テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
仕事を終えて、従業員出口から外に出て駅に向かう途中、
『佐倉さん!』
と背後から声をかけられた。
驚いて振り返ると、そこにはあの日妻へのプレゼントを一緒に選んだ男性が笑みを浮かべて立っていた。
『その節はありがとうございました。妻もとても喜んでくれました』
『あぁ、|町村《まちむら》さん。それは良かったです』
ここまでの会話はよくあることだった。ただそれ以降の言葉に、少しだけ違和感を覚えたのだ。
『自宅は近いんですか?』
『いえ……近いわけでは……』
『私はこの近くなんです。まさか偶然お会い出来るとは思わなかったなぁ』
『そうでしたか。ではまたのご来店をお待ちしていますね』
春香がそう言った途端、町村の唇が引きつったように見えた。しかしすぐに笑顔に戻ったので、
『失礼します』
と、その場を離れることにした。
それから一週間。何事もなく過ごしていた帰り道、また背後から名前を呼ばれた。そこにはやはり町村が立っていたので、春香は少し怖くなって身震いをした。
『本当によく会いますね』
近くに住んでいるのだから会うこともあるだろうが、度重なる偶然に少し気まずさを感じた。
『お疲れ様です。仕事が終わる時間がきっと同じくらいなんですね。では失礼しますね』
まだ二度目ではあったが、少しだけ気味が悪くなってきた。
それ以降春香は帰る時間を少しずらすようにしたのだが、それでも水曜日の夜は必ず帰りに会ってしまう。日を追うごとに、水曜日以外にも声をかけられるようになった。
それはまるで、待ち伏せでもされているかのようだった。
そしてこれは昨夜の話。呼び止められた後に、
『あの、この間のお礼がしたいので、もし良かったらこの後に食事なんてどうですか?』
と詰め寄られたのだ。
徐々に壁際へと追いやられ、助けを求めることも出来ない状況に、初めて身の危険を感じた。
怖くなった春香はするりと身を交わすと、改札に向かう人の流れに乗り、町村から距離を取っていく。
『えっと……お客様とはそういうことはしてはいけない決まりで……それに奥様がご心配されると思いますので、お気持ちだけいただいておきますね。ありがとうございます』
すると町村は笑顔を顔に貼り付けたまま小さく舌打ちをしたのだ。
春香はゾッとした。今の対応は合っていたのだろうか。それとも失敗? ただその場を離れられたことだけは良かった。不安を拭いきれず、そのことを椿に相談したかったのだ。
「今までは待ち伏せされてるかもって言ってたじゃない? それが昨日、食事に誘われて」
春香が力無くそう言うと、椿は驚きと怒りが入り混じった表情で顔を真っ赤に染める。
「はぁっ⁈ だって結婚してるんだよね?」
「うん、そのはず。だからなんかねぇ……」
「不倫する男は下衆の極みだよ。一度はっきりと『やめてください』って言った方がいいのかもね」
「私もそう思うよ。でもトラブルにはなりたくないしなぁ……。だって舌打ちとかする人だよ。何かあったら怖いし。あの職場、すごく気に入ってたんだけど、勤務地の変更願を出そうかなって考えてる」
「ちょっとストーカーっぽいもんね。あまりにも度を超えて来たら、警察に相談するのもありかもね」
「うん、確かにそれが一番いい方法かもしれないね」
真剣な顔で頷く椿を見ながら、春香は嬉しそうにニンマリと笑った。
「椿ちゃんって、いつもすごく親身になってくれるから嬉しい」
「もう、そんなこと言って……本当に心配してるんだからね」
「うふふ、ありがとう。あぁ私、椿ちゃんがいれば彼氏なんていらないかもー!」
「すぐにそうやって話を逸らすんだから、何かあってからじゃ遅いんだよ」
「わかってるってー」
椿は大きく息を吐くと、春香の顔を覗き込む。
「春香ちゃん、最近恋愛に興味なくなった?」
「……なんで?」
「だって恋する女の子はみんな可愛いくなるんでしょ? 今のって"恋しなくてもいい"って聞こえちゃう」
確かにそのことを口が酸っぱくなるほど言い続けて来た張本人がそんなことを口にすれば、椿だって顔をしかめるのは当たり前だ。
「でも……その考え、ちょっと否めないんだよねぇ」
「否めない?」
「そう。なんか仕事も充実してるし、今は自由に時間もお金も使える。椿ちゃんっていう友だちもいて、今のままで十分なんだよねぇ」
「その気持ちわかるな。やっぱり一人は自由だもん」
その時二人の目の前にはわらび餅のパフェとほうじ茶が運ばれてくる。見た目にも可愛らしいパフェに、春香はうっとりと目を細めた。
カウンター席の正面には、通路を挟んで棚がある。そこには何やら名前が書かれたたくさんの缶が並んでいることに気づいた。
その時カウンターの中にいた店員が缶を取ると、蓋を開けて茶葉を取り出すのが見えた。
「えっ、もしかしてこれ全部お茶なのかな?」
「うん、そうだよ。産地と銘柄に分けてあるの」
「あれっ、なんか詳しくない? 何回か来てる感じ?」
不思議そうに椿を見つめると、急に照れたように顔を真っ赤に染めて俯いた。
ブラウンに染めた髪を右耳の下で結び、薄手の白シャツにテラコッタのオールインワン。でもいつもはつけないイヤリングが耳元に揺れている。
地味で自分に全く興味のなかった椿を、ここまで変えたのは春香だった。彼女を見るたびに、今の仕事に就けたことに誇りを持つことが出来た。
春香はニヤリと笑うと、椿の脇腹をツンツン突いた。
「もしかして……彼氏でも出来たの?」
「えっ⁈」
「なんか今日いつもよりオシャレだし、顔が真っ赤で可愛いし」
その時、ふと同じカウンターに座る男性を思い出す。同化はしていても、女性ばかりのこの店には少し不釣り合いな気がしていたのだ。
「わかった! 椿ちゃんの好きな人ってもしかしてーー!」
そう口にしながら顔を上げた春香は、商品を届けた後も未だに着物姿の男性店員が目の前にいることに気付く。不思議に思い、男性店員をゆっくりと見上げた春香は口をあんぐりと開けた。
「えっ……ちょ、ちょっと待って! まさか、ヒロくん?」
思わず立ち上がってしまった春香を、"ヒロくん"と呼ばれた男性店員は笑顔で眺めている。
「あはは! 正解。久しぶりだな」
あの頃と変わらないはにかんだような笑顔。目を細めて楽しそうに笑うのは|池田《いけだ》|博之《ひろゆき》ーー高校生だった春香と椿がずっと好きだった相手に間違いなかった。
#大人の恋愛
#モブレ