暖かい陽光が差し込む廊下から、ギシギシと自分がその木板を踏み締める音がする。それに混じって、啜り泣くような小さな声が聞こえてくる。
何かに導かれるように、俺はその音のする方へと歩いていく。
部屋の両脇には小さな木製の二段ベッドが二つ、静かに佇んでいる。
右端の一段目、その真ん中で丸くなっている小さな背中を軽くトントンと叩く。
ゆっくりと振り返ったその男の子は、しゃくり上げながら俺に尋ねた。
「僕のお父さんとお母さんは、いつ迎えに来てくれるの?」
「っ!!」
何かが弾けるような感覚で咄嗟に飛び起きて、あたりを見回した。
そこにはいつもと何も変わらない自分の部屋が広がっていた。
切れる息を短く吐き出していくと、徐々に散らかった頭の中が整っていった。
落ち着き始めた頭で、今までの光景が夢であったことを悟った。
懐かしい空間だった。
俺がまだ小さかった頃に生活していた施設の中だ。
俺が夢の中で背中を叩いたのは、紛れもなく幼い頃の俺だった。
昔の自分が出てくるなんてと、不思議な体験に思いを馳せたが、俺の心の中はそんなことを呑気に考え続けていられるほど穏やかではなかった。
居ても立っても居られず、俺は自分の部屋から出て、ある場所へ向かった。
こんな真夜中であるにもかかわらず、いまだに煌々と白い蛍光灯の灯りが点いている部屋の襖をゆっくりと右に引いた。
「…ふっか」
中にいるそいつは、俺が部屋に入るとキーボードの上でカタカタと音を鳴らしていたその指を止めた。そしてゆっくりと顔を上げて俺の方を見ると、悲しそうに笑って片手を俺の前に伸ばした。
「ん、おいで」
何か特別なことがあるわけじゃない。
布団の上に座るふっかの腰に抱きついている。
ただ、それだけ。
寂しい時、怖い時、辛い時はいつもこうさせてもらっている。
ふっかは何も言わない。
話すのは俺だけ。
「さっきね」
「うん」
「小さい頃の俺が夢に出てきたの」
「何してたの?」
「泣いてた」
「なんで?」
「「俺のお父さんとお母さんはいつ迎えにきてくれるの?」って」
「…そ」
「今はちゃんとわかってるよ。迎えにきてはくれないし、会いにきてくれることもないって。でも、たまに苦しくなる」
「うん」
「家族ってものを知ってたら、こんな風に突然寂しくなったり、悲しくなったりすることは無かったんじゃないかなって」
ふっかは静かに「うん」と相槌を打ちながら、俺の頭を軽くポンポンと撫でた。
俺が話す時は、いつもそうしてくれる。
どうして撫でてくれるのか、そこについて、ふっかの真意は今もずっと分からないし、尋ねたこともなかったが、すごく落ち着いた気持ちになれることだけは確かだった。
ふっかとこうして時間を過ごすようになったのは、俺がこの屋敷に来てからすぐのことだった。
夢で見た通りだが、俺は幼児期から青年期にかけてを児童養護施設で過ごした。
同じ年くらいの子、10歳くらい歳の離れた赤ちゃん、もうすぐ大人になりそうな年上の人、いろんな年齢の子供と毎日一緒に暮らしていた。
先生はみんな優しい人たちばかりで、そこでの生活に不満を抱いたことは無かった。
唯一気になることがあるとすれば、それは俺の両親はどうやって俺をここに連れてきたのか、ということくらいだった。
その部分について、俺はなんの記憶も持っていなかった。
だから先生に尋ねてみたことがある。
ベテランそうな、そう、俺が今の翔太の歳よりも、もっと小さい時からその施設で働いていた先生に。
先生は優しい口調で、懐かしむように話した。
「照くんはね、0歳だった赤ちゃんの頃にここに来たのよ。今もだけれど、あの時の照くんは本当に可愛くてね、よく寝て、よく食べて、元気な子だって先生すぐに分かったわ」
「そうだったんだ…」
