ホワイトボードで馨の予定を見て、ハッとした。
放っておきましょう、なんて白々しいこと言いやがって——!
五分おきに三回、電話を鳴らしたけれど、出るはずもなく。
とにかく悶々と仕事を片付けた。定時で帰れるように。
一人で帰社した平内を捕まえて馨のことを聞いたら、案の定、玲と話があるからと残ったという。平内も心配していた。
写真のことも知っていた。
「馨は部長に写真を見せたくないようでした」
コーヒーを冷ましながら、平内が言った。
「私は見せて話し合うように言ったんですけど」
俺が出張先で玲に会ったことを話さなければ、馨は写真のことを言わなかったのではないか。
そう思うと、恐ろしくなった。
俺の知らないところで、俺に関することで、俺に関わる女が火花を散らす。
男冥利に尽きると笑えるほど、俺は青くない。
「写真は見たけど、馨は放っておこうと言ったんだ」
「部長も馨も人が良すぎです。あんな女のことなんて無視して、さっさと結婚しちゃえばいいのに」と、平内がズバリ言った。
「まさか、別れた女に情が残ってるわけじゃないですよね」
上目づかいで、ジロリと睨まれる。
平内でさえそう思うんだから、馨が思わないわけがない。
「正直、信じたくなかったな」
「これだから男は……」と言って、呆れ顔でため息をつく。
「スマートな恋愛をしてきたつもりなんでしょうけど、そんなもんはないんですよ。男と女に円満な別れなんてあるはずないじゃないですか!」
返す言葉もない。
「いい男ぶっても結局こうしてこじらせてるんですから、半端な優しさは捨てて、とっととあの女を黙らせてくださいよ」
「……はい」
「とにかく——」
トントンとドアがノックされた。
「はい」
「那須川です」
思わず、平内と顔を見合わせる。
沖に、馨が戻ったら俺の部屋に来いと伝えるように言ってあった。
「入れ」
「失礼します」
入って来た馨の表情に、ぞっとした。恐らく、平内も。
無表情。いや、無感情。
とにかく氷のような凍てつく瞳に、ピクリとも動かない頬。
玲と何かあったことは、聞かずとも明らかだった。
「馨、あの女と何があったの?」
一瞬、聞くのを躊躇っている間に、平内が聞いた。
「話をしただけ」
だけ……って顔かよ——。
「それが用件なら、帰ってからでもいいですか」
「……ああ」
「失礼します」
パタン、とドアが閉まり、今度は平内が俺を睨みつけた。馨とは違う、感情むき出しで。
「どうして行かせちゃうんですか!」
「いや、あんな状態で聞き出せるかよ。そもそも職場でするような話でもないし——」
平内がバンッと両手でテーブルを叩き、身を乗り出して俺に詰め寄る。
「——とか言って! ビビっただけでしょう!?」
「普通にビビるだろう!? 馨のあんな顔、初めて見たぞ」
本音だった。
他の女ならともかく、馨にあんな冷たい目で見られて、全身鳥肌が立ちそうだった。
平内は深いため息をつき、座り直す。
「私は二度目です」
「は?」
「馨のあの表情を見たの、二度目です」
「前はいつ?」
「お義父さんが亡くなってから高津さんと別れるまで」
またっ——元彼かよ————!
今度は俺がため息をつく。
「……どうして」
「知りません。心配になって高津さんに会いに言ったけど、教えてもらえませんでしたし。その時のことは、前に話した通りです」
「『秘密を共有することが救いになるとは限らない』だっけ?」
「はい。とにかく、帰ったらちゃんと話し合ってください! 前の時は、私にも相談なく婚約解消したんですから!」
婚約解消——。
その言葉が全身に圧し掛かり、心拍数が上がる。
「脅すなよ」
「脅しじゃないですよ。二の舞にならないように、って忠告です」
午後は全く仕事に身が入らなかった。
*****
恐る恐る玄関のドアを開けると、いい匂いが漂ってきた。少しスパイシーな香り。
「お帰りなさい」
そう言って玄関に顔を覗かせた馨は、いつもと変わらなかった。
ホッとした。
「ただいま。いい匂いだな」
「ペペロンチーノ、好き?」
「ああ」
「お昼に食べ損ねちゃって」
「なんで?」
そう聞いた瞬間、ヤバイと思った。馨の表情がまた凍る。
「春日野さんと話しながら食べる気分じゃなくて」
「そう……か」
食い損ねた昼飯分を取り戻すべく、馨は俺に負けない量を食った。
食事中はとても玲の話をする雰囲気ではなく、だからと言って食事が終わったから話せるかと言うと、そうでもなかった。
こんなに馨の顔色を窺って、ビビるのは初めてだった。
風呂を済ませて寝室に行くと、馨が俺のスマホを握りしめて俯いていた。
「馨?」
顔を上げた馨はまた無表情で、さすがにもう見逃せなかった。
馨の足元に膝をつき、手からスマホを取る。
「どうした?」
「メッセ、あの女から」
玲からだった。
『会いたい』
俺は無視して、スマホをサイドテーブルの上に置いた。
馨が玲のことを『あの女』と呼ぶのを、初めて聞いた。姉さんや平内は嫌悪感を隠さずに言っていたが、馨は何を言われても『春日野さん』と呼んでいた。
「馨、れ——春日野と何があった?」
「無理に……呼び方変えなくてもいいよ」
「いや、こういうのも悪かったんだよな。ちゃんと線引きできてなかった」
そうだ。
口には出さなくても、俺だって馨が元彼を名前で呼ぶのは嫌だ。馨だって嫌なはずだ。嫌でなきゃ、困る。
俺は馨の膝の上で、彼女の手を握った。
「馨。今日、春日野と何を話した?」
馨がギュッと俺の手を握り返す。
「妊娠……したんだって……」
「妊娠?」
小さく、けれどはっきりと頷く。
「雄大さんの子供……だって」
「……は——っ?」
何を言ってる……?
俺の子供……?