彼は焦燥感に駆られながら、ただ走る。
たった一人である大親友の家へ足を急がせるため、転んでは 手を震わせながら立ち上がり、皮膚に血が滲んでも、下唇を噛んで腕を振った。
吉木浦という男は、 一つの目的の為だけにグルの家へ駆けていた。 瞳からは涙が零れ、全身からは冷や汗が流れ落ちている。雨に濡れた地面を踏んづけて、永遠かと思われるほどに腕を振り回していた。街灯は鋭く光り、辺りを鮮やかに照らしている。そんなものは眼に映ることなく、暗闇に溶け込むように坂道を下った。すると、ただ一筋淡い光を漏らしている豪邸がある。石造りの柱に、緑に塗られた屋根。そして開けられた門。
遂にグルの家に辿り着いたようだ。彼はドアを壊れるほどノックして、到頭崩れ落ちてしまった。眼の前にある扉を凝視しながら、ああ……ああ……と呟けば、安堵の溜息を胸から漏らす。
………ガチャ……
暫くの間待っていると、扉はゆっくり開いた。暖房の暖かい風が外まで流れ、視線を上に向けると 金髪の青年……グルが立ち尽くしていた。
吉木は、彼を見た途端、縋るように抱きついた。しばらく堪能するかのようにじっとしていると、胸ポケットに手を入れる。軈て、カッターを取り出し背後に隠した。
「会いたかった。わざわざ扉を開けてくれてありがとう……お陰様で決心がついたよ」
呼吸がままならない程に強く抱きしめられたグルは、背筋を伝う寒気と同時に、困惑で声さえ出なかった。汗で濡れた吉木の服を眺めながら、深く状況を理解するために考えた。
左膝を擦りむいて血を流している……、そして、口元にも傷があり、かなりの重症ではないか……。
待て、何かがおかしい。手で何かを持って背後に隠しやがった。あれは、もしかしたら……?
思ったことが行動に現れたかのように、吉木の手に触れる。固くて凸凹のあるものが手には握られていた。
「……おい、そのカッター、何に使うんだよ? 」
最初に出た言葉。彼が眉をひそめているのにも関わらず、吉木は一ミリたりとも動じない。唇を固く結んだまま、床のタイルを眺めていた。
その間に、 開けられたままの扉からは冷ややかな風が入り込み、二人の体温を奪う。そして、足が震え始めた頃、覚悟を決めたように吉木は彼から離れる。
「なぁ、グル君……声上げたら黙らせるから 」
「何すんだよ?」
「…………動かないで」
────音はしなかった。
カッターを思い切り左眼に押し当てると、弾力がある球体に刃が食い込んだような触感がした。それを見て、思わずグルは声を上げながら、尻餅をつく。軈て、怖気づきながら吉木に近づくと、微笑を浮かべていることに気がついた。
「ねえ、グル君。眼球って移植できると思う?」
「出来ねぇだろ。だって、ほら……現在医療じゃ神経まで正確に繋ぎ合わせられないだろ?」
「ま、そうだよね。普通ならそうだろうけど、僕が指名した病院に言えば確実に移植できるんだ!! さあ、君の目をくれ。僕に移植してくれよ」
グルは医学について詳しかったこともあり、移植が不可能だということも理解していた。だが、力強く訴えかけてくる吉木を見て「そうなのだろうか」とさえ思い、何の病院なのかと尋ねる。吉木は乾いた音を立ててケラケラ笑った。
「……プランテスワードっていう病院さ。電話番号は……03-1234-5678」
電話番号を口にしたときには 、もう言葉がとぎれとぎれになっている。それを聞きながら、グルは必死になって「分かったから喋んな……」と涙ぐむ。だが、その言葉は届くこともなく吉木は力なく倒れてしまった。
「くそ……仕方ねぇ……。電話しないとな……信憑性ゼロだけど……」
ブツブツと小言を呟きながらスマホを取り出し、ポチポチと画面を叩く。すると、プルルルと音を鳴らしながら震えた。
「はい。プランテスワード総合病院です」
若い女の声がした。グルは咳払いをして、ゆっくりと言う。
「吉木浦という親友が、眼の前で片眼をカッターで突いて 倒れてしまったたのですが……」
女は様子を変えて、低い声で尋ねる。
「お名前を伺っても?」
「グル・ウィリアムズです」
「承知いたしました。 ……今、救急車が向かっているので待機していて下さい。もう貴方の家の近くなはずです」
突然、冷淡とした態度になった。グルは不審に感じながら首を傾げる。
「……住所を教えたつもりはありませんが……」
おかしい、スムーズすぎる。彼の耳には女が全て分かっているかのように聞こえた。
何より、もう救急車の音が家の前から聞こえる。グルは赤く点滅している白い車を眺めていると、消防士の男が素早く走ってきた。途端に、布で口を塞がれ車をまで運ばれる。その頃には、意識が朦朧とし、眼を閉じてしまっていた。
♪
軈て、重い瞼を開けると白い天井が見える。今にも消えそうな電気はチカチカと不安定であった。彼は上半身を起こしながら、眼をギョロギョロと四方八方に動かす。鼻を突く消毒液の香り。清潔なベッド……量が半分になった点滴。ここは病院だと再確認する。
「……浦?」
隣に眼を向けると、スヤスヤと左眼に包帯を巻いて眠っている吉木が居た。その顔をジッと見つめていた彼は、突然にして表情を変える。思わず声が出そうになった。
──吉木の顔に縫合跡がある。
縫い目を凝視しながらウーンと唸った。
(整形かよ……?! 一人にしてはよくできてんな。ズレたりしているが、綺麗すぎる。何の為に整形したのかは検討もつかないが、流石に出来過ぎているな)
