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夫婦として長年連れ添うと、お互いが居るのは当たり前のように感じる。
その当たり前の日常は、相手を思いやる気持ちを積み重ねて出来ている。
思いやる気持ちは、押し付けるものではなく、自然にあるもの。
自然にあるがゆえに、当たり前の日常が特別なものと思わずに、それを享受して慣れてゆく。
慣れは油断に繋がり、油断は隙に。
僅かに出来た隙に付け込まれ、当たり前の日常を手放す事になる。
自宅に戻った政志は、リビングのソファーに深く腰掛け、背もたれに身を預けた。天井を仰ぎ、瞼を閉じる。
離れていた僅かの間に、見違える程綺麗になった沙羅。その沙羅の白い首筋に残る赤い所有痕に、ジリジリと焼かれるような思いだ。
金沢で何があったのか。誰と会っていたのか。
自らの不倫で離婚してしまった今、それを聞く事さえ出来ない。
浮ついた気持ちの代償は、どんなに後悔してもしきれない程、あまりにも大きなものだった。
政志は「はぁー」と大きなため息をつく。
思考をかき消すように、サイドボードの上にある固定電話がうるさく鳴り出した。
のっそりと起き上がり、イライラしながら受話器を取る。
「はい、佐藤です」
少しの沈黙の後、聞き覚えのある声が聞こえて来る。
「……政志さん?」
「片桐……」
「ヤダ、いつもみたいに綾香って呼んで。あっ、もしかして、奥様がそばに居るの?」
先日、別れ話しをしたのに片桐はそれをつっぱね、悪びれる様子も無く以前のように甘ったれた声で話し掛けてくる。
「家に電話をかけてくるな。それに先日話した通り、お前とは終わりにする」
「あら、そんな簡単に終われると思っているの? わたしのお腹には、政志さんの赤ちゃんがいるのよ」
グッと言葉に詰まる。けれど、片桐との問題を片付けないと沙羅との再構築も望めない。
「その件は、弁護士を入れて話し合おう」
「そうね。先日奥様にお会いした時に離婚を考えているって言ってたもの。離婚が成立すれば、心置きなく政志さんと結婚できるもんね」
別れ話を切り出してしている相手と、どうして結婚が出来ると思えるのか。片桐の自分勝手な思考に政志は辟易する。
「ねえ、子供って可愛いわよね。政志さんは娘さんの事はやっぱり可愛いって思う?」
ねっとりと脅しとも受け取れる言葉を吐いた後、片桐はフフフッと笑う。
ゾクリと背筋に冷たい汗が流れ、政志は受話器を強く握りしめた。
「お前……」
「娘に何かするなら、ゆるさないからな!」
思わず声を荒げる政志の怒号も意に介さず、片桐はクスクス笑い甘えた声でしゃべりだす。
「やだこわーい。そうよね、子供はやっぱり可愛いわよね。わたしのお腹の子供もきっと可愛いわよ。だから、おろせだなんて言わないで、結婚してふたりで育てましょうね」
「……遊びでいいと、迷惑はかけないと言っていたじゃないか」
言ったところでしょうがないと思いつつ、言葉が口をつく。
最初に片桐に言われた「遊びでいいの……好きなんです。迷惑をかけないからお願い」という誘いにまんまと乗った自分を恨めしく思う。
「あら、女心と秋の空ってことわざもあるじゃない」
話しが堂々巡りで埒が明かない。
政志は、ため息交じりに片桐へ告げる。
「じゃあ、お腹の子供が俺の子だと言い張るならDNA鑑定を受けてもらう」
「なに⁉ 政志さんったら、わたしの事を疑っているの?」
「この先の一生を左右する事に慎重になるのは当然だ」
「……また、連絡するわ」
返事を待たずに、通話が途切れた。
「おいっ!」と言っても、受話器からはツーツーツーと無機質な電子音が聞こえるだけだ。
「弁護士を頼むしかないか……」
男女の別れ話で弁護士を入れるのは、大げさと思い二の足を踏んでいたが、弁護士に頼むのもいいのかもしれない。
なにより、美幸の安全を考えたなら早めに動くしかないだろう。
政志は、焦る気持ちを押さえつつ、スマホに入っている名刺アプリを立ち上げ、スクロールしていく。
弁護士の知り合いなんて、仕事関係でしか心当たりがない。
今回のような男女の痴情のもつれを仕事関係の弁護士に話すのは、ためらわれる。
しかし、強迫とも取れるあやしい言動をする片桐を相手に、自分のプライドや出世欲などはかなぐり捨て、家族の安全を最優先に考えないと太刀打ち出来ないはずだ。
