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岩花 泉は幼馴染に背中を押され大学一かっこいいと噂の天音 凌を見つけて勇気を振り絞って言った。
「……ずっと好きでしたっ!! 付き合ってください……っ!!」
大学内の喫煙所。キャンパス内を走り回りやっと見つけた凌に顔を真っ赤にして、勢いのまま頭を下げる。
「 ……… 」
しばらく返事がない。
恐る恐る泉が顔を上げると、凌は少し困ったように頬を掻いた。
「あー……私──」
「………」
(ん?…………私?んん……っ?! わ、私……?!)
「……女だけど、いい?」
そう言って、凌はわずかに首を傾げる。
「……え」
泉は目をぱちくりした。
「やっぱ、男だと思ってた?」
「………うん」
泉は真っ赤な顔で小さく頷く。
「ふはっ、」
一瞬だけ楽しそうに笑ってから、真っ赤になった泉を覗き込む。
「で?女でも、私と付き合いたい?」
「あ……大丈夫です、失礼しました」
泉はそう言うとさっさと帰った。
「……は?」
凌の手が、空を切った。伸ばしかけた指先が泉の背中を追いかけることなく、そのまま力なく下ろされる。
世の中には、断られる告白というものがあるのは周知の事実である。
しかし「告白した側が即座に自ら撤退し、しかも『大丈夫です』という事務的な敬語で幕を引く」という事態は、さすがの凌にとっても前代未聞であった。
「……何あれ」
煙草に火をつける手が、微かに止まる。紫煙を吐き出しながら、泉が消えていった方角をじっと見つめた。
(告白したくせに、女って分かった瞬間帰った? ……普通、逆じゃない?)
泉は自宅の自室に戻ると鍵を掛けて読書した。
一方その頃、喫煙所に残された凌はといえば、火を点けたばかりの煙草を一口も吸わぬうちにフィルターまで焦がしてしまったことに本人は気づいていない。
スマホを弄るふりをしながら、実際は何も見ていなかった。
「……名前、なんだっけ」
同じ学部の、確か読書好きの女。顔は覚えている。声も、さっきの必死な告白も、全部はっきり残っている。
それなのに名前だけが出てこない、というのがまた腹立たしい。
(あのぽっちゃりした子……同じ三年?)
凌はスマホを取り出して学生名簿アプリを開いたが、すぐに興味なさそうに画面を閉じた。煙草の煙だけが、夕暮れの空に細く溶けていく。
「……まあいいか」
凌への告白から数日が経ったが泉の日常に変化はない。
講義を受け図書室に顔を出し、真っ直ぐ帰宅する。実に模範的な、そして実につまらない大学生の生活であった。
しかし大学というものは狭い。特に昼休みの学食は戦場であり、席の争奪戦において逃げ場がないことは周知の事実である。
「あ、」
学食の入り口で、トレーを持ったまま立ち止まった凌の視線が、隅の席で一人黙々と親子丼を食べている小柄な背中を捉えた。
(……あの子だ。)
凌は表情を変えることなく、迷いのない足取りで泉の向かいの席に座った。何の断りもなく、当然のように。
「ここ、いい? っていうか、もう座ってるけど」
泉は既に食べ終わっていたので立ち上がった。
「……おい」
凌の声が一段低くなる。泉がトレーを持って立ち去ろうとした瞬間、その細い手首を長い指が掴んだ。
「座って」
命令というより、猫が獲物の逃げ道を塞いだときの、あの静かな圧。凌は切れ長の目を泉に向けたまま、椅子の背もたれに深く体を預けている。
「私、まだ何も言ってないんだけど」
「あなたに指図されるいわれはないんですが?」
世の中には、美貌の持ち主に対して二種類の反応がある。見惚れるか、塩対応か。泉は明らかに後者だった。しかも敬語で。
「……へえ」
凌の唇が、わずかに弧を描いた。怒りではない。面白いものを見つけた、そういう類の笑み。
