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「……あっ、このマンションです」
大した会話もしないままあっという間に到着したマンションを、稲垣さんが物珍しげに見上げる。
「へぇ~ここかぁ。何階?」
「? 3階です」
「足、痛いでしょ。ドアの前まで送ろうか」
「い、いえいえ! さすがにそこまでしていただくわけには! エレベーターもありますし、全然大丈夫です!」
「そ? 残念。せっかく綾乃ちゃんのプライベートなとこに触れられるかもって思ったのに」
「プ、プラッ!? ……触れっ!?!?」
「うん、インテリアの趣味とか? そういうのって意外と性格出るでしょ」
「あー……趣味……」
「ん? 他に何かある?」
思わせぶりに微笑まれ、かあっと頬が熱くなる。
ひとつひとつの軽い言葉のチョイスの仕方が、恋愛どころか二次元の男の人に免疫のない私をドギマギさせるのだ。
「な、なな、何もありません!」
動揺を悟られたくなくて、強い口調で言葉を返す。
そして勢いよくクルリと稲垣さんから背を向け、車を降りた。
「ありがとうございました! 明日はよろしくお願いします!」
「ふふっ、うん、よろしく♪……ああ、そうだ。これだけは言っておくね」
「? はい」
「……もう、君、踏み込んじゃったからね」
「えっ……それってどういう……」
「名前も聞いたし、連絡先も交換したよね。それに住んでるところもわかった。つまり君はもう、そう簡単には逃げられないってこと」
「あ、あの……?」
「それじゃ、明日ね。おやすみ♪」
稲垣さんは一方的に話を終わらせるとパワーウィンドを閉め、颯爽と走り去っていった。
「…………逃げられないって……どういうこと?」
ひとり残された私は、呆然と立ち竦む。
「えっ、ちょっと待って。最近テレビで目にする危険なバイト、的な……?いや、まさか、でも……」
(私、もしかしてとんでもなく安易にとんでもないこと引き受けちゃった……!?)
*****
「…………ただいま……」
足を引き摺りながら家に戻った私は、そのままベッドに直行した。
(つ、疲れた……)
ドサリと座り、大きくため息をつく。
そして足元に手に持っていたエコバッグを置いた。
「……」
今日はなんて目まぐるしい一日だったのだろう。
遠回しとはいえ、クビへのカウントダウンを告げられ、気分転換も兼ねて行ったコンビニの帰りに自転車に轢かれそうになり、避けたはいいけど高級車を傷つけて……。
「えっと、それから……えっと……」
自分の身に何が起きたかわかっているはずなのに、頭の中で時系列に整理できない。
「……ダメだ。完全に脳みそバグってる……」
こういう時は、誰かに聞いてもらったほうがいいかもしれない。
人に話せば案外いい感じに整理できたりすることもあるからだ。
「……樹杏に電話してみようかな」
そう思い、スマホを取り出す。
彼女と話している途中に自転車に轢かれかけたわけだし、私のことを知り尽くしている彼女なら、私のこんがらがった記憶をいい感じに並び直してくれるかもしれない。
「……いや待って。執筆に繋がるかもしれないんだし、瀬戸内さんの方がいいかも」
一瞬そう思ったものの、何も決まっていない状態で電話するのはあまりにも迷惑すぎるのではないだろうか。
しかも、今は完全に就業時間外なのだ。
「……危なっ。普通にハラスメントするところだったじゃん。……いったん落ち着け、私」
ふうっと深呼吸し、エコバッグから缶チューハイを取り出す。
炭酸が噴き出すかと警戒しながらプルトップを開けたけれど、シュワワ……とわずかに液体が飲み口から溢れ出ただけだった。
それで唇を軽く湿らせてから、コクリとひと口飲む。
「……ぬるっ」
爽快感とは無縁の甘さと、いつも以上に舌に痺れさすアルコールの存在感に顔をしかめる。
けれどそのおかげで、思い出しかけていた空腹がすっかり引っ込んでしまった。
「……明日朝早いし、晩ご飯はもういっか……お風呂はちょっと休憩したらシャワーだけ浴びよ」
私は生ぬるいチューハイを一気に胃袋に流し込み、ごろりとベッドに横になった。
「……朝7時半に着くには、と……」
忘れないうちに、スマホの目覚ましをセットする。
「……私がバイトする先ってどんな人なんだろう? っていうか……」
その時、ようやく私はバイト先の詳細どころか、それを紹介してくれる稲垣さんのことすら何も聞いていないことに気づいた。
「名刺も何ももらってないし……。って、えっ、普通にヤバくない? やっぱり闇……?」
何かわかるかもと、交換した連絡先のプロフ画面を開ける。
けれど『稲垣日向』という名前があるだけで、ステータスメッセージには何も書かれていないし、投稿も一切ない。
プロフ画像も、海外のどこかで撮られたのか、地平線に浮かぶ太陽の写真だ。
「……日向だけに太陽、ね……なるほど……じゃなくて!」
今さらながら、軽々しく引き受けたことを後悔する。
やっぱり断ろうかと思ったけれど、稲垣さんの『逃げられない』という言葉を思い出し、それはそれで危険かもしれないと思い直す。
(……とりあえず、明日指定されたマンションに行ってみよう。で、少しでも危険だと思ったら断って……。あっ、一応行く前に樹杏にだけメッセージを送っておこうかな。晩になっても私から連絡なかったら警察……は変に心配させちゃうか。とりあえず晩連絡することだけ伝えておいたらいいか。連絡なかったら、樹杏も何かあったかもって動いてくれるだろうし……)
危険かもしれないと思ってはいても、なぜだかわからないけれど、大丈夫だと思ってしまっている自分がいる。
(……稲垣さんのチャラさ満載の雰囲気の中に、誠実さもちゃんと感じられるからかもしれない)
その時、ふと夕方観たテレビのインタビューに出ていた男の人を思い出した。
(そういえば、あの人の目とちょっと似ていたかも)
おぼろげな記憶でその男の人の名前も覚えていない。
顔もぼんやりとしか思い出せないが、稲垣さんとは全然似ていなかったと思う。
それなのになぜかその男の人と稲垣さんが重なった。
「……なんでだろ? ……久しぶりに瀬戸内さん以外の二次元の男の人とがっつり喋ったから混乱してるのかな」
今日は本当にたくさんのことがありすぎた。
目を開けても閉じても、色々なことが頭をよぎっていく。
(……これ、朝まで眠れないやつ……)
……そう思っていたけれど。
よほど疲れていたのか、私はシャワーも浴びず、いつの間にかそのまま眠ってしまっていた。