自分にとって沙羅と美幸は、かけがえのない家族だ。
失ってから気づいても遅いのかも知れない。でも、せめて自分の過ちのせいで家族が傷付くような事だけは、何としても避けたい。
政志は、祈るような気持ちでスマホに呼び出した電話番号をタップした。
プルルプルルと呼び出し音が聞こえて、留守番電話に切り替わる。
苦々しい気持ちで壁にあるカレンダーを見れば、お盆休み中だったのを思い出した。
「お世話になっております。HANA HOMEの佐藤と申します。私事でありますが、先生にご相談したい事がございまして、お忙しいとは思いますがお時間をいただけますでしょうか。連絡先は090xxxxxxです。宜しくお願い致します」
要件を伝え終えるとドッと力が抜け、ソファーに身を預けた。
「身から出た錆か……」
買い物を終えた沙羅と美幸は自宅の最寄り駅に帰り着く。
お迎えに来た政志の運転する車に乗り込んだ美幸は上機嫌だ。
「お迎えありがとう。お父さん、めっちゃ可愛い服を買ったんだ。家に帰ったら見せてあげるね」
「それは、楽しみだな」
「でしょう! 白いリュックも大人っぽくてステキなの。もらったおこづかいで買っちゃった」
「おいおい、そんなに買ったら、おこづかい無くなったんじゃないのか?」
「大丈夫だよ。洋服はお母さんがお金出してくれたもん」
美幸の明るさに心が和む。
政志は何としても、この笑顔を守りたいと思った。
「後ね、パフェも美味しかったし、お母さんのモンブランも美味しかった」
美幸は、運転席の背もたれに手を掛けて、政志へ一生懸命に話し掛けてくる。その横から沙羅の声も聞こえてきた。
「そうよねー、美味しかったでしょう。美幸に半分も食べられちゃったもの」
「美味しかったでーす。ごちそうさまでしたー」
「ホント、美幸はちゃっかりしているんだから」
あはは、と車内が笑い声に包まれる。
「美幸、お父さんが早く帰って来れる日は、塾に迎えに行くようにするから」
「えっ⁉ 迎えに来てくれるの?」
「仕事で帰りが遅い時は行けないけど、なるべく迎えに行けるように頑張るよ」
「そうかー。まあ、いいけど……。でも、なんで急にそんなことするの?」
美幸は小首をかしげ怪訝な顔をする。
「ほら、夏だし、最近何かと物騒な話しを聞くから気になって」
つい、政志は言い訳を口にする。
自分の思い過ごしと信じたいが、片桐が何か仕掛けて来るような気がして、不安感に苛まれる。
夕食を終えて、沙羅はキッチンで洗い物を始めた。
家族で過ごす夜に政志は落ち着かない様子で、冷蔵庫を開けながら話し掛ける。
「手伝おうか?」
「下洗いをして、食洗器に入れるだけだから、大丈夫」
「……そうか」
政志に何か言いたげな視線を送られるが、それを煩わしく思う沙羅は、わざと気づかない振りをして、カチャカチャとお皿を洗い続けた。
あきらめたように、政志は細く息を吐き出しながら冷蔵庫の中身をのぞく。所在なさげにミネラルウォーターを取り出して、アイドルが出ているバラエティー番組を見ている美幸に声を掛ける。
「美幸、何か飲むか?」
「今、いらない」
アイドルに夢中の美幸はテレビから視線を離さずに素っ気なく答える。ますます、居心地が悪くなった政志はミネラルウォーターを冷蔵庫に戻した。
「俺、風呂洗ってくるよ」
「ありがとう」
沙羅に声を掛けられ、政志はやっと自分の居場所を見つけたような気持ちで、ホッと胸をなでおろす。
キッチンからダイニングに入ると、テーブルの隅に置かれた沙羅のスマホがメールの着信を告げた。画面がぱあっと明るくなり、メッセージの通知が表示される。
政志の視線は自然とスマホの画面にひきつけられた。
『明日のお昼空いてる?』
パタパタとキッチンから出て来た沙羅は、スマホを手にしてメッセージを確認した。そして、嬉しそうに微笑み、直ぐにポチポチと返事を打ち込み始めた。
「私、明日の昼間出かけるわね」
政志は沙羅が明日会う相手が誰なのか、訊ねたくなってしまう。
昼間だから、ママ友や友人なのだろうが、もしかしたら、沙羅に所有痕を付けた男と会うのかもしれない。そう思うだけで胸が苦しくなる。
ただ、訊ねる資格を失ってしまった政志は、作り笑顔で送り出す事しかできなかった。
「ああ、行っておいで」