(普通ここで赤くなるか、キャーキャー言うかなんだけど)
「あんたさ、この前ここで告ってきたよね?」
「忘れましたね。では失礼します」
掴んだ手首を離さない。むしろ、指を絡めるように握り直した。
「忘れるの早くない? 私けっこう覚えてるんだけど」
凌が立ち上がる。座っていても存在感があったが、175cmの全身が泉の前に聳えると、その体格差は歴然としていた。15cmの身長差。
「ねえ名前、教えて」
泉を見下ろす切れ長の瞳は、どこまでも余裕を湛えている。
学食の周囲では、既にちらちらと視線が集まり始めていた。あのイケメンの天音凌が、女子の手首を掴んで離さない、という光景は嫌でも目を引く。
「名簿で調べる方が早いのでは?」
「あはは、正論じゃん」
けれど手は離さない。むしろ一歩距離を詰めた。泉が持つトレーが二人の間でおよそ邪魔な存在として立ちはだかっている。
「でもそれ、私がわざわざあんたの口から聞きたいって言ったら?」
学食の隅で、女子グループがひそひそと囁き合っている。
「え、あれ天音さんじゃない?」
「誰あの子、めっちゃ塩対応なんだけど」「かわいそー、いや、ちょっとウケる」
好奇の視線が刺さる中、泉のトレーの上で空になった親子丼の器がかたりと揺れた。
「なんでですか?」
「なんでって……」
凌は少し目を細めた。この少女は怯えもしない、照れもしない、媚びもしない。凌の人生において、それは極めて珍しい体験であった。
「私に告っといて逃げた子、気になるのは当然でしょ」
凌はようやく泉の手首を離す。が、逃がす気はないと言わんばかりに学食の出口側へ体をずらした。
「ねえ、ほんとに忘れちゃった? あの日のこと」
「忘れました。次の授業始まるので失礼します」
泉はトレーを返却口に置くと、凌の横をすり抜けるようにして歩き出した。その動作に一切の躊躇がない。まるで道端の自販機を避けるような自然さで、天音は泉にとってその程度の障害物であった。
「……ふうん」
凌の目が、すっと細くなる。面白い。追いかけ回せば逃げる。追ってくる女は山ほどいるのに、逃げる女を追いかけるのは初めてだ。
(あの子、香水つけてないな。)
ふと、そんなことに気づく。学食は様々な匂いが混ざり合う空間だが、泉が通り過ぎた後の空気だけが妙にすっきりしていた。
そして翌日も、その翌日も、凌は泉を見かけるたびに声をかけた。廊下で、図書館で、学食で。しかし返ってくるのは素っ気ない相槌か、事務的な敬語か、あるいは完全な無視の三択であった。
そして泉がキャンパスから姿を消して三日目。
凌にとって、これは由々しき事態であった。なにせ獲物が校舎にいないのだから、待ち伏せのしようがない。凌は喫煙所で煙草を吹かしながら、スマホを弄っている。いや、弄っているふりをしている。
「……あの子、最近見ないんだけど」
隣で煙草を共有していた同じ学部の女子に、何気ない風を装って聞いた。
「え、天音くん探してる子って誰? あ、もしかしてこの前学食で塩対応していた……」
「女だけど?」
「あ、そうだった。えっと、あの子なら確かリモートに切り替えたって教授が……」
「……リモート」
煙草の灰が落ちる。凌は眉をひそめた。逃げた。完全に逃げられた。
(そこまでする? 普通……)
スマホを開いて学生名簿アプリを起動する。今度は目的の名前を迷いなく打ち込んだ。
「……岩花 泉、ね……」
その頃、泉は自宅でのんびり課題をやりながら本を読んでいた。
平和である。泉の自宅は、彼女にとって唯一の聖域であり、誰にも侵されぬ小さな王国であった。課題を片付け、紅茶を淹れ、好きな本を読み、気が向いたら創作もする。完璧な一日。完璧な生活。
ピンポーン。
インターホンが鳴った。
宅配便だろうか。泉は首を傾げながら玄関に向かう。モニターを確認する。