俺が悲しまないようにと、先生が無理に明るく話してくれていることは、子供ながらにも分かった。それでも、心の中には、寒々しくて見ただけで寂しくなるような色が広がっていくような心地がした。
そんな俺の気持ちに気付いていたのか、先生は突然座っていた椅子から立ち上がり、大きな声を出そうと深く息を吸い込んで言った。
「だからほら、照くんはこんなに大きくなった!」
そう言うと、先生は俺の脇腹を勢いよくくすぐった。
「あははっ、やめてよ先生」
「好きだったでしょ?いつでもこうすると、照くんは笑ってくれたじゃない、とっても可愛い笑顔で」
「それは子供の頃の話でしょ!俺もう16になるんだよ!」
「ほんとあっという間ね。もうすぐお別れなんて寂しいわ」
「うん。俺もみんなと離れるのは寂しい。でも、自分で決めたことだから」
「ここからずっと照くんのこと思ってるわ。私だけじゃない、みんなそうよ」
「うん、ありがとう」
高校を卒業して就職先が見つかると、一人暮らしや上京のために施設を出る、という定番の流れがこの施設の中にはあったが、俺はそれをする気がなかった。
今すぐにでも働いて、お金を貯めて、両親を探す旅に出ようと思っていたのだ。
だから、施設を出る前に、両親を探す手掛かりになりそうなことを聞いておこうと、先生に尋ねたというわけだった。
結局、先生も施設の前に俺がいた、と言うことしか知らなかったようで、収穫としてはこの旅の果てしなさを感じたことだけだった。
ただ、分かったこともある。
俺は0歳の時に両親と別れた。
俺の手元にあったのは、そのたった一つの情報だけだった。
しかし、今はそれで十分な気もしていた。
何もないページに、一行だけ文字が書き込まれたような感覚。
真っ白なノートに、黒い文字がいくつかだけ記されたような実感。
それは小さな充足感となって、俺の中に居場所を見つけては、ストンと居座った。
それから数日経って、遂に施設を出る日になった。
その前の晩には仲良くしてくれていた子が、木造の二段ベッドの上で小さなお別れ会を開いてくれた。
先生や友達に見送られながら、俺は僅かばかりの自分の持ち物が入った鞄を提げて歩き出した。
施設から少し離れたところにある商店街を目指した。
以前、街の中をぶらついていた時に見かけた張り紙に書かれた「バイト募集」の言葉と、電話番号をメモしておいて、施設から応募の電話をかけておいたのだ。
そのお店に向かう道中に佇んでいる巨大な屋敷の前を通り過ぎようとすると、突然その中から大きな音がした。
何かが壁にぶつかるような、そんな音だった。
あまりにも激しい音だったので、思わず足を止めてその大げさな門扉を潜った。
誰か怪我でもしているのではないかと容易に想像ができた俺は心配になり、ついでに不法侵入を通報されてしまうかもしれない不安を抱えながらも、壁にぶつかり続けているような音のする建物の方へ足を進めた。
日本家屋のような屋根のついたその建物から出て、そこと本館とを繋いでいる渡り廊下を歩く人の目をすり抜け、あたりに誰もいないことを確認してから、中へ入った。
畳張りのその部屋は、柔道や空手をするような部屋のように見えた。
その若草色の床に、ぐったりと横たわっている人影があった。
急いで駆け寄ると、その人、いや、その子は俺とそこまで年が変わらないことがわかった。
「大丈夫!?すごい怪我…どうしよう…」
「ぅ“…ぁ“………、んにゃ…?だれ?」
「あ、えっと…」
勢いで入ってきてしまったが、確かにこの子からすればいきなり知らない人が入ってきたら困惑するだろうな、と思った。
どう説明しようかと考えあぐねていると、俺の背後から声がした。
「お?佐久間、そいつ知り合い?」
勝手に入ったことを咎められるような気がして、思わず背筋が冷えた。
バッと後ろを振り返ると、先ほど渡り廊下を歩いていた人が戻ってきたようだった。
彼も俺とそこまで歳が変わらない子のように見えた。
