豊宮愛華は、鏡の前でため息をついた。
目の前の鏡には、容姿端麗な自分の姿が映っている。特に問題などないようにも思えるが、愛華の眼には不安が宿っている。
「これで普通よね……うん」
愛華は鏡の中の自分にそう言って、頷く。
その瞬間、コンコンと部屋の扉がノックされた。
「どうぞ」
愛華の言葉と同時に、執事服に身を包んだ長身の男が入って来る。
「おはようございます、愛華お嬢様」
「おはよう、果報」
男の名は果報栄人といい、愛華の執事をしている。
彼女が小学生の頃から今の今……大学1年生になるまでずっとそばにいる。
愛華にとっては、両親や兄に次いで一番時間を共にしていると言っても過言ではない存在だった。
事実、家族のようにアドバイスをくれる相手でもあるのだが、それ以上に問題な部分があった。
「お嬢様……少しスカートが短いような気がするのですが」
この男、愛華のことになると少々過保護になるのだ。
「果報、今の大学生ならこのくらいの短さが普通なのよ」
「しかし……」
「じゃあなに、果報に女子大生の普通がわかるっていうの?」
「いえ……そういうわけでは」
「それならあまり口出さないでよね、私だって普通におしゃれして大学生活を謳歌したいのよ、そのぐらいわかるでしょう?」
「ええ、もちろん」
果報は一歩下がり、自分の胸に手を当てる。
「出過ぎたマネを……失礼いたしました」
愛華はふぅとため息をついて果報を見つめる。
この男が自分を心配してくれているのは充分にわかっている、しかし、自分はもう大学生だ。
あれこれと小言を言われても、その通りにする年齢ではないのだ。
「まあ、わかればいいのよ」
愛華は近くにあった鞄を手に取ると、そのまま扉へと向かっていく。
「じゃあ、いってくるわね」
「お帰りの時間は?」
ふぅとため息をつく愛華。
「女子大生って結構忙しいからね、いつになるかわからないわよ」
「わかりました、ではもし遅くなる場合は言ってください、お迎えに——」
愛華はふるふると首を横に振り、右手を前に出してその言葉に拒否の姿勢を示した。
「そういうのいらないわ。今までは送迎も頼んでたけど、そのぐらいは自分でしたいの」
「失礼いたしました」
愛華はそのまま部屋を出て行き、少し伸びをする。
これから行く場所は家からの監視もない唯一の場所だ。
自分が豊宮グループの子供であるということも忘れて楽しめる。
窮屈な社交界もなければ、不必要にマナーを強いる食事会もない。
そんな場所だ。
愛華は自分の家の敷地から出て最寄り駅まで歩いていく。
その姿を、果報は家の窓から見ていた。
視界から彼女の姿が消えたと同時に、果報は自分にあてがわれている部屋へと戻り、近くにあるビジネス鞄を持ち上げる。
鍵を開け、中身を広げる。
そこにあるのは、双眼鏡やペン型のライトに鍵を開けるためのキーピックが入っている。どう考えても、普通の執事が持つ物ではない。
果報は二重底になっている鞄の下もチェックし、少し微笑む。
「ふむ、こちらの武器も今日も問題ないですね」
鞄を閉め、全てをしまい終えた果報は外へと出て行く。
そして、音もなく走り始めあっと言う間に豊宮の屋敷を出て行く。
少し走ったあたりで、少し前に家を出ていた愛華の後姿を捕らえた。
スッと物陰に隠れ、愛華を見つめる果報は少しだけ微笑んだ。
「……さて、今日もお嬢様の護衛をがんばらなければ」
***
その日の夕食は、なんだか味がしなかった。
愛華は目の前に用意されていた料理の半分ほどを残し、ため息をついた。
「どうしたんだ愛華、まだ半分も残ってるではないか」
愛華の父が少し眉間に皺を寄せている。意味もなく料理を残すことをあまり快く思わない父に、理由を言わなければいけないのが愛華には憂鬱だった。
「いえあの……ちょっと学校でのことで悩んでしまって」
父の隣にいる母が心配そうに愛華を見つめている。
「どうしたの? もしかして、いじめ?」
「いや、そういうのじゃなくて」
隣に座っている兄の智英は呑気そうに出されている肉じゃがを自分の口に運んでいる。
「どうせ大した悩みじゃないだろ?」
「勝手に決めないでよ」
「愛華の悩みが大きかったことなんて今までなかっただろう?」
