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6月29日 土曜日
薄曇りの土曜日、午後の降水確率は20%と微妙だった。
「こんな日に行くの?」
「仕事だし仕方ないよ」
「大変だぁ」
「大変なんですよ」
直也はリビングのソファに腰掛けると会社の接待でカントリークラブに行くのだと渋々準備を始めた。私は山間やまあいのゴルフコースは冷えるだろうとナイロンジャケットを畳んで鞄に詰めた。
「ありがとう」
「御所町ごしょまちは寒いからね」
「さすが莉子、優しいなぁ」
「優しいでしょ」
玄関先で送り出すキス、私を抱きしめた腕の力がいつもより強かった。手を振る日常にひらりと飛んだ紙飛行機、微妙な心の騒めきを攪拌かくはんする様に私は洗濯機を回した。
(掃除機は月曜日にしようかな)
確かに直也が心配する通り蔵之介の姿を見てから眠りが浅い。夢の断片で18歳の自分が笑い、怒り、悲しみそして絶望していた。
(なにを考えているのよ)
ピーピーピー
洗濯機が仕事を終えたと私に告げたが重い腰はソファに沈み込み立ち上がる事が出来なかった。
10年前
「初めまして萩原 直也です」
「市原 莉子です」
10年前、私と直也は共通の友人の紹介で知り合いすぐに交際が始まった。穏やかで誠実な人柄に私は心を許しやがて身体を委ねた。その時初めて直也は私の額に深く刻まれた傷に気付いたがそれについて尋ねて来る事は無かった。
「結婚しよう」
「こんな私で良いの?」
その年の7月30日、私は25歳の誕生日にプロポーズされた。
「私で良いの?」
「莉子だから良いんだ」
「この傷よ!」
手で前髪を上げ語気を荒げて涙を流した。
「莉子の歴史みたいな物だよ」
「こんなに大きな傷なのよ」
「前髪で隠せば大丈夫だよ」
嘘を吐いた。
「こんなに大きな傷なのよ」
私はこの額の傷を高等学校の通学時に自転車で転んで負傷したのだと嘘に嘘を重ねて雨月蔵之介の存在を隠した。
翌年6月19日に私は直也と永遠の愛を誓った。
気付くとリビングテーブルに読み掛けの新聞紙が広げられていた。
「もう、ちゃんと畳んでっーーーて」
私の目はイベント告知ページに目が釘付けになった。それは先日の骨董市とは違ったが <しいのき迎賓館あおぞらマーケット> と銘打ったフリーマーケットの紹介だった。
(フリーマーケット)
開催時間は10:00から16:30、壁掛け時計は9:00を過ぎたところだった。私は弾かれる様にソファから立ち上がり洗濯機の蓋を開けた。曇り空で降水確率は20%、もしかしたら帰りが遅くなるかもしれないと考えた私は洗濯物を室内に干して除湿機のタイマーを8時間に設定した。
ヤラ。
(なぜ、なぜこんなに)
胸が逸った。着替える時間も惜しく私は白いシャツにジーンズ、トートバッグを肩に掛け、鏡を見て身なりを整えた。玄関先に座りベージュのスニーカーに足を入れふと思い付く。
<出掛けます、遅くなるかもしれません>
メモ帳に自分の足跡を残して玄関の扉を閉めた。
右左右とアスファルトの小道を蹴る足に胸の鼓動が早くなった。バスの停留所に向かいコンクリートのブロック塀を曲がろうとした瞬間、飛び出した自転車と行き交った。自転車はバランスを崩し危うく倒れそうだったがなんとか持ち堪えた。
「うわっ!」
「ご、ごめんなさい!」
高等学校の男子生徒と思しき相手から睨み付けられた。
「ごめんなさい」
「チッ」
「ごめんなさい」
自転車はあの事故から一度も乗っていない。直也に「買い物に便利だよ」と購入を薦められたが「運動が苦手なの」とやんわり断った。気を取り直し早足で向かうとコンビニエンスストアに隣接する停留所にバスが到着したところだった。