今の今までぐったりと倒れていたピンク色の髪の毛をした子は、いつの間にかケロッと起き上がって、救急箱を抱えてこちらに歩み寄って来ている子へ返事をしていた。
「いんにゃ?知らない子。ちょっと気失ってて、目ぇ覚したら目の前にいた」
「ほーん。どちらさん?」
救急箱を開けて、手際よくピンク頭の頬へ消毒液を含ませたガーゼを当てながら、その子は俺にそう尋ねた。
「あ、外を歩いてたら大きな音がして、心配になって見に来たの。勝手に入ってごめん…」
「あー、そういうこと。逆にこっちがごめんなー。これ結構音すんだね。気を付けないとな」
「そうだそうだー。ふっか、もっと手加減してよー」
「いや、それとこれとは話が別」
「けちー」
「なんとでも言え。ここで働くって決めたのはお前なんだからな」
二人は小気味良い会話を交わしながら、手当する・されるの役割に淡々と身を投じていた。
俺はその光景をぼーっと眺めていたが、面接に行かなければいけないことを思い出して、勢いよく立ち上がった。
「俺、バイトの面接行かないと!!」
「バイトぉ?どこよ」
「商店街にある電気屋さん」
「あそこか。おっちゃん今日いたかなぁ…?…何時から?」
「あ。時間過ぎてた…やば…終わった…謝りに行こう…」
興味の惹かれるままに足を運んだがために、面接の時間に遅れてしまったことにしょぼくれながら、「お邪魔しました…」と小さく溢してその場を後にした。
走って商店街の中にある電気屋さんに向かうと、その店のガラス戸には張り紙が貼られていた。
「臨時休業」
とだけ書かれているペラペラのチラシの裏紙を見て、愕然とした。
「えぇー!?」
思わずそう反応すると、また背後から先ほど聞いたばかりの声が聞こえた。
「あー、やっぱねー」
「あ」
「ここのおっちゃん、ちょこちょこ店休むんだよ」
「どうしてここに?」
「お前に今日その店多分休みだよって言おうと思ったら、走って行っちゃうから追っかけて来たんだよ」
「どうして休みだって知ってたの?」
「ここのみんなには世話になってるからね」
「ふーん」
「まぁ、今日はどっちみち面接は無理だろうし、家帰ったら?」
「…」
勢いよく施設を出たはいいものの、家のことまでは考えていなかった。
お金はないし、歳で言えばまだまだ子供だ。
雨風を凌げる家を借りることはまず無理だろう。
黙りこくって今日寝る場所について一生懸命考え込んでいると、目の前にいた子は、沈黙する俺を見ながら、
「……お前もかよ」
と言った。
それがふっかと初めて出会った時の話だ。
結局その日はふっかと、ピンク頭の佐久間が住んでいる家に泊まらせてもらって、次の日にふっかと一緒に電気屋さんへ行った。
店主のおじさんは俺に何度も謝っていた。
昨日突然お店が休みになったこともだが、バイト募集のことについて、首が折れてしまうんじゃないかというくらいに、俺に向かって何度も頭を下に落ち込ませていた。
というのも、その張り紙をしたのも、俺と電話をしたのも、そのおじさんの奥さんだったそうだ。
おじさんが一人で切り盛りをしているのを心配して、奥さんは募集を出したらしい。
しかし、おじさんとしては大変でもやりがいはあるし、何よりも人を雇うほどの余裕は無いから、この話は見送ってくれないかと、何度も謝られたというわけだった。
お詫びにと商品券や割引券を束でもらったが、特に今は使う出番が無いように思えた。
何かを買っても、それをしまう場所ーー家がないのだから。
電気屋さんを後にして商店街をトボトボと歩いていると、俺の隣を歩いていたふっかが思いついたように「なぁ」と俺に声を掛けた。
「なに?」
「今日も泊まってく?」
「でも…」
「佐久間っていただろ?ピンク頭の」
「うん」
「あいつも、家無し仕事なしの状態で家飛び出して来たんだよ。お前と会う一年前くらいかな」
「そうなの?」