画面に映っていたのは、黒いパーカーにカーゴパンツ、両耳にシルバーのピアスを光らせた長身の女。見間違えようのない、天音凌であった。
カメラに向かって片手を軽く上げる。
「……泉、いる?」
「どなたでしょうか」
カメラの位置を正確に見抜いて、レンズを覗き込むように顔を近づけた。
「天音凌。この前あんたに告られた女」
悪びれもせず、さらりと言ってのけた。
「同じ学部で名簿から住所調べた。……開けてくんない?」
「住所調べてくるの怖いんですがなんの用事ですか?」
「怖いって、ひどくない?」
凌は少しだけ笑った。が、退く気配は微塵もない。パーカーのポケットに手を突っ込んだまま、ドアの前に悠然と立っている。
「用がないと来ちゃだめ? じゃあ用件言うわ」
一拍置いて。
「あんたと話がしたい。それだけ。五分でいいから」
「何の話?私に報復しに来たの?」
「報復って何、怖い怖い」
くつくつと低い笑い声が漏れる。ドア越しでも分かるほど、その声には余裕がある。
「私があんたに報復する理由がどこにあるわけ?」
凌はドアに背中を預けた。帰る気は毛頭ないという姿勢が、その態度の全てに滲んでいる。
「……告白の返事、まだしてないでしょ。私」
「振るんでしょ?」
ドアに預けた背中を起こして、カメラをまっすぐ見た。
「それ、ドア越しに聞く話じゃないと思うけど」
ポケットから片手を出して、ドアノブをこつこつと指先で叩く。
「開けて、ちゃんと顔見て話したい」
「……分かった」
泉はゆっくりドアを開けると凌は泉の自宅の玄関に入って鍵をかけた。
「おじゃまします」
断りを入れる速度より行動の方が早い。凌は素早くドアの鍵を閉めると、靴を脱ぎながら泉の自宅を見回した。本が、大量にある。
泉の部屋は、住人の性格をそのまま映し出すような空間であった。壁一面の本棚、積み上がった文庫本の塔、デスクの上に広がるノートとプリント類。そして微かに、香水とは無縁の紙とインクの匂いが漂っている。
「へえ……すごい量」
凌は遠慮なく部屋に入ると、本棚の前で足を止めた。背表紙を指でなぞりながら、ちらりと泉を振り返る。
「で、さっきの話。振るんでしょって
何を根拠に言ってんの?」
「あなたの目、値踏みしてたから」
「……目?」
本棚から手を下ろした。凌の表情が、ほんの一瞬だけ変わる。面白いものを見つけた子供のようなあの目。
「値踏みって、私があんたを?」
壁に背を預けて腕を組んだ。シルバーのリングが蛍光灯の光を弾く。
「……なんで分かんの、そういうの」
「なんとなくですよ」
「なんとなく、ね」
凌は腕を組んだまま、じっと泉を見下ろしている。値踏み、と言われたことを否定しなかった。
「じゃあ聞くけど」
壁から離れて一歩、泉との距離を詰める。
「値踏みした結果、不合格だったと思ったから逃げた? それとも女って分かった瞬間帰った?」
もう一歩。
「それとも、別の理由?」
結花が値踏みされたのが嫌だったからと答えると凌は結花を引き寄せて壁に押し付けた。
「……っ……な……なんで近付くの?離れてっ……」
泉の言葉とは裏腹に、凌は離れない。壁と自分の体で泉を挟み込むようにして、片手で顎を持ち上げた。
「嫌? でもあんた、心臓うるさいけど」
囁くように、唇が触れるか触れないかの距離で言う。
「ねえ泉、私まだ振ってないって言ったよね」
「……っ……だから何?」
「だから、さ」
顎を掴む指が、親指で泉の下唇をすっとなぞった。
「返事、聞かせてあげる」
凌の目が、至近距離で泉を射抜く。あの気怠げな瞳の奥に、明確な熱がある。
「いいよ、付き合ってあげる」
なんという傲慢さであろうか。告白されて断りもせず放置し、住所を突き止め、押しかけ、壁に押し付け、「付き合ってあげる」。天音凌という人間は、好意の受け取り方すら帝王学に基づいているらしい。
