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雫
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大正十四年、初夏。
下町の片隅。軒先の擦れた木看板を前に、私は足を止めた。 【向井時計店】──軍の老兵から教えられたその小さな店は、軍服を纏った私が足を踏み入れるには、あまりにも頼りなく見えた。
扉を開けると、チリンと澄んだ鈴の音が狭い店内に響き渡る。
「いらっしゃいませ!ちょーっと待ってくださいよ、今行きますんでねー!」
独りで《はいはいはい、》と声を出していそいそと奥の作業机から此方へと向かった青年──看板の苗字から察するに当人が向井と思われるその男は、袖を捲り上げた白シャツの腕で雑に額を拭い、気さくな笑みを浮かべた。だが、入口で静かに立つ私の姿を視界に収めた瞬間、その笑みは引き攣り、丸い瞳がみるみる大きく見開かれる。
深い紺青の軍服に、肩章の少佐徽章。下町の青年が息を呑む。
「…ぇ…目黒、伯爵?」
「修理を頼みたい。」
自らの声の低さに、冷ややかな感情が混ざるのを感じる。 軍御用達の高級時計店を幾つも回ったが、返ってくるのは《骨董品の領域であり、部品の交換なしには修繕不能》という素っ気ない断りばかりだった。格式ばかりを誇る職人たちへの失望を抱え、最後に頼ったのが、軍の老兵から教えられたこの小さな店だった。
「…うちで、…?いやいやいや…閣下のご用達なんて、もっと大手のご立派なお店が仰山ございますやん…。」
「生憎、何処の店も『部品を取り替えた方が良い』と云う。…この時計の部品は、一つたりとも絶対に替えたくない。」
私は革手袋を外し、懐から銀製の懐中時計を取り出した。使い込まれたそれには細かい傷が無数に刻まれている。それは敬愛していた亡き祖父から譲り受け、激動の戦地でも片時も離さず胸元に抱いていた形見だった。
「………ほんなら一旦、拝見させていただきますわ…。何もお構いも出来ませんけど、そこに掛けてお待ちください。」
腰元の軍刀を誘導された椅子の横に立て掛けてそのまま腰掛けると、向井は私の手元から、《お預かりします。》と慎重に時計を受け取った。作業場へ戻り、片目にルーペを嵌めると、固く閉ざされた裏蓋を専用の工具でゆっくりと開いていく。
「…はーん…成程…。歯車が幾つか噛み合ってへんし、油が完全に切れて固まっとんな…。それにこの針、流石ですね。手作業で細かく削り出された、ええ職人の仕事ですわ。そら今の量産品の針に替えたら、この時計の『心臓』が変わってまうな…。何で大手は直ぐ部品替えようとするんかな…。」
さっきまでの狼狽えは綺麗に消え去り、彼の瞳に職人特有の純粋な熱が宿る。私に言っているのか言っていないのか、ぶつぶつと呟きながら止まった刻を前にした彼の真摯な横顔を、私は何処か圧倒されながら見つめていた。ただ一筋に時計と向き合うその姿が、酷く眩しく映った。
「恐縮ですが…数日、預からせてもろてええですか?」
「数日とは、具体的に何時になる?」
「そやなぁ…三日経ったらまたご足労願えますか?針はそのまんまで、中の細工だけ削り直して調整してみますわ。安もんですが代替の時計お貸ししますんで、まぁ…夕刻にでも!」
にかっと無邪気に笑い、胸を張って代替の懐中時計を差し出してくる向井。私は差し出された安物の時計を受け取ると、指先に残った僅かな温もりが妙に印象に残り、微かに目を逸らした。
「…では、頼んだ。」
短い言葉だけを遺し、私は店を去った。