「お前もそうする?」
「…でも、申し訳ないよ」
「実は昨日のうちに許可はもらってんだよね。あとはお前の気持ち次第」
「許可?誰に?」
「若」
今思うと、よく分からないスカウトだった。
どうしてふっかが俺を誘ってくれたのか、どうして若ーー今の親父が俺を受け入れてくれたのか、それはいまだに謎に包まれたままだ。
不思議な出会いは、今もなお不思議な生活を俺にもたらし続けている。
なんだかんだ言っても居心地が良くて、いつまでもこの屋敷に身を置き続けているうちに仲間がたくさん増えていった。
ほとんどはふっかが声を掛けたり、どこかから連れてきたりした子達ばかりだった。
みんな気のいい奴らばかりで、気付けば施設にいた頃に感じていた寂しさを抱くことも少なくなっていった。
だが、いまだに何かきっかけがあると、俺の中にある思考のスイッチが押されたみたいに悲しみや怯えにも似たような、グラグラと落ち着かない気持ちが湧き上がってくる。
その度に、俺はふっかのところに行った。
あれは、まだ屋敷にふっかと佐久間しかいなかった頃の話だ。みんなでカップラーメンを食べながら大家族の特集番組を見ていた時のことだった。
俺たちは誰も料理を作れないので、毎日電子レンジやお湯を注ぐだけで食べられるものを食べていた。人工的な味付けに慣れた頃、康二がこの屋敷に来てくれた。
久々に人の手で作られたものを口にした瞬間、その暖かさに俺とふっかと佐久間は、目に涙を滲ませて、初対面の康二を困惑させたことも今となってはいい思い出だ。
余談はそれくらいにしておくが、その日、俺たちはその大家族の特集番組を三人でぼーっと見ていた。しばらくすると、不意に佐久間が口を開いた。
「こんな平和な家族、ホントにいんのかな」
その口調は、まるで口に入ってしまった砂利でも吐き出すかのようで、嫌悪感が多量に含まれているように聞こえた。
佐久間も家を飛び出したというが、何があったのかを詳しく聞いたことはなかった。ただ、佐久間が親という存在、大人というものに対して、怒っているような感情を見せるような瞬間は、これまでにも何度かあった。
俺も俺で、その番組に対して思うところはあった。
子供が楽しそうに遊んだり勉強をしたり、進路や就職のことで悩む場面。
その両親が子供の晴れ舞台に喜んだり、一世一代の大イベントに自身の時間も心も何もかも全てをかけて一緒に向き合っていったりする場面。
俺が持てなかったものが、そのテレビの中にあった。
煮詰まったような幸せが、俺の目を介して心を抉った。
ずっと夢に見ていた、もう永遠に手に入れることはできないであろう光景がそこにはあって、瞬間的に激しい憧憬の念に囚われた。
その日の夜、俺はふっかの部屋に行った。
一人ではいられそうになかったから。
部屋を隔てた襖の外側から「ふっか…」と弱々しく声をかけると、ふっかは俺が来ることを知っていたかのように「あいよー、入っといでー」と返事をした。
寂しさのままにふっかの部屋まで来たが、俺は自分自身が何をしたいのかが分からなかった。
話をしたいのか、ただ誰かのそばにいたいのか、頭の中で考えて書いては、何度もそのページを破った。
ビリビリになったノートを想像で思い描いていると、ふっかは徐に両手を俺に向けて広げた。
「くる?」
その目が、その声が、その腕が、言葉では言い表せないほどに優しくて、俺は詰まる喉を抑えてふっかの中に飛び込んだ。
何も言っていないし、生い立ちについて話したこともなかったのに、ふっかは全てを分かっているかのように、俺が求めているものを静かに与えてくれた。
いや、少し違う。
俺が求めているものには、形も色も何もない。
何も持っていない俺には、何が欲しいのかが分からないのだ。
ただ俺の中にあるのは、得体の知れない不安だけ。
ふっかは、それを治めて穏やかにしてくれる。
