結婚記念日は金沢駅真向かいのホテル日航金沢ラ・プラージュのアニバーサリーペアディナーで祝うことになった。日航ホテル30階、地上130mの眺望は金沢市から日本海、医王山いおうぜんを一望する事が出来た。
「緊張するね」
「そうだね」
「お値段、高かったんじゃないの?」
「そんな事は気にしないで堪能してください」
「はぁい」
日本海の海の幸を中心に牛ヒレ肉とフォアグラのロッシーニ、加賀野菜、季節に合わせた柑橘系の果物をふんだんに使った皿が次々と並んだ。
「おめでとうございます」
ソムリエから深紅の薔薇の花束が手渡され、ハートのケーキがテーブルに置かれた。
「こんな贅沢しちゃって良いのかな」
「来年は無いかもしれないからね」
「ーーーーえ、なによく聞こえなかった」
英字新聞の紙飛行機を手にした直也はこれからの事を感じ取っていたのかもしれない。私はカトラリーの音に紛れて消えたその呟きを聞き取る事が出来なかった。それどころか私は何処までも広がる夜景をあの夜に見たホタルイカになぞらえて感傷に浸っていた。
出勤する直也の唇に「いってらっしゃい」のキスをすればその温もりの向こう側に蔵之介を感じた。「おかえりさない」と雨の匂いがする直也を抱きしめればあの夜自転車のキャリアに跨またがって蔵之介の背中にしがみついた夏の湿り気を思い出した。
「どうしたの、ぼんやりして」
ガスレンジの上で鍋蓋が音を立て、周囲に吹きこぼれていた。
「あ、ごめん寝不足かな」
「昨夜もうなされていたよ」
「えっ、ごめん煩かった!?」
「それは良いんだけれど、莉子、悩み事でもあるのか?」
心臓が掴まれた。何気なく普段通りに振る舞っていたつもりだった。
「ないよ、あるわけ無いじゃない」
「そうだよな、莉子は1日中家の中だもんな」
「酷っ!」
「嘘ウソ、買い物くらいは行くよな」
「それ褒め言葉じゃないよ!」
「ごめんごめん」
私は英字新聞の紙飛行機を手にしたあの土曜日から直也の笑顔を真正面から見られなくなっていた。
(なにもしていないのに)
2階のクローゼットのクッキー缶に仕舞われた蔵之介からの恋文と恋情、そして携帯電話番号。
(なにをする訳でもないのに)
私は携帯電話の電話帳に蔵之介の電話番号をKという名前で登録した。