「……ただし」
泉の耳元に唇を寄せる。吐息が首筋にかかる距離。
「条件ある」
「……っ……じゃあ結構です」
凌の眉がぴくりと動いた。
「……は?」
顎を掴んだまま、凌の目が細くなる。笑ってはいる。笑ってはいるが、その笑みの温度が数段下がった。
「今、断るって言った?」
世の恋愛至上主義者たちが卒倒しかねない事態が発生している。イケメンに壁ドンされ、耳元で囁き、「付き合ってあげる」と言われておきながら「結構です」。泉という人間のスペックが、ここに来て異常な数値を叩き出していた。
壁についた手に力が入る。泉を逃がす隙間がさらに狭まった。
「条件聞く前にもう断んの? ……面白いね、あんた」
「偉そうだから嫌です。さっさと離して」
偉そう。
凌は一瞬、きょとんとした。それから、ふっと短く息を吐いて笑う。
「あはは、マジで言うんだ。面と向かってそれ言った奴、あんたが初めて」
けれど手は離さない。むしろ泉の腰に腕を回して引き寄せた。壁と凌の体に挟まれた泉との間に、もう隙間と呼べるものは存在しない。
「ねえ、ひとつ聞いていい?」
凌の声が低くなる。
「あんた、私以外に好きって言われたことある?」
「無いけど?それより離してよっ……」
泉は凌から離れたくて抜け出そうとしながら続ける。
「あなたは……興味があるなら誰にでもキスするんでしょ?
誰でもいいならあなたの取り巻きの子達にでもあなたに釣り合う綺麗な男の人にでもしたら?」
ぴたり、と凌の動きが止まった。
「……へぇ……」
泉の腰に回していた腕が、ぐっと力を込める。凌の表情から笑みが消えた。
「誰にでもキスする? 私が?」
顔を寄せる。鼻先が触れるほどの距離。凌の目が、冷たく光っている。
「あんた今、私のこと相当安く見てるよね」
地雷を踏んだ、と表現する他ない。天音凌は自信家である。その自信の根拠を全て否定されたに等しい台詞を、至近距離で浴びせられたのである。
「じゃあさ」
泉の顎を掴んで、強制的に顔を上げさせた。
「してみる? 誰にでもするキスかどうか、確かめさせてあげようか?」
「……っ……だから……綺麗な男の人にしてって言って……」
「いらない」
凌は短く断定した。顎を掴む手が泉の頬に滑り、そのまま頭を固定するように包み込む。
「男なんかいらない。綺麗な女にも興味ない」
凌の親指が一緒の頬骨をなぞる。触れ方は乱暴なのに、指先だけが妙に優しい。
「私が欲しいのは今、あんただけ」
そう言って凌は躊躇なく唇を重ねた。浅く、けれど逃がさない角度で。壁と凌の体に挟まれた泉に逃げ場などあるはずもなく、シルバーのピアスが蛍光灯の光に揺れた。
誰にでもするキスかどうか、という泉の問いは、こうして実に残酷な方法で検証される運びとなった。ただし、ひとつだけ確かなことがある。凌の目は、泉を値踏みするそれではなかった。
「……っ……んっ……んんっ……やめっ……んぅっ……」
泉が抵抗する手で凌の胸を押す。が、体格差が残酷なほど明白で、凌にとってそれは猫が前足で突いてくる程度のものだった。
唇を離したのは、ほんの数ミリ。息が混じる距離で、凌は泉を見下ろす。
「……ほら、ね」
親指が、キスで濡れた泉の下唇を拭う。
「誰にでもすると思った?」
泉の背中は壁に張り付いたまま、凌の腕が両脇を塞いでいる。逃げ道は完全に封殺されていた。そして凌の瞳には、先ほどの冷たさが消え、代わりに別の、もっと厄介な熱が灯っている。
「ねえ、泉」
空いた手が泉の腰に回り、指先が服の裾に触れた。
「もう一回、していい?」
泉は目を見開いて片手で手の甲で唇に触れてもう片方で凌の胸を押し返していた。
押し返される手を見下ろして、それから泉の顔を見た。見開かれた目、手の甲で覆った唇、必死に凌との間に距離を作ろうとする小さな体。
