テラーノベル
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部屋の隅の、古いガスストーブを見た。
つまみは、閉まっていた。
それなのに、しゅう、と細い音がしていた。
ストーブの裏に手を伸ばす。
壁の穴へ続いているはずのゴム管が、穴の手前で、すっぱりと途切れていた。
切られていた。壁の向こうで。
この部屋のガスの元栓は、廊下側の壁にある。
さっきの、金属が床をこする音。あれは、ドアの前に、何か重いものを引きずってくる音だった。元栓を開ける小さな音は、その音に紛れていた。
私は、ベッドから跳ね起きて、ドアノブに飛びついた。
噛ませていた椅子を外す。鍵を開ける。
押した。
動かなかった。
もう一度、肩で押した。
蝶番がきしんだだけで、ドアは、外から何かにもたれかかられたように、びくともしなかった。
ドアの下の隙間に、顔を寄せた。
廊下の奥が、橙色に揺れていた。
火だった。
ボイラー室の前のあたりで、何かが燃えていた。灯油の、甘く重い匂いがした。
ガスと、火。
この部屋にガスが満ちて、廊下の火がドアの隙間に届けば。
古いストーブの事故。住み込みの家政婦が、寝ているあいだに。
誰も、疑わない。
この家に、家政婦が一人死んでも眉一つ動かさない男がいることは、知っていた。
けれど、その男が、自分の手で火をつけるとは思っていなかった。
この人は、人を殺すとき、いつも誰かにやらせてきた。
ブレーキは堂島に。紗季さんのことは、麗奈に。
その堂島が、もういない。
*
スマホを、つかんだ。
一行だけ打った。
火事。半地下。ドアが開かない。
送信の文字を確かめる前に、スマホをポケットに押しこんだ。
一人で命を賭けない。六月の夜、離れで、そう約束した。
鏡台の上の、水差しの水を、タオルにかけた。
口と鼻に当てて、頭の後ろで結ぶ。
天井近くの窓を見上げた。
人の頭も通らない幅だった。開けても、ガスは逃げきらない。
それから、壁の、もう一つの四角を見た。
鉄のベッドの上の、壁の高いところ。
埃をかぶった、格子の蓋。
ランドリーへ抜ける、通気口だった。
この部屋が、まだ物置だったころ。
嫁いだ最初の冬、お義母さまに、ここで一晩じゅうアイロンを掛けさせられた。湯気がこもるので、私は格子を外して、向こうのランドリーへ風を通した。
四隅の、ねじ。
ドライバーは、なかった。
財布から、十円玉を出した。
ベッドの枠に乗り、ねじの溝に縁を当てて、回した。
一つ目。
指が滑った。手袋を、歯で引き抜いた。
二つ目。三つ目。
ガスの匂いが、濡れたタオルを通して、喉の奥を刺した。
焼けた喉が、咳をしようとして、引きつった。
四つ目のねじが、床に落ちた。
格子を外し、肘から、通気口に体を押しこんだ。
*
暗い四角の中を、肘で這った。
埃が、目に入った。
ブラウスの肩が、壁の縁で裂けた。
この家の埃が溜まる場所なら、目をつぶっても指でなぞれる。
ずっと、そう思ってきた。今は、本当に目をつぶったまま、指でなぞっていた。
ランドリーの洗濯機の上に、転がり落ちた。
ランドリーの廊下側の扉の下から、煙が這いこんでいた。
そちらへは、行けない。
奥の、低い木の扉。
ワインの箱を運びこむための、セラーへの通り口。
扉を押し開けて、冷たいセラーの床に膝をついた。
十月に、堂島と鉢合わせた場所だった。
床の隅に、赤ワインの染みを塩で吸わせた跡が、まだ薄く残っていた。
暗がりの奥に、配膳リフトの扉があった。
一年前の夜、私が、あのレコーダーを下ろした場所。
十月の夜、堂島の手を振りほどいて、飛びこんだ場所。
扉を開けた。
竪穴の中から、煙の匂いが降りてきた。
廊下の煙が、どこかの隙間から、竪穴へ吸いこまれて、上へ昇っている。
この箱は、煙突になりかけていた。
それでも、ほかに道はなかった。
膝を抱えて、箱に乗った。
七十センチ四方の、木の箱。三歳の陽翔が、ママ、エレベーターになった、と笑った箱。
ロープを、つかんだ。
八月と、十月に、皮が剥けた手のひらだった。
素手のまま、手繰った。
一手。二手。
箱が、軋みながら、上がりはじめた。
煙が、目にしみた。
濡れたタオルが、もう乾きかけていた。
