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窓の外では、音もなく雪が降り積もっている。
北国の夜を支配する静寂は、この広大で冷え切った屋敷の空気とよく似ていた。
贅を尽くした調度品が並ぶこの寝室は、私にとっては豪華な監獄と同じ。
猫脚の椅子も、手織りのタペストリーも、そのすべてが「買われた私」の身分を強調しているようで、息苦しさに胸が詰まる。
私はドレッサーの鏡に映る、自分の顔を見つめた。
青白い肌に、生気のない瞳。
没落しかけた伯爵家を救うという大義名分の下、新興勢力の実業家──
「氷の狂犬」と恐れられるレオナルド・ヴァン・クロムウェル様に嫁いで、早いもので半年が経とうとしていた。
(……今日も、一度も目が合わなかった)
脳裏に、先ほど終えたばかりの夕食の光景が蘇る。
数十人は座れるであろう長いダイニングテーブルの両端に、離れて座る私たち。
聞こえるのは、高価なカトラリーが皿に当たる硬い音と、給仕がワインを注ぐ音だけ。
彼は一度も顔を上げず、ただ事務的に食事を口に運んでいた。
彼は、私の存在を疎ましく思っているのかもしれない。
きっと透明な置物くらいにしか思っていないのだ。
私という人間は、彼にとって「家を救うために金で解決した、付録のような存在」に過ぎないのだから。
「……これ以上、彼の人生を邪魔したくない」
ぽつりと、独り言がこぼれた。
彼のような有能な方が、望まぬ結婚に縛られ
家庭に安らぎも得られないまま人生を浪費するのは、あまりに忍びない。
彼と離縁しよう。
愛されることを諦め、ただ彼を解放してあげること。
これが、無力な私が彼にできる、最後で最大の献身だ。
──カツ、カツ、と規則正しい、硬い足音が廊下に響き渡る。
その音を聞いた瞬間、心臓が跳ね上がった。
彼が夕食後のルーティンとして、書斎へ向かう時間だ。
今を逃せば、また私は一晩中、後悔の檻に閉じ込められることになる。
私は意を決して、寝室の重厚なドアを開けた。
冷えた廊下の空気が肌を刺す。
数歩先を、銀色の髪を揺らして歩く彼の背中に、震える声を絞り出した。
「……レオナルド様」
彼はピタリと足を止め、振り返った。
仕立ての良い漆黒のジャケットに包まれた彼は、鋼のように硬く、寄せ付けない拒絶のオーラを放っている。
彫刻のように整いすぎているがゆえに、見る者に威圧感を与える顔。
私はその鋭い眼光を直視できず、視線を床に伏せながら、消え入るような声で本心を告げた。
「あの……突然すみません。その、お話があって」
「なんだ?」
「えっと……単刀直入に言うのですが…離縁、しませんか?」
廊下の空気が、一瞬で凍りついたような気がした。
雪の降る音さえ消え、世界から音が失われる。
目の前のレオナルド様の背中が、微かに、けれど確かに強張るのが分かった。
……やっぱり。
きっと、ようやく厄介払いが合法的かつ円満にできると、せいせいされているんだわ。
悲しいはずなのに、どこか諦めに似た安堵が胸をかすめる。
「理由は」
低く、温度を失った声。
感情の読めないその響きに、私は視界が涙で滲むのを必死に堪えた。
最後に醜く泣いて、彼の手を煩わせたくはなかった。
「レオナルド様に、嫌われている気がして……。まともにお話も、視線も、交わしていただけませんし……っ。私のような、家柄しか取り柄のない女が隣にいては、貴方様のご負担になるだけですから」
沈黙。
あまりの静けさに、自分の早鐘を打つ鼓動が耳元でうるさく響く。
彼はきっと、冷ややかに私の言葉を肯定するだろう。
「ようやく気づいたか」と、冷徹な判決を下すに違いない。
そう確信していたから───
「……嫌っている?」
聞こえてきたのは、地を這うような低い、けれどひどく困惑したような声だった。
ゆっくりと、彼がこちらに身体を向け、振り返る。
見上げたその瞳は、いつもの冷徹な「狂犬」のものではなかった。
それは、まるで大切な宝物を自分の手で壊してしまった子供のような深い絶望の色を帯びていた。
「……俺が、お前を嫌っているだと?」
「ひっ……」
予期せぬ熱量を孕んだ視線に、私は反射的に肩をすくめて後ずさってしまう。
喉の奥がヒュッとなる。
怒らせてしまったのだろうか。
それを見たレオナルド様は、まるで毒でも飲まされたかのように
苦いものを噛み潰したような顔をして、その場に立ち止まった。
伸ばしかけた手が、空中で力なく止まる。
「……すまない。怖がらせるつもりはなかった」
彼は顔を覆い、天を仰いだあと、真っ直ぐに私を見据える。
「……アネット、俺は。君が俺を見るたびに、怯えたように震えるから……。俺の視線が、声が、この忌々しい存在そのものが君を苦しめているのだと思っていた。だから、なるべく視界に入らないように、接触しないようにと、必死に……」
「え……?き、嫌われているわけでは…ないんですか?…私のこと」
私は呆然と立ち尽くした。
彼が私を避けていたのは、嫌悪ではなく、私への配慮だったというのか。
「……嫌いなわけがないだろう。……一目惚れだったんだ。あの日、君を公爵家の夜会で見かけた時から、俺は……」
レオナルド様は、先ほどまでの威厳はどこへやら、耳まで真っ赤にして視線を激しく泳がせている。
冷酷な実業家として恐れられる「氷の狂犬」の面影は微塵もない。
そこには、どうすれば好きな女性に想いを伝えられるのか分からず
ただ空回りし続けていた、不器用すぎる一人の男性が立っていた。
「とにかく頼む、やり直させて欲しい。俺の言葉が足りずに君を怖がらせてしまったなら申し訳ない……。だが、離縁は考え直してくれないか……?」
私を直視できずに、けれど必死に縋るようなその姿に、私の心に積もっていた氷が、音を立てて溶けていく。
「えっ、えっと……レオナルド様が、いいなら…それで」
「本当か……?ありがとう…」
彼は安堵のあまり、その場に膝をつきそうなほど肩の力を抜いた。
こうして、私の終わるはずだった結婚生活は
予想もしなかった甘く不器用な方向へと動き出したのだった。