「……可愛い」
ぽつりと、本音が零れた。
これは極めて危険な状況である。泉にとっては。壁ドン、キス、腰に回された手、服の裾に触れる指先。少女漫画であれば読者が枕に顔を埋めて悶絶する場面だが、現実においてこれは立派な不法侵入および強制わいせつの疑いが濃厚であった。
しかし凌は一歩も引かない。むしろ胸を押す泉の手首を掴んで、壁に戻した。
「ねえ、質問に答えてない。
もう一回、していい?」
低い声が、泉の頭上から降ってくる。
「……っ……ぇ……?そういうのは綺麗なお兄さんにして……」
「また綺麗?」
凌の目が、すっと冷えた。掴んだ手首を壁に押し付けたまま、顔を近づける。
「あんたさ、さっきから自分のこと下げて私のこと遠ざけようとしてない?」
図星を突くように、静かに。
「綺麗な男にしろって、つまり自分はどうでもいいって?」
泉の防衛機制を、凌は本能的に嗅ぎ取っていた。自己評価の低さを盾にした拒絶。それは好意を向けられた経験のない人間が無意識に編み出す、最も効率的な自衛手段であった。
泉の顎を持ち上げて、逸らされた視線を無理やり合わせる。
「私が可愛いって言ってんのに、信じないってこと?」
「……私があなたから逃げたからこんな風にキスしたの?」
一瞬、言葉が止まった。泉の目が怯えでも照れでもなく、真っ直ぐに凌を射抜いている。
「……そうだけど」
悪びれもせず、認めた。
「逃げたから追いかけた。キスして、確かめたかった」
壁に押し付けた結花の手首を、親指でくるくると撫でる。
「で、どうだった? 誰にでもするキスだと思った?」
凌という人間は、嘘をつかない。正確には、つく必要がないと思っている。自信とはそういうことであり、天音凌にとって「自分がモテる」という事実は天気と同程度の自明さであった。しかし泉は、その自明さの外に立つ数少ない人間であり、それが凌を苛立たせ、同時に強く惹きつけている。
「ねえ、答えて」
「そんなの知らないし」
「知らない、か」
ふ、と鼻で笑った。壁に押し付けた手首を離さず、空いた手が泉の腰から背中へ滑る。
「じゃあ分かるまでやるしかないじゃん」
今度は予告なしだった。泉の後頭部に手を添えて深く、さっきとは比べものにならないほど丁寧に唇を重ねる。奪うのではなく、教え込むようなキス。
凌の戦略は明確であった。泉が「誰にでもする」と言うなら、誰にでもしないキスだと体に直接刻み込むまでやめない、という極めて暴力的な論理がここに成立している。
唇を離す。が、距離は指一本分。
「……まだ、知らない?」
「……っ……知らない。それに……なんで私にキスしてる時嬉しそうなの?女の子が好きなの?」
ぴたり、と動きが止まった。嬉しそうにしていた自覚はなかったらしい。凌の表情が一瞬だけ虚を突かれたように揺れて、それからすぐに余裕の仮面が貼り直される。
「……女の子が好きっていうか……」
泉の髪をひと房、指に絡めて弄びながら。
「泉が好きなだけ」
なんという直球であろうか。変化球を投げるという概念が天音凌の辞書には存在しないらしい。
「ていうかさ」
壁との隙間を埋めるように膝を泉の脚の間に入れた。
「あんた、質問で誤魔化してない? さっきから自分に都合の悪い質問ばっかりしてくるじゃん」
凌の指が泉の顎を持ち上げる。
「ねえ、一個だけ正直に答えて。
私のこと、嫌い?」
「……あんたとかお前呼びしてくる人は嫌い」
ぱちり、と瞬きした。
それから、ゆっくりと口角が上がる。
「……あっそ」
顎を掴んでいた手を離して、一歩引いた。壁に背中を預ける泉を見下ろしながら、パーカーのポケットに両手を突っ込む。
「じゃあ何て呼べばいい?」
