テラーノベル
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あの日、廊下で交わした言葉は夢だったのではないか。
政略結婚という冷たい檻の中で、また彼と視線を合わせない一日が始まるのだと。
けれど、昼過ぎ──…
その予感は、扉を叩く規則正しい音と共に呆気なく崩れ去りました。
「アネット。入ってもいいか?」
聞き慣れた低い声。
けれど、そこには今まで一度も感じたことのない、微かな緊張が混じっていた。
慌てて寝台から起き上がり、「はい」と答えた瞬間、現れたのは──。
「レオナルド様…?なにか……?」
「昨日、お前に言わせてしまっただろう。『嫌われている気がする』と。……あれは、俺の人生で最大の不覚だった。二年間、お前を安心させるどころか、不安にさせていた自分を殴り殺したい気分だ」
物騒な言葉とは裏腹に、彼は一呼吸置いてから
「だから、昨日言った通り、夫婦をやり直させて欲しいんだ。今から…気分転換に出かけないか…?」
「……お出かけ、ですか?」
私の問いかけに、レオナルド様は少しだけ視線を逸らし、耳の付け根を赤く染めながら「ああ、嫌でなければだが」と付け加えた。
用意された馬車に揺られ、到着したのは王都で最も賑やかな中央通り。
「氷の狂犬」が街に現れたとあって、周囲の人々は一瞬ギョッとしたように道を空ける。
けれど、彼はそんな視線など一切気に留めず、私の隣を歩く速度をこれ以上ないほど落としてくれた。
「……アネット、まずはあそこに入ろう」
彼が指さしたのは、王都で一番人気の高級ブティック。
入店するなり、彼は店主を呼び寄せるのではなく、自ら棚を見て回り始めた。後に続くと、レオナルド様は一着のドレスを手に取る。
「この色、君の瞳によく似合うと思うんだが…どうだ?」
「すごく素敵な装飾のドレスですけど…私に、合うでしょうか…?」
「大丈夫だ、君を何を着ても似合う」
いつもの命令口調とは違う、少し甘さを含んだその言葉に、胸の奥が熱くなる。
「で、では……試着してみますね」
店員に案内されて試着室へ向かいながら、私は不思議な安堵を感じていた。
レオナルド様は本当に変わろうとしている。二年前とは明らかに違う。
そして──
「……やはり、似合っている。とても綺麗だ」
鏡越しに見る彼の顔は、本心からの言葉であることを証明していた。
「よし。全部買おう」
「え!?でもまだ他の物も見ていませんよ!?」
「いいんだ。ここにあるものは全て俺の領地から仕入れている。だから代金は後払いで構わない。それより──次はどこへ行きたい?」
「えっと…カフェに入りたいです。お腹がすいてしまって…」
「そうだな、昼飯がまだだった」
レオナルド様はそう言うと、私が持ったままの商品袋を取り上げ、自然に腕を差し出してきた。
「えっ、わ、悪いです!私の荷物ですし……!」
「いいんだ。代わりに手を貸してくれ」
そうして差し出された大きな片手に、緊張しながらも自分の手を乗せると──
「(握り返してくれた……)」
その力強さに、かつての「狂犬」の印象は、粉々に砕け散った。
そして訪れたカフェ。
落ち着いた雰囲気の中、私たちは向かい合い席に座った。
「アネット、何か飲むものを頼むといい。甘い菓子もあるぞ。好きなものを選んでくれ」
メニュー表を渡され、私が目移りしている間に、レオナルド様は「俺は紅茶だけでいい」と短く告げた。
「じゃあ、私は…この果物タルトと、ミルクティーを……」
「分かった。注文してくる」
レオナルド様は立ち上がり、カウンターへと向かった。
一人残されたテーブルで、ふと窓ガラス越しに映る自分の姿を見つめる。さっき着替えたばかりの新しいドレス。
(こんな風にお買い物したり、食事したり……)
本当なら、もっと早く実現していたかもしれない日常。
政略結婚という言葉に甘え、私たちが深く会話をして関わろうとしていなかったからだ。
でも、今こうして進んでいる未来は──とても、とても暖かくて。
「待たせたな」
戻ってきた彼の手には、湯気を立てるミルクティーと、宝石のような彩りの果物タルトがあった。
「ありがとうございます……わあ…おいしそうですね…っ」
思わず頬が緩む。
レオナルド様と一緒に手を合わせて、私は果物タルトを一口。
「ん…っ、おいしい……!」
「元気だな」
「!…す、すみません…っ、声、大きかったです、よね」
「いいや、そういう君を見たかったからな。よかった」
そんな言葉、ずるい。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように熱くなった。
レオナルド様の表情は、初めて出会った時の冷たい無機質さからは考えられないほど柔らかく──
私を幸せで包み込むようだった。
◆◇◆◇
カフェを出ると、街は夕刻の買い物客で溢れかえっていた。
人混みに酔いそうになったその時、向こうから走ってきた子供とぶつかりそうになり、私の足元が大きくよろめく。
「きゃ……っ!」
転ぶ、と思って目を閉じた瞬間。
強い力で腰を引き寄せられ、私は硬い胸の中に収まっていました。
「危ない……っ、怪我はないか、アネット」
耳元で響く、焦燥を含んだ低い声。
レオナルド様は、私を壊れ物のように抱きしめ、周囲を威嚇するかのような鋭い視線で私を守る壁になってくれた。
「……す、すみません!ぼーっとしていて」
「怪我がないならいい。もう転ばないようにな」
そう言って、彼は大きな、節くれ立った熱い手で、私の手をそっと包み込みました。
これまでは、彼が近づくだけで「何を言われるんだろう、何をされるんだろう」と身構えていたのに。
今の私には、彼の大きな手のひらが、この世で一番安全な場所に感じられた。
(この人は、私を傷つけない。……私を守ってくれるんだ)
指先に伝わる彼の微かな震えが、彼もまた緊張していることを教えてくれる。
強面の下に隠された、あまりにも不器用で真っ直ぐな献身。
少しずつ、けれど確実に、私の心の中で「氷の壁」が溶け始めていた。
その後、午後いっぱい、私たちは王都の様々な場所を巡った。
街角の絵画屋さん、書店、工芸品店……
どこへ行っても、彼は私を優先し
慎重に言葉を選び、そして、その度に私の手を引いて歩いてくれた。
(……この人は、本気なのかも……)
胸の中でそっと呟きながら、私は目の前の氷の狂犬が、ただ一人の私の旦那さまであることを改めて思い知らされる。
そして、この日を境にして──
私たち夫婦は、ゆっくりと、しかし確かに距離を縮めていくことになった。
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