「子供扱いしないで」
ムッとした表情で智英を見ると、それを嘲笑うかのように彼は口元をニヤつかせた。
「じゃあその悩みとやらを聞こうじゃないか」
父は持っていた箸をおき、愛華を見つめる。
それは『言わなければ言うまで問い詰める』と言わんばかりの態度だった。
こうなると父は厄介だ。
ごまかしてこの場を離れようとしてもすぐに捕まってしまう。
『問題は小さいうちに叩いておけ』
豊宮グループを束ねている父のモットーはそれだった。
愛華は観念したかのようにため息をつき、父を見つめる。
「いやその……お父様に無理を言って大学は共学に入ったのはいいのですけど……その、なんていうか」
「なんだ、合わないのか?」
「違いますわ、お父様。そうじゃなくて、緊張するんです」
「緊張? 別に学校に行くだけではないか」
「違うんです。今の今まで私、学校に男の人がいたことがなかったので生身の男の人と触れ合う機会なんてなかったので、話しかけようにもなにもできなくて」
愛華が自分の中にある全ての思いを吐き出したその瞬間、父は笑いだした。
「ははは、愛華、そんなことで悩んでいたのか」
「そんなことってお父様……私にとってはすごく重要ですよ」
「大丈夫だ、愛華。お前にふさわしい婚約者は私が連れて来る」
ダァン!
愛華は父の言葉に思わず机を叩いてしまった。
掌には痛みがジンジン広がるが、そんなことを感じている暇はなかった。
「どういうことですの!? 私は自分の彼氏を決めることもできないんですか、お父様!」
父は頭を横に振りながらため息をついた。
「もちろん、愛華がいい人を連れてくれば問題はない」
「じゃあ、別にそんなことを言う必要なんて……」
「ふむ……」
父はにやりとして、愛華を見つめた。
愛華はぞくりとし、嫌な予感を覚えた。
父がこんな表情をする時はたいてい面倒なことが多いのだ。
今、自分のことを肯定してくれたかのように見えた父だったが、その内実はそうではないということが明白だった。
「愛華が連れて来る彼氏が、私の連れて来る優秀な人間に敵うのかね?」
父は試すようにそう言い、愛華を見つめる。
これは裏を返せば『お前にはハイスペックな人材を見つけて来るのは難しい』と言っているようなものだった。
たしかに愛華の父は優秀な人材を多く抱えている。
いい学校を出ていいキャリアを積んでいるだけの人間なら掃いて捨てるほどだ。
そんな人に勝つには、すぐには難しいのはわかっていた。
「それはわかりませんわ、お父様」
「ほう……」
「私だってこの豊宮家の人間……優秀な人間を見る術くらいは身につけてますわ」
「なるほど、そこまで言うのなら自分で連れて来るのもいいだろう。しかし、私の連れて来る人間にもちゃんと会ってもらおうか。そうすれば、どれだけ自分が物を知らないか、そして、大学生の恋愛なぞは子どもの遊びに等しいということがよくわかるだろう」
愛華は父をキッと見返すと、唇をかんだ。
「わかりましたわ、お父様。けれど、お父様こそ逃げないでくださいね。私がとても優秀な人間を連れて来たとしても……」
「はは、楽しみにしておくよ」
愛華はそのまま食堂の出入り口に向かい、自分の部屋へと戻っていく。
愛華の母はふぅとため息をつきつつ、父の肩に手を乗せた。
「あまりあの子を縛らないでくださいね」
「わかってる。けれど、あの子は世間知らずすぎるのだ」
兄の智英はやれやれといった顔で立ち上がり、自分の部屋へと戻っていった。
***
愛華は自分の部屋で外を見ていた。
「お父様の連れて来る人よりも優秀な人……か」
独り言をつぶやき、本棚から漫画を取り出した。
父からは「低俗だ」と言われていたが、愛華は恋愛漫画を読むことがやめられなかった。
毎日毎日、部屋にこもってはこんな風に恋愛漫画を眺めて1人妄想に耽るのだ。
いつかどこかで白馬に乗った王子様が私を見つけてくれて、お嫁さんにしてくれる……そうじゃなくても、どこかでイケメンと知り合って燃えるような恋をするのだと思っていた。
しかし現実は違う。
なかなか男子にも声をかけられず、できることといえば真面目に授業に出ることだけ。