驚くほど素直な対応である。天音凌が他人の好みに合わせるという行為を、この大学の人間が見たら卒倒するだろう。あの天音凌が、初対面に毛が生えた程度の女に、呼び方の変更を尋ねている。
泉の顔を覗き込む。さっきまでの獣じみた圧が、すっと引いて、代わりに純粋な好奇心が浮かんでいる。
「泉って呼んだらいい? それとも他にある?」
「……泉で良い。でも……自宅調べて壁ドンしていきなりキスしてくるのはやりすぎ。……付き合ってないのに」
「……ん」
ポケットの中の手が、わずかに握られた。やりすぎた自覚はある。が、反省の色は薄い。
「ごめん」
言葉と裏腹に、表情には悪びれた様子が欠片もない。
「でも、」
凌は壁から離れて、泉の部屋を見回した。本棚の前に立ち、背表紙を指でなぞりながら。
「付き合ってないのにって言ったよね。じゃあ……」
振り返る。切れ長の目が、泉を捉えた。
「付き合ったら、いいってこと?」
「揚げ足取らないで」
「揚げ足じゃないよ」
本棚に背中を預けて、腕を組んだ。余裕のある姿勢のまま、泉を見つめる。
「あんたが告白して、私が付き合うって言ってあんたが結構ですって断った。
でも今、付き合ってないのにって条件つけたよね」
凌は指を一本立てる。
「条件つけるってことは、条件さえ満たせば許容するってことでしょ」
なんという詭弁であろうか。が、論理としては筋が通っているのが厄介であった。天音凌は面倒くさがりのくせして、こういう屁理屈だけは異様に頭が回る。
一歩、泉に近づく。
「ねえ泉。私、あんた以外いらない。あんたがいいの。理由聞く?」
「……参考までに」
ふ、と笑った。泉が自分から質問を返してきたことが、たまらなく嬉しいらしい。
「あのね」
本棚から背中を離して、ゆっくりと泉に近づく。
「あんただけなんだよ。私に媚びないの」
指折り数えるような仕草をして続ける。
「キャーキャー言わない、顔赤くしない、取り巻きみたいに群がらない、可愛く見せようとしない。むしろ逃げる、塩対応、タメ口」
泉の目の前で立ち止まって、見下ろす。
「今まで何十人に告白されたか知らないけど、全員同じだった。で、全員興味なかった」
凌は自覚していないかもしれないが、今の台詞は要するに告白である。
「あなただけが特別です」という、世の恋愛ドラマが使い古した台詞の最も純度の高い原液。
泉の顔を覗き込む。
「……まだ理由いる?」
「……うん」
「欲張りじゃん」
けれど嫌そうには聞こえない。むしろ声が柔らかくなっている。凌は泉の前にしゃがみ込んだ。見上げる形になる。175cmの長身が膝を折って、泉を仰ぎ見る。
「あのさ」
両手を自分の膝に置いて、まっすぐ泉の目を見た。
「学食であんたが逃げ帰った後、三日間ずっと考えてた。あんたの目。あんたの声。あの「大丈夫です」って事務的な感じ」
凌はふ、と息で笑う。
「あれ逆に効いたんだよね。ムカついて仕方なかった。私のプライド全部へし折られた気がして」
プライドを粉砕されて、それを好意に変換できる人間というのは、ある種の才能と呼ぶべきか狂気と呼ぶべきか。
しゃがんだまま、泉の手を取った。両手で包み込むように。
「だから追いかけてる。あんたが欲しい。理由、これで足りた?」
「……それって手に入れたら興味無くなる?」
泉の手を包んだまま、動きが止まった。
凌はしゃがんでいた姿勢から、ゆっくりと立ち上がる。表情が読めない。
「……なんでそう思うの」
泉の問いは、単なる疑問ではなかった。その声には、どこか確信めいた響きがあった。人に裏切られた経験が積み重なった人間特有の、予防線の張り方。傷つく前に自分から切り捨てる、あの癖。
凌の目が細くなる。気怠さの奥に、鋭いものが光った。
「ねえ泉……
それ、私に聞いてるようで、自分に言い聞かせてない?」
「違うよ。プライド高い人はその拒否してきた相手を手に入れた時満足する。
