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…油の跳ねる音が聞こえる。朝だ。天井に浮かぶ数字は7,1,5。投影型目覚まし同型曰く、7時15分なのだろう。首を傾ける必要なく現在時刻を察知できる。なるほど、これは確かに便利である。 圭の家は3LDKと広々で、昨晩は兄が一人立ちした後に、物置として放置されていた部屋を借りた。
重たい瞼を擦って手動の扉を開けると、そこにはエプロン着姿の圭がいた。その光景は、モロ人妻である。背丈は低いが、姿勢は育ちの良さを思わせる。足音の鳴る方向に、圭は顔を振り向かせる。
「おはようございます、今日はいい朝ですよ」
「おはようござ…おはよう」
「グッジョブです」
8月16日は、雲1つ無い快晴。そういや昨日ずぶ濡れだった僕は、本当に雨に濡らされたのか。調べものをしたい所だが、生憎術を知らない。知らないなら聞けばいい。
「圭、もしこの後時間に余裕があったら、一瞬スマホを貸してくれないか」
「スマ、ホ…、叶さんは一体、いつの時代の話をしているんですか」
圭は笑った。姿勢は曲がり、腹部を押さえる。この笑顔を見る限りは、120年前に僕が通った、高校の女子高生と大差ない。素直に愛くるしい。母性があるのなら、父性というのもあるのだろう。一回り違う彼女に抱く感情は、それが主たるものであった。一旦惚れたは惚れたが、決して恋路に舵を切るものでは無い。
そして100年後の日本では、スマホは既に過去の遺物とでも化していたようだ。では今の時代は……。疑問が頭を過ることなく、圭は話を続ける。
「トッチなら貸しますよ。あれ、もしかして、使い方、忘れちゃいましたか?」
そう言われると朝食準備の手を止めて、圭は彼女の指から抜いた指輪を、僕の指にはめる。昨日の壁に画像を投影した機器だ。これがトッチらしい。幸い手の小さな僕に、指輪はフィットした。圭が指輪の横の突起を押すと、指輪から光が飛び出す。そして指輪を回すと、検索の2文字が見えた。圭は
「何を検索したいですか?」
というので、昨日の東京の天気予報と告げると
「昨日の東京なら一日中晴れでしたが…」
調べを進めると、全国的に晴れ又は曇りで、にわか雨すらなかった。
…妙だ。僕は確かに濡れていた、らしい。あれ、そういや目覚めたときに、着衣は濡れていなかった、よな。同性ならば、普通は脱がして着替えさせる。もしやあの時の男は、民衆党の党員だったのか。いやきっと僕を高貴な人間と見間違い、無闇矢鱈に触れなかっただろう。
結論が出ることは無いが、僕と党との関係性は無に等しい、そんな線が浮上した。今更感は半端ないが、ようやっとこう思慮できるだけの余裕はできのだ。
朝食は一人にしては、量を多く作っていた。よって半分は僕の分になるようだ。居候、劣悪な言い方をすればヒモの僕に、圭は礼儀を見せる。これも僕の顔が偶々……、いやそれは止そう。
普通に美味しい。そしてかなり可愛い。
味は100年経ってもまんま日本食である。日本人の一汁一菜のポリシーが、そう簡単に駆逐されるワケがない。そして机上で対面するや否や、礼儀作法と黒髪ロングの一つ結びが目に焼き付く。この一家は紙一重の差で、中間層に食い込んでしまったのだろう。
…何だかんだで同居生活、いや、実態は殆ど同棲生活、が幕を開けたわけだが、課題は焼却処分を依頼したい程度には山積みだ。
圭はどうやら学校には通っていないらしい。そこで食後は、僕の今後について話し合ってくれた。テーマは昨晩頭を駆け巡らせた衣食住、戸籍、仕事など多岐に渡ったが、圭がそれを懇切丁寧に答える。
「当分海外出張で母も帰宅しませんから、物を壊さない程度に、好きに物をいじくって生活して頂いて構いません。あ、私の部屋は勝手に進入禁止です。あと私はよく本部を訪れることがありますが、基本的にはこの家に居ります。
そして戸籍は私にお任せください。野党第一党副党首の娘を、舐めないで下さいね。
お仕事は……、それより学校に通われては如何でしょう。」
「戸籍は頼んだ。でも学校は莫大な学費を要するだろ。タダで食っちゃ寝しようなんて気はないよ。」
「そのお言葉は、叶さんの誠実さを表しているようで何よりですが、叶さんの顔面偏差値なら、学費の掛からない、日本国直轄の高校に転入できる可能性があります。」
「顔面偏差値…?」
「そうです、顔面偏差値です。基本的に日本人はこの偏差値で格付けが成されています。具体的な基準は公表されていませんが、私は強く薦めます。」
「今から学校に通うメリットは果たしてあるのか…?」
「この学校を卒業する際に在校生徒は、三大難関国家資格が授与され、国政選挙では供託金全額負担、都道府県庁の最高ポスト就任の約束など、様々な待遇を享受できます。」
チート技である。日本の顔面至上主義は、ここまで成熟してしまっていた。そして進学に関して、数日間考える暇をもらった。
そして圭はふと思い出したかのように、こう告げる。
「私は恋というものに一切の興味がありません。ですから貴方に恋することもありませんので、安心して色恋に励んで下さい。」
女子は何時の時代もシビアである。バッター森叶はピッチャー菊名圭に、変化球なしのストレートで即刻三振を奪われた。
数々の甚だしい勘違いに、僕は羞恥心を隠さずにはいられなかった。これは僕への配慮かもしれない、などという糞ったれた観念も、即座に雲散霧消した。
そういや高校時代も、個人的な秘密を打ち明けた女友達に、理由を訪ねて、色恋的に僕に興味が無いから、|赤裸々《せきらら》に語れる捌け口である、とボロクソに吐露されたことがある。転生しても未だトラウマ級の一言だ。だから以降僕は恋愛は避け、勉強と仕事に熱中した。下手な期待は損失であると知った。それが功を奏したのは言うまでもないが。
……36のおっさんが18の娘に、何淡い期待してんだ。その時点で字面が終わっていた。別に恋の一つもしていなかった。しかし何か男としての尊厳を喪った気がした。ピンからキリまで阿保な僕は、自責の念に駆られるのであった。
では昨日のあの動揺は何故だったのか。思わず質問してしまった。すると
「それは……、同年代の男の子と話した試しが無かったもので、ちょっと、思うところは、なんというか、その、あれ、えっと……」
そこは恋心とは別枠なのか。単に僕を異性を異性と認識はするが、本当に色恋に感心がないのだろう。家庭環境的が影響しているのか。少なくとも僕は、ある程度の信頼はされているようであるが。
この回答に僕は、若干の安心感と侘しさを想った。でも彼女の内情を知れたようで、それは程よく嬉しかった。