これでは自分にチャンスが回って来るとは思えない。
目の前で読んでる漫画の中では、自分と同じ世代の女の子が何人もの男子に言い寄られて困っていた。
バフッとベッドに寝ころび、大の字になって天井を見つめる愛華。
「もうっ、いつになったら私の元に素敵な男性が来るっていうのよ……」
誰もいない部屋で、そんな文句を言っていると誰かがドアをノックしてきた。
「はい、どうぞ」
「失礼します、果報でございます」
果報は白湯の入ったマグカップを持って来て愛華に手渡した。
「本日のお風呂はいつも通りのお時間でよろしいでしょうか?」
「そうね、いつもの時間に入るわ……あ、そういえば」
「はい、なんでしょうか?」
愛華は果報をジッと見つめ、この男を見ても緊張しないのは何でだろうか? と少し考える。
小学生からの付き合いであり、もうすでに家族に近い存在の彼には恋愛感情といったものは感じない。
世の男性にも、このぐらいのノリで話しかけられればいいのにと思ってしまう。
「ちょっと聞きたいのだけど、私、大学で友人を作りたいの……どうすればいいと思う?」
「ご友人……ですか?」
「ええ、友人。なんでも気兼ねなく話せて、恋愛相談をしたりたまに喧嘩をしたり……そんな関係を望んでいるの」
「高校生の頃にいたご学友が何人かいらっしゃいましたよね?」
「いるけど……学校が離れ離れになっちゃったから、ゼロからのスタートなのよ」
「なるほど……昔はどうやってご友人を作ったのですか?」
「うーん……親のパーティに呼ばれてそこから仲良くなって……っていうパターンばっかりだったから、それ以外を知らないのよ」
「なるほど、では私が愛華様と仲良くしてくださりそうな方にいくらかの現金をお包みして……」
「ちょっと果報! なんで現金なんか渡すのよ!」
「いえ、これからもよろしく……という意味でお渡ししてもいいかと思いまして」
「そんなのいいわけないでしょう? もっと普通のでいいの。アンタ、普通の学校で過ごしてきたんでしょう? その経験を教えてくれればいいのよ」
「そうですね……それでしたら、いい方法がございます」
「なぁに?」
「サークル……でございます」
「サークル?」
「はい、大学には数多くのサークルが存在しております。ご入学の際に色々と勧誘の紙を貰ったのではありませんか?」
愛華はなんとなく色々な紙を貰ったことを思い出し、机の上に置いてあったクリアファイルを手に取る。
「こういうの?」
愛華の手には『キャンプサークル』『山登り研究会』といった色々な紙が握られている。
「そうです。その中で愛華様の『これはやってみたい』と思うものに入れば、同じ趣味の友人ができる……ということです」
「へえ……そんなことになっているのね。うーん……でも、どれをやればいいんだろう?」
「愛華様はご幼少の頃よりテニスをやってらっしゃいましたし、テニスサークルなんてどうでしょうか?」
「えー、でももうテニスの厳しい練習なんてしたくないし……」
「いえ、サークルではそこまで厳しい練習はしませんよ。精々同じ仲間同士でいい汗を流すためにテニスをする程度です。大会を目指して必死に練習……というのは大学の部活でやることですし、この紙にも書いてあります通り『楽しくやりましょう』がモットーですので、そこまで緊張する必要はございません。あくまで仲間とのコミュニケーションツールだと思えばいいのです」
「そうなんだ、じゃあ、明日にでも早速テニスサークルに入ってみようかな」
満足そうな顔をしている愛華の顔を確認し、果報は頭を少し下げると部屋を出た。
「お嬢様が楽しめる場所ならどこでもいいです。ただ……」
果報はギラリとした目で窓の外の月をにらむ。
「お嬢様に害をなすなら排除するまでですから」
果報はあまり足音を立てないように廊下を歩き始める。
その顔は、どこか楽しそうでもあり、どこか緊張を感じてもいた。
愛華はそれを知らず、自分の部屋の中で明日以降の楽しい妄想に浸っていた。
「うふふふ、先輩と恋愛とかしちゃうのかも……ふふふ……」
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すげぇっすな