一瞬の満足感が得られたから次の興味か見つかれば飽きて捨てる……そうじゃない?」
沈黙が落ちた。凌の目から、一切の表情が消える。
それから泉の手を握ったまま、壁際まで押し込んだ。背中が壁にぶつかる。凌の空いた手が泉の頭の横に叩きつけられた。
「……あんたさ」
声が低い。今までの甘さが消えて、剥き出しの苛立ちが滲んでいる。
「私のこと、そういう男と同じだと思ってる?」
泉は地雷を踏み抜いたのではなく、地雷原に自ら足を踏み入れたのである。しかも極めて正確に、凌の最も触れられたくない部分を射抜いた。天音凌のプライドは、安く見られることに耐える構造をしていない。
壁を殴る音がした。泉の耳のすぐ横。
「手に入れたら飽きる? 捨てる?」
凌の目が、至近距離で泉を焼く。
「じゃあ試してあげる。あんたを手に入れるまで諦めないし、手に入れてからも絶対捨てない。
あんたが信じるまで、何年でも」
「……あんた呼びは嫌」
壁を殴った手が、ぴくりと止まった。
怒気に染まっていた目が、一瞬きょとんとして。
「……は」
堪えきれないように、ぷっと吹き出した。
「あんた今、この流れでそれ言う?」
壁についた手を下ろして、額を押さえる。肩が小さく震えている。笑っている。
壁ドンからの怒号という極めて威圧的な場面において、泉が返した言葉は「あんた呼びは嫌」。恐怖でも懇願でもなく、呼び方の訂正要求。この人間は、肝が据わっているのか、それとも根本的に感覚がずれているのか。恐らく両方であろう。
笑いを収めて、目元を拭いながら泉を見下ろす。
「……分かった。じゃあ何て呼べばいい? 泉?」
「うん、名前がいい。次あんた呼びしたら私もあんた呼びしかしない」
目が据わった。が、口元は笑っている。厄介な組み合わせだ。
「……脅し?」
泉の顔を覗き込む。こんな小さい体で、壁際に追い詰められながら、条件交渉をしてくる女。凌は心底面白そうだった。
「いいよ、泉って呼ぶ。ずっと」
壁についていた手を下ろして、泉の頬にそっと触れた。さっきまでの乱暴さが消えて、指先だけが頬を撫でるように動く。
「そのかわり……」
親指が泉の頬骨をなぞる。
「泉も私のこと名前で呼ばないと不公平じゃない? 凌、って」
交渉が始まった。壁際の攻防は、いつの間にか呼び名の取り決めという極めて平和な議題に移行している。もっとも、泉の背後が壁であるという事実は変わっていないのだが。
「名前呼びは別にいいけど……そろそろ大学行かなくていいの?私……授業受けなきゃだし」
「リモートで受けてた人が何言ってんの」
即座に突っ込んだ。泉の逃げ口上を、一手で封じる。
痛いところを突かれた。泉がリモートに切り替えた理由は凌から逃げるためであり、その事実を当の本人に把握されている時点でこの作戦は最初から破綻していたのである。
頬に触れていた手が、泉の耳の後ろに滑る。
「ねえ泉、話逸らしてるでしょ。」
名前を呼ぶたびに、少しだけ距離が近づく。
「名前、呼んで」
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めっちゃ面白かったわ!最初の告白シーンから「女だけど、いい?」の返しで一気に引き込まれた。泉の「大丈夫です、失礼しました」で帰っちゃう潔さと、凌がそれを根に持って追いかける展開が最高。住所調べて押しかける凌のストーカー気味な執着と、それに対しても塩対応貫く泉の強さが好みすぎる。キスシーンはドキドキしたし、「あんた呼びは嫌」って流れでそっちにシフトする泉の図太さに笑ったわ。続き早く読みたい🔥
ミリリス時々ぴちリス
935
奇蹟あい
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