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メールをもらった次の日、沙羅はデパート裏手にある居酒屋「峡」の暖簾をくぐる。
つい先日、来たばかりなのに、いろいろな事があったせいか、随分日にちが経ったように感じられた。
木目調の店内は落ち着いた雰囲気で、居心地が良い。
温かいおしぼりを受け取ると沙羅はランチセットのブリ大根定食を注文した。
「お待たせ、呼び出しちゃってごめんね」
販売員の制服を着た日下部真理が、向かいの席に腰を下ろす。
「ねえ、なに頼んだ?」
相変わらずの真理の様子に、沙羅はクスクス笑いながら「Cセットだよ」と答えると、真里は期待を裏切らずBセットのとんかつ定食を注文した。
「真理から話しってなに?」
「あっ、そうね。ほら、仕事探そうかなって言っていたでしょう。すごい好条件の仕事があるからどうかと思ってね」
「どんな仕事なの?」
沙羅は思わず前のめりになって聞いてしまう。
「ハウスクリーニングの会社で、最初はパートから、いずれは正社員登用もありって話よ。それも、高級マンションを専門に扱っている会社だから、時給もかなり高いの」
「そんなに好条件のお仕事を紹介してもらっていいの?」
「ハウスクリーニングとはいえ、きちんとした人じゃないと困るとかで、沙羅なら大丈夫だと思って紹介するんだけど、面接もあるから100%採用の保証が出来なくてごめんね。でも、条件が良いから、受ける価値があると思うんだ」
真理はテーブルの上に一枚の名刺を差し出す。
その名刺には「(株)limpieza de la casa 社長 田辺 俊司」と書かれていた。
◇ ◇
テーブルの上にはランチセットが並んだ。
真理は、とんかつとブリのシェアにこぎつけ、ご機嫌で食事を始める。
「ハウスクリーニングなら、長年専業主婦だった私でもどうにか出来ると思う。いい仕事を紹介してくれて、ありがとう。自立していくためには、働かないといけないし頑張るわ」
沙羅はバッグの口を開け、名刺を仕舞う。
「うん、頑張ってね。それよりさ、久しぶりに金沢に帰ったんでしょ。どうだった」
真里から好奇心いっぱいの瞳を向けられた沙羅は、困ったように微笑みながら視線を逸らした。
「美味しい物をいっぱい食べて、楽しかった」
「ふうん、同級生の誰かに会ったりした?」
真理の言葉にドキンと鼓動が跳ねる。けれど、慶太と過ごした日々は大切な思い出として胸の奥に仕舞って置くつもりだ。
「誰にも会わなかった……美術館に行ったり、近江町市場に行ったりして、ひとりで楽しんでいたの」
うつむき加減に語る沙羅は、女の艶を放ち酷く色っぽい。
その姿を見て真理には、沙羅が金沢で誰とどんな風に過ごしていたのか、察しがついた。
「楽しく過ごせたようで良かった。金沢に帰りたくなったんじゃない?」
「うん、やっぱり故郷はいいよね。出来ることなら向こうで暮らしたいと思った」
「あら、離婚したんだから、これを機に向こうで暮らしてもいいんじゃない?」
離婚をきっかけに、東京で暮らし始めた真理は事もなげに言う。
けれど、沙羅には簡単にはいかない事情がある。
「でも、私には娘がいるから……。母親として娘の幸せを一番に考えていきたいの」
真理は、納得がいかないとでも言うように、口をへの字にして目を細めた。
「母親か……。娘を思う母親の気持ちについては、わたしは想像する事しかできないなぁ。でも、母子家庭で育ったわたしが娘の立場で言えることは、母親が自分のために無理をして、幸せでいる事をあきらめたなら、それは、自分が足枷になっているようで悲しいと思う」
「真理……」
「母親が娘の幸せを願うように、娘だって母親に幸せで居てもらいたいと思っているはず。だから、ひとりでなんでも決めないで、娘さんとも話し合うべきよ」
沙羅は、真理の言葉にハッとなった。
娘の気持ちを考えているつもりでいて、その実は問題をひた隠し、表面を取り繕う事ばかりをしていたのでは無いだろうか。
「耳が痛いわね。でも、ありがとう。少しずつ娘の様子を見ながら話してみる」
「うん、下手に隠し事されると娘さんも不安になると思うよ。相談相手になってもらうぐらいの気持ちで話しをしてあげて」
「そうね。子供って、親の事をよく見ているものね。何も言わないのも不安にさせているのよね」
沙羅は、自分に言い聞かせるように言う。
その様子に真理は、同意とばかりにコクリとうなずく。
そして、何かを思いだしたような顔をして、声をひそめた。
「……ねえ、踏み込んだ事を聞いて悪いんだけど、この前の離婚届って、役所に出したのよね」
真理からの意外な問い掛けに、沙羅は目を丸くしながら答える。
「うん、その日のうちに出してから、新幹線に飛び乗って金沢に行ったの」
「それで、別れた夫と半年間は一緒に暮すんでしょう?」
「そうなんだけどね。別れた夫と同じ空間に居るのが思ったよりキツくて、ちょっと後悔してる。少し前までは一生を共にしようと思っていたのに、不倫を知ったとたん、こんなにも気持ちが離れるのかって、自分でもびっくりしてるの」
「だよねー。わたしも夫の不倫を知ってからは一刻も早く別れる事しか考えられなかったもの。それにしても、よく半年我慢する気になったよね」
「娘の受験のために頑張るつもりで決めたんだけど……娘のためって言いながら、問題から逃げていただけなのかもって、さっき真理に言われて思い直しているところ」
