テラーノベル
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駅前から、人力車を三台連ねて、海沿いの道を走った。
由比ヶ浜の白い砂が、左手にどこまでも続いている。お鈴は、車の上で何度も立ち上がりかけて、車夫に叱られた。
稲村ヶ崎の手前で、道は松林の坂を上りはじめた。
坂の上に、生垣に囲まれた平屋があった。瓦屋根の和風の母屋に、白い板張りの洋間が一つ、海のほうへ張り出している。
雨戸は、すべて閉まっていた。
門の前に、老夫婦が並んで頭を下げていた。
日に焼けて、腰の曲がった小柄な老人が、源造さん。丸顔で、手拭いを姉さんかぶりにしたのが、ハツさん。
「旦那様。……よう、お戻りなさいました」
ハツさんは、顔を上げるなり、前掛けで目を覆った。
冬馬様は、手袋の手で、その肩に一度だけ触れた。
「長いこと、すまなかった」
源造さんは、何も言わずに、母屋の雨戸に手をかけた。
がらがらと、二年ぶりの音がした。
暗かった座敷に、夏の光が、斜めに差しこんだ。舞い上がった埃が、光の中で、金色に揺れていた。
その向こうに、海が見えた。
お鈴が、縁側に飛び出して、そのまま立ちすくんだ。
「……奥様」
小さな声だった。
「水が、空まで、続いてます」
百合絵様が、得意げに何か言いかけて、やめた。お鈴の頬を、涙がひとすじ伝っていたからだ。
「泣くことないじゃないの」
そう言いながら、百合絵様は、自分の手拭いを、お鈴の手に押しつけた。
*
千鶴さんの部屋は、母屋の一番奥の、六畳だった。
「旦那様のお言いつけで、何ひとつ、動かしてはおりません。埃だけは、月に一度、払わせていただいて」
ハツさんが、襖を開けた。
海に向いた窓の下に、文机。その上に、読みかけの翻訳小説が、頁を伏せたまま置いてある。背表紙が、日に焼けて白っぽくなっていた。
衣桁には、藍の浴衣が一枚。鏡台の上に、べっ甲の櫛。
二年前の八月のまま、時間だけが、部屋の外を通り過ぎていったようだった。
冬馬様は、敷居の手前で、足を止めた。
柱に、手袋の手をついている。
入ってこなかった。入れないのだと、わかった。
私は、その袖の端を、指先でそっとつまんだ。
冬馬様は、何も言わなかった。けれど、袖を引き抜こうともしなかった。
「……私が、見ます」
袖を放して、私は一人で、敷居をまたいだ。
文机の引き出しには、真鍮の小さな錠がついていた。
帯から、「かまくら」の札の鍵を出す。鍵穴に差しこんだ。
回した。
軽すぎた。
錠は、かちりとも鳴らずに、するりと外れた。
ルーペを出して、鍵穴の縁を見る。くすんだ真鍮の地に、細い引っかき傷が、何本も走っていた。傷の底だけが、新しい金色に光っている。
「旦那様。この錠は、一度、針金のようなもので、こじ開けられています」
敷居の向こうで、冬馬様が息を呑む気配がした。
引き出しを、開けた。
中には、白い便箋の束と、短くなった鉛筆が二本。それだけだった。
けれど、引き出しの底板の色が、おかしい。
全体が薄く日に焼けて、黄ばんでいるのに、真ん中に一か所だけ、封筒ほどの大きさの長方形が、白く残っている。
そこに、長いあいだ、何かが置かれていたのだ。
そして、誰かが、それを持ち去った。
「誰が。いつ」
冬馬様の声が、低くかすれた。
ハツさんが、廊下で、おろおろと前掛けを握りしめた。
「あたしは、何も……。そういえば、御葬儀が済んで間もなく、お屋敷からお使いの方がお見えになりました。奥様のお品を東京へお送りする支度をなさって。奥様のお書き物は、ほかに残っていないかと、それはもう、お丁寧にお尋ねで」
「誰だ」
「お名前までは……。あたしどもは、お座敷にも上がりませんで」
ハツさんは、申し訳なさそうに首をすくめた。
「お巡りさんも、一度、お部屋をご覧になりました。でも、引き出しには、お手を触れなかったはずで」
千鶴さんは、鍵を、東京へ送られる文箱の底に隠した。
鍵がなければ、誰も、この引き出しを開けられないはずだった。