それを眺め終わり、はぁと興奮気味に溜息をつく。医学に興味しかない彼からしてみれば好奇心が大きく勝った。どうやって、こんなにも美しい縫合したのだろうか。そして、眼にカッターを刺した理由を尋ねるためにも「起きろ」と大声を上げた。すると、眉間にシワを寄せながらグルの方を右眼で見る。
「ねえ、グル君。君……眼は無くなったのかい?」
くぐもった声で尋ねる。彼は探るかのように目許を触った。そして、眼があることを確認する。
「眼がある。移植されたらしい」
「……は? まさか、僕の眼かな?」
「知るか。というか、お前だって俺の眼球を貰ったんだろう? 成功してんのか」
「成功してるみたいだ。問題集と僕くらいしか見てない眼が僕の体で生きてる!」
そう言いながら、顔一面に笑みを広げる。グルはサラリと流れ出た言葉に苛つきながらも、移植の成功を喜んだ。
「とにかく。視力が戻るか、だな」
彼は結果を予想して笑みをこぼした。しかし、すぐに表情を変えて眼を閉じる。
「なぁ、浦。なんで目をカッターで突いた? 自分で整形もしてるだろ」
「……うわ、バレた」
そう言って、 諦めたかのように、ハハと表情を緩める。ただ、瞳の奥だけは黒々としていた。そこに何があるのか、何を考えているのかは神のみぞ知ることであろう。
「まぁ、理由は言えないけど。人を殺したんだ。僕。それが警察にバレそうになって、何とか証拠は全部消したんだけどね。すぐ明らかになるさ」
眼を逸らして、硝子窓の向こうを覗く。太陽はガラリギラリと輝いていた。
「……へえ。でも、お前はそんなミスしないだろ」
冗談のように言ったあと、返事も持たずに膝を打った。
「つまり、俺の眼球を移植して英人になりすまそうとしたんだろ? 両目移植すればいいのに馬鹿かよ」
指を真っ直ぐ指して、アホと連発した。殺人という犯した罪に対し、怒りもしないグルを見て、吉木は呆然とする。そして苦笑が漏れた。
「後遺症が残ったら困るじゃないか」
怒りの混ざった声色で、静かに言う。彼はそれを聞き流して笑い声を立てた。
「まぁ……そうだよな。けど驚いた。急に眼を刺すなんてホラーよりホラーだろ。大人でも号泣する」
「なに……怒らないの? 僕は殺人者だよ?」
焦りの色が見え始めると、彼は淋しそうに口許を緩める。軈て、パチッと指を鳴らした。
「バレなきゃいいって。 どうせ海外にでも行くんだろ?」
全て見透かしたかのように言い放った。流石にそこまで的中すると思わなかったのか、吉木は口をアングリとさせて硬直していた。
「……すっご! 僕は今からタイに行くよ」
端にあるひっそりとした街であるとか、パッタイが何だとか。行き先を愉快そうに語りながらも 、どこか悲しげで 無理に笑っているようにも見えた。
「へぇ…… なら、もう一緒に授業は受けられないのか。凄く残念」
「え?」
直後、その場が静寂に包まれた。数分過ぎても、衝撃で言葉が出ないほどである。
「き、君もそんなこと思ってたんだね!! あ〜、やっぱりそうなんだ? 僕と授業受けられなくて寂しいんだ? 」
ニヤニヤと意地悪そうな顔をする吉木のことを、彼は頬を染めて睨みつけた。言うまでもなく、彼は自分の放った言葉に恥ずかしさを覚え、俯きながら泣きそうになっていた。
「……黙れ! アホ浦! 」
「あはは! ごめんごめん。 でも、めっちゃ嬉しい。四年後、絶対に迎えに行くから。ロンドンで待ってて!」
真剣な顔でそう言うと、「僕は寝る」と言い残し眠ってしまった。
グルにとって、吉木を見るのはこれで最後となる。三日月も見えなくなり、朝日に街中が包まれると彼は眠そうに眼を開いた。おはよう、と英語で言いながら隣を見ると、清潔で白い布団のみが残っている。机には、一通の手紙が残されていた。
Dear Guru.
I have to go now, so please let me go. Thank you for everything you have done for me. Good luck in medical school! Oh, and I’ll give you my contact details.
──────────────
This is my contact information. I’d like to contact you once a year! It would be a bit of a stress reliever. With love from Yoshikiura.
(和訳)親愛なるグルへ。 もう行かないとだから、行かせて。 今までありがとう。 医学部で頑張ってね! それと、僕の連絡先を教えておく。
──────────────
これが僕の連絡先だよ。 年に一度は連絡したいなぁ! ちょっとしたストレス解消にもなるし。吉木浦より愛を込めて。
それを読むなり、グルは眼を見開いて唖然とした。
──もう、今日出発するのか。
寂しそうにその手紙を折りたたむと、昨日に言われたことを頭で繰り返した。
『四年後、絶対に迎えに行くから。ロンドンで待ってて 』
四年後は丁度、大学を卒業する頃だ。──つまり勉強に明け暮れ、寂しさを忘れることができれば耐えられる。このとき彼は決心した。「浦が迎えに来るまで待とう」と。
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