バスを降りた堀口ミノルは、その足でビスタへと向かった。
正式な解雇通知を受けたわけではない。
一部の望みをかけて、事務所に行くつもりだった。
「吾妻常務……」
堀口は勇信の名をつぶやき、田舎道を歩いていく。
あの方ならきっと、私の意図をわかってくれるはず……。
常務。
私はただ故郷を豊かにしたかっただけです。
神に誓って、不正など行っておりません。
常務、どうかお願いします。
企画書に込めた純粋な情熱にお気づきください。
企画書さえ読んでいただければ、私がどのような気持ちで仕事に取り組んできたかわかっていただけるはずです。
あの日、私と常務は秘密基地ビスタにいました。
私はあの日から何も変わっていません。
ただ純粋な心で自分が見つけたものをあなたにお見せしただけなのです。
どうか、お気づきてください。
どうか……。
吾妻建設、ビスタプロジェクト建設事務所。
「お待ちください」
堀口が入り口に現れると、すぐさま警備員が遮った。
いつも元気のよい挨拶で社員を迎える警備員だったが、まるで別人のように冷ややかな表情を浮かべていた。
――この犯罪者め。
言葉が雑音のように耳に届いた。
音は警備員が放ったものではなかったが、堀口の耳には明確な言語として鳴り響いた。
「同行します」と警備員が言った。
エントランスを抜けて、2階のオフィスへとあがっていく。
近くを通り過ぎる社員たちが、好奇の目で堀口に視線をやっている。
一夜にして彼らは変わっていた。
軽蔑と嫌悪感を含んだ、または敵意に満ちた目が、針のように堀口の体を刺した。
「谷川署長はいらっしゃいますか」
階段を半分ほどあがったところで警備員に尋ねた。
「いらっしゃいません。いても会えません」
どうして?
そう聞こうとしたが、それ以上会話を続けられる雰囲気ではなかった。
階段をのぼり、デスクのあるオフィスへと歩いていく。
中に入った瞬間、すべての音が消えた。
オフィスの全員が堀口を見ていた。
長く一緒に働いてきた同僚たちが、遠くからただ黙って堀口を見ている。
何度か一緒に飲んだ同僚に目をやった。
彼は堀口の視線を避けて、デスクの書類をめくった。
「堀口さん。こちらです」
一度も言葉を交わしたことのない女性社員がやってきて、一枚のビニール袋を手渡した。
「これは」
「私物をこの中に入れてください。パソコンには触れないでください」
私情などまるでない、極めて事務的な口調だった。
ただ上司の命令に従って、マニュアル通りに動いているだけだ。
堀口は彼女の立場を理解した。
「つらいお仕事をさせてしまいすいません」
堀口は自分が発したセリフに、あ然となった。
どうしてこんなことを言わなければならない……。
「……」
女性社員は一切の反応をみせなかった。
――この犯罪者め。
風が耳の中を吹き抜けた。
風から逃れるようにデスクへと行き、引き出しを開け、私物をビニール袋に入れていく。
カレンダー、ノート、ペン、ビタミンサプリメント、胃腸薬、頭痛薬、コーヒー、緑茶、懐中電灯、ビスタのロゴステッカー、妻と娘の写真……。
警備員と女性社員が番犬となって、デスクのそばに張りついている。
パソコンに触れられないように。
これ以上の不正を起こさないように。
監視の目と、軽蔑の目と、怒りの目。
あらゆる種類の目が、堀口に注がれている。
「……終わりました」
多くの目を避け、沈黙が続くオフィスを出ようとした。
そのときふと、妻と娘の笑顔が脳裏に浮かんだ。
……ああ、あやうく催眠術にかけられたまま去るところだった。
東京からしそね町へと向かう途中で、堀口は催眠術にかかっていたことに気づかされた。
ただ静かに会社を去れという催眠術。
権力に抵抗したところで誰も助けてはくれないという催眠術。
私は何もしていない!
催眠術から目を覚ますと、堀口は体を反転させた。
すべての目はまだ堀口に注がれていた。
「皆さん、少しだけ私の話を聞いてください。私は何もしていません。今日の件はすべて――」
うぐっ!
話し終えるより前に強い力がのしかかり、堀口は転倒した。
ビニール袋に入った私物が、床に散らばった。
警備員がうしろから堀口を掴んで引き倒したのだ。
馬乗りになった警備員が堀口を睨んでいる。
「黙れ、この犯罪者め」
犯罪者……。
何度も耳元を通りすぎた幻聴が、実際の音となって届いた。
女性社員が散らばった堀口の私物を拾っている。
まるでゴミでも拾うように。
「うぐぐ……」
馬乗りになった警備員の重みで呼吸ができなかった。
堀口が苦しむ姿にも、警備員はどこうとはしなかった。
まるで彼が抱える個人的な鬱憤までもが、加えられているようだった。
解雇されて終わりではなかった。
現実はそれ以上に厳しい。
ようやく警備員が立ちあがり、堀口は気道を確保した。
ゼェゼェゼェ……。
荒い呼吸を繰り返しながら立ちあがると、大勢の社員たちが近くに集まっていた。
近所のボヤを眺める野次馬と同じ視線だった。
「これ」
女性社員がビニール袋を手渡さず、床に置いた。
堀口は袋を拾った。
しかし袋をひろう姿が、頭を下げて謝罪をしているようで、腹のあたりが熱くなった。
「おまえのせいでこのオフィスが閉鎖されることになったんだ。この犯罪者め」
社員の誰かがついに声をあげた。
するとシャンパンの蓋が開いたように、多くの社員たちが一斉に堀口を罵った。
「俺たちがどんな思いでビスタ作ってたか、わかってんのか!」
「おまえのせいで俺たちまで犯罪者扱いされてるんだ! 責任を取れ、このクソヤロウ」
「しそね町の人たちに謝罪しろ!」
かつての同僚たちは、一夜にして敵となった。
一度点火した火は、一向に消える気配がない。
絶叫に近い罵詈雑言。
誰も堀口の弁明など聞く気はない。
彼らはただ、堀口を焼き尽くすための熱の塊にすぎなかった。
言葉ではどうにもならない。
どう抵抗したところで、最後に待つものは集団的な暴力であると悟った。
「さっさと出て行け」
警備員が堀口を部屋から引きずり出した。
クソヤロウ!
正義を自称する集団の叫びが、堀口の鼓膜にこびりついた。