(ま、間に合った)
プシューーーー
先頭から数えて5人目でバスのタラップを上り乗車券を手に取った。首筋を伝い落ちる汗に空調の冷気が心地良かったが頬は相変わらず赤らんでいた。身体中の血管が脈打つ、この動悸は何処から来るものなのだろう。自宅から全速力で走ったからなのかそれともーーー。
(もしかしたら蔵之介が居るかもしれない)
車窓に並ぶ竹林を越え寺院が並ぶ寺町てらまちの停留所を通り過ぎた。湾曲したカーブで吊り革に掴まっていた莉子は左に引かれつんのめった。
(ーーーあ)
緩い坂道、黒瓦の向こうに犀川さいがわが流れ束の間の青空が広がった。金沢城址公園から見下ろす21世紀美術館の白い屋根。
(居るかもしれない)
バスは犀川大橋を渡り金沢市随一の繁華街を通り抜けた。あの交差点を右に曲がればしいのき迎賓館の建物が見えて来る。
(居て欲しい)
等間隔に並ぶポプラ並木の隙間から赤や白、青の色鮮やかなテントが垣間見えて来た。吊り革を握る手のひらに汗が滲んだ。
(ひとめでも見たい)
寺町から15分の距離、 <しいのき迎賓館前、しいのき迎賓館前、お降りのお客様はブザーボタンでお知らせ下さい> 機械的な女性のアナウンスが停留所の名称を読み上げた。
(声が聞きたい)
あの衝撃的な再会を繰り返し思い描いた。それから2週間、携帯電話の電話帳を開き何度Kの文字を眺めただろう。然し乍らそれをタップする勇気が持てなかった。
チャリンチャリン
運賃210円に望みを掛けた。
(会いたい)
芝生を踏む青い感触。空を見上げれば色鮮やかなフラッグが縦横無尽に張り巡らされ風にはためいていた。黄色いキッチンカーから甘いクレープの匂いが漂って来る。ギンガムチェックのテーブルクロスにはハンドメイドの雑貨やアクセサリーが並んでいた。
(顔が見たい)
莉子はフリーマーケットの会場で行き交う人の波に押されながら店先に座り込む人々に蔵之介の面立ちを探した。
カチャン
莉子はトートバッグを椅子に掛けるとテーブルに置いた走り書きのメモを手にしてソファに崩れ落ちた。座面に身体が沈むように心も落ちてゆく。青い芝生に蔵之介の面立ちを見つけ出す事は出来なかった。
(やっぱり無理よね)
莉子は偶然を装い蔵之介にもう一度会いたかった。物陰からでも良いからその横顔を見たかった。笑顔はあの頃のまま変わらないのだろうか、同じ口癖で話すのだろうかと運賃210円に賭けたがそれは叶わず小雨の中を帰宅した。壁掛け時計の針は18:00を指していた。
(もうすぐ帰って来るかな)
直也が接待ゴルフから帰って来る。莉子は洗面所で顔を洗いタオルで水滴を拭き取った。額の傷、麻痺した右脚、過去を引き摺る2人が今更会ってどうなるのだろう。
(あの事故から17年、もうすぐ20年)
莉子は冷蔵庫の野菜室からキャベツと玉ねぎを取り出し包丁を入れた。
(野菜スープ、ポトフにしよう)
ざく切りにしたキャベツを鍋に入れ、玉ねぎの皮を剥く。思い出を一枚、一枚剥はいでくし切りにすると涙がまな板へと落ちた。
ピンポーーン
「あ、はーーい!」
優しい夫が笑顔で帰宅した。手にカントリークラブ近くにある有名パティスリーの白い箱をぶら下げて微笑んでいた。雨の匂いがする。
「りんごのコンポート、好きだったよね。プリンもあるよ」
「ありがとう!デザートに食べようね」
「汚れたからシャワーを浴びてくるよ」
「今夜はポトフだよ」
「寒かったんだ、さすが莉子!」
ふとそこで直也の手が止まった。
「莉子、目が赤いよ泣いてたの?」
「玉ねぎが目に染みちゃって」
「ーーーそう」
幸せな結婚生活、穏やかな日々、なんの不満も無い。