「まあ、当面、不倫夫はATMだと割り切って付き合って行けばいいんじゃない。沙羅が動くのは、仕事を始めて生活の基盤を固めてからでも遅くはないはずよ」
◇ ◇ ◇
「はぁー。緊張する」
新宿にあるオフィスビルのエントランスに入ると、沙羅は大きく深呼吸をした。
2日前、真里からもらった名刺に書かれていた電話番号に、さっそく連絡を入れて、今日は面接に来たのだ。
大学卒業後、直ぐに結婚。
13年もぬくぬくと専業主婦をしていた沙羅は、履歴書を書いたのも大学時代が最後という事態に気づき愕然とした。
なにせ職歴が無い、学歴を記入したが履歴書が埋まっていかない。新卒の学生ならまだしも、35歳にもなってこれは痛すぎる。
条件の良い仕事で、こちらが働きたいと熱望しても、社会経験の乏しい主婦を雇いたい会社などあるはずも無い。なぜなら、自分が経営者なら絶対に雇わないだろう。
面接だけでもしてくれる事を有難く思い、エレベーターに乗り込んだ。
チンッと音がしてエレベーターを降りる。
エレベーターホールの先は長い廊下が続き、ひとつ、ふたつとドアの前を通り過ぎた。そして「(株)limpieza de la casa」 書かれたスモークガラスのドアを恐るおそる開けた。
「こんにちは、失礼します」
とは言ったものの、ライトオレンジの明るい室内の正面に電話機が一台置かれているだけだった。
肩透かしを食らった気持ちで、電話の受話器を持ち上げスイッチを押すと、コール音が聞こえて来る。
「はい、株式会社limpieza de la casa受付です」と声が聞こえて背筋が伸びる。
「本日、14時から面接の約束を致しました。佐藤沙羅と申します」
「佐藤様ですね。お待ちしておりました。お入りください」と、電話台横にあるスモークガラスが自動で開く。
何かをするたびに次の部屋に進めるなんて、まるでRPGゲームのようだと、沙羅は次のフロアに足を踏み出した。
観葉植物が置かれた廊下の右手側はオフィスには、パステルグリーンの机が並び、ライトクリームの椅子が可愛らしくマッチして、全体的に明るい雰囲気にまとまっている。
イマドキのオフィスって、こんなに可愛い作りなのか、と沙羅は感心しきりだ。
フロアに入って直ぐにカウンターがあり、すぐそばのデスクに居た、白のカットソーに紺のエプロン姿の女性が立ち上がった。
年齢は沙羅の少し上ぐらいのアラフォー世代で、首から下げた社員証には「青木早苗」と書かれている。
青木は、朗らかな笑顔で迎えてくれた。
「こんにちは、佐藤沙羅さんですね。3番のお部屋で田辺がお話伺わせていただきます」
「はい、佐藤沙羅です。今日はよろしくお願いいたします」
オフィススペースの向かい側に面談ブースが並んでいる。
指定された3番の個室に入ると、ひとりきりになり、所在なさげに椅子に腰を下ろす。履歴書をバッグから取り出して机の上に置き、内容に自信のない沙羅は、そわそわと落ち着かない。
ふと、案内をしてくれた青木さんの言葉を思い出した。
「あれ? 田辺さんって、名刺に書かれていた名前だったはず、ってことは社長さん自らが面接してくれるの?」
そう考えると、なんだか余計に緊張してしまう。
不意にコンコンとノック音が聞こえ、「はいっ」と返事をしながら沙羅は慌てて立ち上がる。
ドアが開き入って来たのは、沙羅が想像していたよりずっと若い30代前半ぐらいの男性だった。
長いまつ毛に縁どられた瞳が柔らかな微笑みを浮かべ、優しそうな雰囲気だ。上品な光沢のある細身のスーツが、背の高さを引き立て似合っている。
「こんにちは、お待たせしました。田辺です」
「はじめまして、佐藤沙羅と申します。今日はよろしくお願いいたします」
沙羅は緊張した面持ちで、お手本通りに45度のおじぎをする。
そんな沙羅を見て、田辺は満足気にうなずいた。
「今日は、お話をするだけなので、楽にして頂いて大丈夫です。どうぞ、お掛けください」
履歴書を広げる田辺を前に沙羅は小さく肩をすくめた。
「大学を卒業されてから、今まで何をされてましたか?」
その質問はされると覚悟していた。
子育てや家事に追われ、真面目に専業主婦をしていても、職歴として履歴書に記入出来ないなのは、切なく感じる。
「大学卒業後、直ぐに結婚をしまして専業主婦をしていました。お恥ずかしい話ですが、この度、離婚を致しまして仕事を探しています」
なりふりなど構っていられない。
沙羅は、自分の経歴を考えたなら採用は難しい事は自覚している。でも、この先、これ程の条件の仕事に巡り合えるとも思えない。是が非でも、採用してもらいたい。
沙羅の必死さが伝わったのか、田辺はウンウンとうなずく。
「当社の仕事の内容は、お部屋の清掃がメインなので主婦の方は大歓迎です。それに、《《紹介してくださった方》》からも佐藤さんのお人柄はお墨付きを得ていますので、是非、一緒に働いてもらいたいと考えています」
「ありがとうごさいます」
「そういえば、佐藤さんは石川県出身ってお聞きしたのですが」
「はい。つい先日も久しぶりに里帰りをして来たばかりです」
そう返事をしてみたものの、何の話しかな?と沙羅は首を傾げる。
田辺は微笑みながら、少し照れたように首の後ろに手を当てた。
「実は私的なお話ですが、石川県出身の人と何かと縁がありまして、佐藤さんにも親しみを感じます」
田辺から与えられた遠まわしのヒントに沙羅は気づかずに、 紹介してくれた真理も同郷だと、納得したようにうなずくだけだった。