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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それでも、誰かが、開けた。
*
日が傾くのを待って、裏の崖道を歩いた。
母屋の裏手から、松林のあいだを抜ける細い道が、ゆるく上っている。足もとは砂まじりの土で、ところどころに木の根が出ていた。
冬馬様が先に立ち、ステッキで草を払った。
少し上ったところで、道が二つに分かれていた。左へ下りれば、坂下の町の通りへ出る。右へ上れば、岬だ。
別荘から岬の先まで、女の足で十分ほど。町の通りからでも、そう変わらない。
松林が切れると、急に空が広くなった。
道の先の、岬の突端に、小さな東屋があった。茅葺きの屋根に、四本の柱。中に、腰掛けの縁台が一つ。
海側の柵は、私の膝ほどの高さしかなかった。
柵の際に立って、下を覗いた。
目がくらんだ。
ずっと下で、黒い岩に、白い波が砕けている。潮の音が、崖を這い上がってきた。
「夜は、何も見えない」
冬馬様が、私の後ろで言った。
「月がなければ、柵があることさえ、わからないだろう」
私は、柵の木を握った。
千鶴さんは、暗いところが大嫌いだった。夜の崖道を、一人で散歩するような人ではなかった。麗子様は、そう言った。
では、誰が呼べば、千鶴さんは、この道を上ってきたのだろう。
「……明け方に、着いたときには」
冬馬様が、そこまで言って、口を閉じた。
海のほうを向いたまま、それきり、何も言わなかった。
風が、冬馬様の前髪を、乱暴にかき回していった。
*
夕餉は、冬馬様が、別荘の台所で拵えた。
ハツさんは、旦那様が台所にお立ちになるなんてと、真っ青になって、竈の前から動こうとしなかった。冬馬様が、黙って袖をまくり、源造さんが釣ってきた鯵を、手際よく開きはじめると、ハツさんは口をぱくぱくさせて、私の顔を見た。
「お屋敷でも、いつもこうなのです」
私が言うと、ハツさんは、へなへなと上がり框に座りこんだ。
開いた鯵に塩を振って、七輪の網にのせる。脂が落ちて、煙が台所の梁まで上った。
鯵は、少しだけ焦げた。焦げていないほうの身を、冬馬様は、黙って私の皿に載せた。
それから、ほんの少しだけ、箸を動かした。崖から戻って、初めて口に入れたものだった。
夕餉のあと、ハツさんが、古い柳行李を一つ、私の前に運んできた。
「警察から戻ってきた、奥様のお品です」
ハツさんは、畳に手をついた。
「旦那様は、見たくないと仰って。お屋敷のお使いの方も、それはこちらで処分を、と。……でも、あたし、どうしても捨てられなくて」
蓋を開けた。
骨の折れた、小田原提灯。燃えさしの蝋燭が、底にこびりついている。赤い鼻緒の、桐の下駄が片方。
それから、くるくると巻かれた、山吹色の半幅帯。
「お召し物は、あたしが洗って、仕舞いました。でも、お帯だけは」
ハツさんの声が、震えた。
「洗うのが、怖くて。奥様が、最後に締めていらしたまんま、巻いて仕舞っただけで」
私は、帯を手に取った。
潮を吸って、乾いて、ごわごわに固くなっていた。
巻きを、そっとほどいていく。
胴に当たっていた辺りの、二つ折りの折り返しで、指先に、かさりと、紙の手触りがあった。
私が、何でも帯に挟んで持ち歩くように。
千鶴さんも、そうだった。女学校の頃から。
帯の折り返しのあいだから、小さく畳まれた紙を、抜き出した。
潮で波打って、端が茶色く染みている。
広げると、刷られた欄の中に、鉛筆の片仮名が並んでいた。
電報の、送達紙だった。
「コンヤ十ジ アズマヤニテマツ トウマ」
コメント
1件
いや〜、第54話、めちゃくちゃ良かった……!千鶴さんの遺品の中から電報が見つかるところ、ゾッとしたわ。帯に挟んであったってのがもう、彼女らしいし、余計に切ない。「今夜十時 東屋にて待つ 冬馬」って、これ千鶴さんが誰かに呼び出されたってことだよな。♡♡♡じゃなくて、他殺の可能性がグッと現実味帯びてきた。情景描写も繊細で、由比ヶ浜の潮の匂いまで感じられるみたいだった。続きが気になりすぎる…!