どんな方法を使っているのかは分からない。
でも、ふっかの腕の中にいると自然と自分の気持ちが大人しくなる。
気持ちが治ったあとは少し気恥ずかしくて、どうしてふっかといると落ち着けるのかについてゆっくりと話したことはなかった。
「ありがと」と一言だけ言って、そそくさと自分の部屋に逃げ帰る、というのがいつの間にかルーティーンになっていた。
そんな暮らしは今も続いていて、自分の気持ちが不安定になった時は、こうしてふっかの部屋に行く。
いつからか、この時間が来るとふっかは悲しそうな顔をするようになった。
でも、どうしてそんなに寂しそうに微笑むのかは分からなかったし、ふっか自身も何も言わなかった。
今日も今日とてふっかに話を聞いてもらって、ある程度気持ちが落ち着いたところで、ふぅ、とため息をついてから起き上がった。
「ありがと」
「ん、落ち着いた?」
「うん」
「ならよかった。明日も現場早いんだからもう寝ろよー」
「うん、おやすみ」
「……」
「ん?ふっか?」
「…ぁ、いや、なんでもねぇよ」
「?そう。じゃあ、ありがと。おやすみ」
「んー、おやすみー」
考え込むように斜め下を向くふっかの様子が少し気になったが、次の瞬間にはいつも通りに戻っていて、俺が感じた違和感は気のせいだったのかも知れないと思考を切り替えてふっかの部屋を後にした。
「頭、この木材はあそこに積んだらいいすか?」
「うん。大丈夫。腰の高さ以上は積まないでね。危ないから」
「うす」
今建てている一軒家の出来具合を見ながら、今日はどこまでできるだろうかと考えながらバインダーを左手に抱え、右手でボールペンをくるくると回した。
俺に確認を取りながらみんなが使うための資材を運んでくれている子は、先日佐久間がどこからか連れて来た子だった。
大方、阿部絡みで何かしらこの子が、目黒と佐久間の逆鱗に触れたんだろうとは思っていたが、その予想は見事に的中していた。
気絶したこの子を車で社員寮まで連れていくと、彼は目を覚ました瞬間に先ほどまで自分が何をしていたのかを捲し立てた。
根は素直なようで、阿部に向かって突っ込んで行った瞬間に自分の後頭部に走った衝撃に、心底感動していた。
どうしたらあんなに強くなれるのかと、あんな強い人たちに守られているあの人は何者なんだと、俺に矢継ぎ早に質問した。
俺は内心辟易しながら、その子の財布に入っていた身分証をひったくって社員名簿を作成した。どうやら今は18歳なようだ。
まだ未成年ということもあり、予防線を張っておきたかった俺はその子の両親にここで働くことについて許可を取ってもらうように言った。
その子はスマホで母親に電話をすると、興奮気味に宮舘組の“月”で働くことになったと話した。
その子が耳を当てているスピーカー越しに、その子に負けないくらいの母親の黄色い声が聞こえてきた。
その様子では、おそらく入社は確定だろうと思った。
いつかあの人たちに修行してもらいたい、だからなんでもする、とその子の言うことを話半分に聞きながら入社の手続きを進めた。
この手続きを端折るとラウールがうるさいのだ。
今は労働基準法がどうたらだとか、監査がなんだとか言って甲高い声で喚くので、大人しく必要な書類を作って、控えておかなければいけない公的資料のコピーを取った。
最後に、銀行口座は持っているかとその子に尋ねると、その子はニカっと笑って、
「はい!俺のお年玉入ってる口座あります!」
と答えた。
なんで毎日のように喧嘩ばかりするような不良をやっていたんだ?と言うくらいにいい子だった。
その後も大変だった。
彼が電話を終えた10分後くらいに、その子の母親が事務所までやって来たのだ。
大仰な手土産を持って。
「本当にありがとうございます。こんなバカ息子を雇ってくださって…いつまで経っても仕事も探さないしで、心配だらけだったんです…。」