手のひらが、ロープの上で焼けるように熱かった。
擦れた皮が、また剥けていくのがわかった。
それでも、手繰った。
陽翔の明日のお弁当。
あの夜も、燃える車の横で、私はそれを考えていた。
一階の、厨房の扉の、細い光の筋が、頭の上に見えた。
そのとき、遠くで、ムギが吠えていた。
一度ではなかった。
離れのほうから、狂ったように、何度も、何度も。
*
厨房の扉が、外から、勢いよく開いた。
煙と一緒に、腕が入ってきた。
左手の甲に、桃色の痕のある腕だった。
「澪」
腕が、私の脇の下に回った。
箱から、厨房の床へ、引きずり出された。
玲司さんの胸に、額がぶつかった。
シャツの上に、コートだけを引っかけた胸だった。一晩、眠らずにいた人の匂いがした。
「……陽翔は」
最初に、それを聞いた。
「無事だ」
玲司さんの声が、耳のすぐ上で震えていた。
「義母が、和館から渡ってきて、二階から連れ出した。ムギの声で、起きたらしい。……もう、外にいる」
息を吐いた。
煙を吸いこんで、むせた。
玲司さんは、私を両腕で抱え上げ、勝手口から外へ出た。
冷たい夜の空気が、喉に流れこんだ。
*
消防車のサイレンが、坂を上ってきた。
赤い光が、庭の木々を、くるくると照らした。
近所の家の窓に、次々と灯りがついた。
芝生の上で、蒼真が、消防隊員の腕をつかんでいた。
「家政婦さんが、中に! 半地下に、家政婦さんが寝てるんです! 早く――」
パジャマにガウンを羽織り、裸足だった。
声を嗄らして、半地下の窓を指さしていた。
その顔が、こちらを向いた。
玲司さんの腕の中の、私を見た。
蒼真の口が、開いたまま、止まった。
指さしていた手が、ゆっくりと下りた。
「……凛さん。よかった。本当に、よかった」
えくぼが、作れていなかった。
私は、玲司さんの腕の中から、蒼真を見た。
濡れたタオルを、喉から外した。
「ご心配を、おかけいたしました、旦那様」
煙で嗄れた、凛の声で言った。
ドアの前に、何を引きずってきたのか。
上がっていくとき、どうして十三段目を跨いだのか。私は全部、知っている。
芝生の端に、お義母さまが立っていた。
羽織の中に、陽翔を抱きこむようにして。
陽翔は、ぴょんたを胸に押しつけたまま、私を見ていた。
声は、出さなかった。唇だけが、震えていた。
それから、お義母さまの羽織の中から、片手だけを出した。
自分の耳を、二回、触った。
ここにいるよ。
人の大勢いる前で、この子は、声を出さずにそう言った。
私も、玲司さんの肩ごしに、煤だらけの指で、自分の耳を二回触り返した。
お義母さまは、半地下の窓から昇る煙を見上げていた。
「この家を燃やすと言ったのは、私だったのに」
誰に言うともない声だった。
門のほうから、よれたトレンチコートの男が、走ってきた。
玲司さんが、私の送った一行を見て、すぐに電話をしたのだという。
水無瀬刑事は、蒼真の横を、会釈だけして通り過ぎた。
消防隊員と短く話し、半地下の入口を指さした。
「元栓と、ドアの前に置いてあったもの。誰も触らせないでください。指紋を取ります」
蒼真が、ガウンの襟を、握りしめた。
*
救急車の中は、白く、明るかった。
酸素のマスクの下で、喉が、ひゅうひゅうと鳴った。
救急隊員が、私の両手のひらに、濡れたガーゼを当てた。
玲司さんは、隣の狭い椅子に座っていた。
ガーゼの上から、私の手を、そっと包んだ。
痛まないように。指先だけで。
その指が、まだ震えていた。
「もう、待たない」
低い声だった。
「明後日、終わらせる」
コメント
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毎話毎話、凛さんの冷静な脱出劇に手に汗握るんだよな……! 今回はガスと火で半地下に閉じ込められるっていう絶望的な状況だったのに、通気口のねじを十円玉で外すところとか、過去にアイロンを掛けさせられた記憶が活きるとか、すべてが伏線として効いてて痺れた。それに陽翔くんとの無言の「耳を触る」合図、最高だった……ああいう絆の描き方、めっちゃ好き。玲司さんの「もう、待たない」で終わる締めも震えたわ。続きが待ちきれない🔥
#サレ妻
都築七美
1,141
赤井 里会
1,613
ゆうき
73