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すでに24時を回っている。
トボトボ…という足取りで、長身メガネがプラザ中崎の廊下を歩いていた。
金曜ということもあり、幾ヶ瀬が勤めるレストランは目の回るような忙しさだったようだ。
加えて交代で回ってくる閉店作業の当番にも当たっていて、帰宅がこんな時間になってしまった。
キーホルダーに触れて音を立ててはいけないとの配慮から、カバンから鍵を出すのも慎重に。
静かにキーを差し込んで、ゆっくりと回す。
「ただいま……」
時間が時間なので、室内に入ってからも一応気を遣って小声である。
「幾ヶ瀬ぇ!」
引きこもりの生活パターンとして典型的な夜型である有夏に、その気遣いは無用だったようだが。
幾ヶ瀬の姿を認めると、彼は玄関に駆けてきた。
靴箱の引き出しに鍵をしまおうとしていた幾ヶ瀬は、その場に棒立ちになる。
「幾ヶ瀬、遅い!」
全体重をかけるような勢いで、有夏が飛びついてきたのだ。
背中にギュッと腕を回し、顔を幾ヶ瀬の首筋に埋める。
何度も名を呼ぶその声は、少し震えているようで。
「あ、有夏……ごめんね。遅くなって」
面食らった表情が、すぐに緩む。
同じくらい強く抱きしめて、幾ヶ瀬は恋人の耳元に何か囁きかけようとした。
寂しかったとか、好きだよとか。そんな他愛もないことを。
しかし言葉が発せられるより先に、有夏がガタガタ震え出した。
「くる……来るよ!」
「あ、有夏? どうしたの。マナーモードみたいになってるよ?」
有夏、小刻みに揺れてウーウー唸っている。
スマホのバイブレーション音を思いだして笑みをこぼしてから、幾ヶ瀬はあわてて表情を引き締めた。
有夏が怯えているように見えたからだ。
いつにない様子に、さすがの幾ヶ瀬も訝し気に彼の肩を抱いて部屋に入る。
ベッドに座らせて温かいミルクを与えると、ようやく有夏の震えは治まった様子。
「来るっ!」
一言、呟いた。
「な、何が? やめてよ。それ、何かすごく怖いんだけど。まさか稲川先生的なお話なんじゃ……有夏?」
「来る来る来る……クルッ!」
マナーモード、再び。
くるくる来る来る呟いて、また震え出した。
振動を止めるように抱きしめると、素直に頬を寄せてくる。
「姉ちゃん来る。今度の日曜にクルッ」
「え、姉ちゃんって有夏の?」
間抜けな質問だ。
いつもなら、当たり前だろうがと顔を顰められるところだが、今日ばかりは有夏にもそんな余裕はないらしい。
「部屋ちらかってたら怒られる……すごい怒られる。死ぬ。多分死ぬ」
「有夏?」
抱き合ったまま幾ヶ瀬の腕をギュッとつかんで、有夏は顔をあげた。
「がだづげでぇぇぇ……」
「えっ、何て?」
「有夏のへや、片づげでぇぇ……いぐぜぇぇぇ」
べそをかいている。
本来、ちっとも可愛くない筈だが幾ヶ瀬はキュンとしたように頬を染めた。
「でも、日曜って明後日じゃ……無理だよ。俺、明日も出勤だし。もちろん日曜も。既に5連勤でクタクタで、さすがに掃除って気力じゃ……」
「がだづげでぇぇぇいぐぜぇぇぇ……」
号泣した美青年は、幾ヶ瀬の膝の上に乗ってピタリと身体を寄せてきた。
必死の表情から推察するに、色仕掛けを講じているわけではないようだ。
とにかく頼みの綱の幾ヶ瀬にしがみつく。
「ゾヴジのズベジャリズドぉぉぉぉ……」
「えっ、何て!?」
「ゾヴジのズベジャリズドぉ(掃除のスペシャリスト)」と何回か呟いたのち、彼は顔をあげる。
すでに表情がない。
「無」の状態が、なんだか怖い。
【つづきは明日更新します】