「あの、、お母さん、そんな…頭上げてください…困ったなぁ…」
「毎日どこかで喧嘩ばっかりしてたらしいので体だけは丈夫だと思います。お役に立てるかどうか…。どうかうちこの子をよろしくお願いします」
お母さんというものは偉大だと思った。
人によるとは思うが、いつだって自分の子供のことを考えるような人もいるんだなと感じては、この時ばかりは素直に心が温かくなった。
親子揃って興奮すると捲し立てる癖を持っているようで、結局その子のお母さんは、散々自分の息子について俺に一方的に話し続け、一時間後にやっと家に帰って行った。
その次の日から今に至るまで、その子は真面目に元気よく働き続けている。
今はまだ工具を握らせてはいないが、毎日一生懸命に資材を運んでは、前からここで働いている幅広い年齢層の人たちから可愛がられている。
俺がふっかにしてもらったように、俺もこの子に居場所を作ることができたのかも知れないと思ったが、それは少し烏滸がましいことなのかもしれないとも思った。
その子にはここ以外にも居場所があるのだから。
まぁ、なんにせよ、平和に暮らせることが一番良いことではあるから、深く考え込んでも仕方ないような気もした。
日が落ちる前に後片付けを始めて、今日の作業を終わりにしようとみんなに声をかけた。
「疲れた」「今日も頑張った」と達成感に満ちた声が、足場が組まれた隙間だらけの、家とはまだ呼べないような空間の中に幾重にも重なっていた。
お昼に食べて空になった弁当箱を車に積んで、みんなの車が社員寮の方へ向かって走り出したのを見送ってから俺も帰宅した。
屋敷の門を潜ってすぐのところに車を止めて、今日のみんなの勤務時間をメモしてから車を降りた。
玄関の扉を開けるとガラガラと音が鳴った。
それを聞きつけた翔太が、坊を抱き抱えながら出迎えてくれた。
「照、おかえり」
「ゅー!」
「翔太、坊ちゃん、ただいま」
「ごはん、もうできるって」
「ありがとう」
軽い会話を交わした後、台所で弁当箱をバラして泡をつけて洗っていった。
3色の細長い具材を炒める康二は、フライパンを軽々と返しながら「おかえりー!」
と元気よく挨拶をしてくれた。
シンクのそばには、俺が少し前に作った踏み台がちょこんと置かれていた。
それを眺めていると、康二が後ろから俺に話しかけた。
「それ、お気に入りらしいで?」
「そうなの?ならよかった」
「使いたくってしゃあないんやあろうな。毎日寝る前にコップ洗ってから寝てるわ」
「可愛いとこあんじゃん」
「ほんまにな。口は素直やないけどな」
「そういうとこが翔太のいいとこなのかもね」
「せやな。あ、照兄、ついでにこれ持ってって!」
弁当箱を洗い終わって手を拭いていると、炒め終わった今日のおかずがどっさりと乗った皿を渡された。
「今日も青椒肉絲か…(いつもありがとう)」
「照兄、多分やけど、思っとることと言うてること逆やで」
夜ご飯を食べ終わった後はお風呂に入るが、 今日はいつもと少し違う。
「涼太見て。ぶくぶくしてる」
「ぁきゃきゃ!」
一週間に一回回ってくる、翔太と坊ちゃんとお風呂に入る当番の日が今日だったのだ。
ハンドタオルを湯船に浮かべて、お湯の中からタオルの真ん中を少し浮かせると空気が入る。端をキュッと掴んで風船状になったタオルを、もう一度お湯の中に沈めると水泡が出てくる。
施設にいた頃に覚えた遊びを教えてあげると、翔太も坊ちゃんも夢中になってタオルに空気を入れては泡を出してを繰り返していた。
二人がのぼせてしまわないように様子を見ながら湯船に浸かり続けていたが、ふと、いつか翔太に聞いてみたかったことを聞いてみようと思った。
他のみんながいる前ではなんだか切り出せなかったし、翔太にとってこの質問をすることで、どんな気持ちにさせてしまうかが想像できなくて、ずっと後回しにしていたのだ。
不安を抱えた状態で口籠もりながらも、思い切って翔太に声をかけた。
「ねぇ翔太」
「なに?」
「翔太は自分の本当の家族に会いたいって思うことある?」
「ない」
翔太の物言いはとてもはっきりしていた。
清々しいほどの言いように、俺は拍子抜けしてしまった。
悲しい気持ちにさせてしまったらどうしようとか、辛い記憶を思い出させてしまったらどうしようとか、そんな心配など必要ないと言われているような気がした。
翔太の返答に驚きながらも、次なる質問をした。
「どうして?」
「覚えてないから」
「お母さんのことも?」
「うん。いつも髪の毛がボサボサで顔が見えなかったからもう忘れた」
「お父さんのことは?」
「知らない。多分会ったことない」
「そっか…。覚えてなくても一回は会ってみたいって思ったりしないの?」
「うん」
冷たい、そうは感じなかった。
愛想を尽かしているわけではない。
本当に興味がないのだろうと思った。
それでいいと俺は思う。
自分を大切にしてくれる人だけを大切にすればいい。
自分のことを大切にしてくれない人を大切にしようとしたって、どこにも昇華できない寂しさを抱えるだけだと思うから。
俺は、最後に残っていた聞きたいことを、そのまま翔太に投げかけた。
「どうしてそう思わないの?家族なのに」
翔太は、タオルからぶくぶくと浮かび上がる水泡を一心に見つめながら答えた。
「みんながいるから。みんなが家族なんじゃない?」
自室に戻り、広げた布団の上に寝転がって考えた。
家族ってなんなんだろう、と。
血の繋がり、というものは確かに大切だ。
切っても切れないものだからこそ、本来であればいつだって側にいてお互いをかけがえのない存在と認識することができる。
ただ、その繋がりを知らない者からすれば、それは二の次になることなのかもしれない。
いつか、会ってみたいとは思う。
でも、それはもう必要ない、そんな気もしていた。
翔太の言う通り、いつの間にか俺の周りは、血縁以上に濃くて離れ難い存在ばかりで溢れていた。
朝起きて、“月”の子たちと仕事をして、屋敷に帰ればみんなで康二が作ったご飯を食べて、翔太と坊ちゃんと遊んで。
そんなありふれた毎日を過ごせることが、今はとても幸せだった。
誰一人だって欠けてほしくはないし、みんな以外とはこの生活を送っても物足りないと感じそうな予感があった。
それだけで、俺が俺の中でみんなを「家族」だと思っている十分な証拠になるのではないだろうか。
この発見に嬉しくなって、俺はふっかの部屋へ急ぎ足で向かった。
「ふっか、ふっか」
「〜〜」
ふっかの部屋の外側で声を掛けると、中からふっかの話し声がした。
相手の声は聞こえてこないので、恐らく誰かと電話をしているのだろうと思った。
親しげに言葉を交わしているようで、時折軽快な笑い声が聞こえてくる。
親父ではないな、そう直感した。
であれば、誰なのだろう。
今まで気にも留めていなかったが、ふっかにももちろん俺たち以外の誰かとの交流はあるだろう。
ただ、どうしてか、その疑問は俺の心に、深くいつまでも晴れないような靄をかけた。
自惚れかもしれないが、誰よりもふっかとは親しいと思っていたからこそ、余計だった。
電話の先にいる人は誰なのか。
ふっかとはどんな関係なのか。
いつからの知り合いなのか。
そんなことを無限に考え込んでいる自分がいると気付いた時、今までに感じていた不安とは別のそれが次々に溢れ出して、地面が揺れた気がした。
ふっかと会うことはやめにして、そのまま翔太達のいる坊ちゃんの部屋へ向かった。
中に入ると、翔太が坊ちゃんに絵本を読んでいた。
翔太の横に座って、坊ちゃんと一緒に読み聞かせをしてもらっていると、その中にあった一文に目を奪われた。それは決して、今の俺にとって他人事では無いように思えた。
「いじわるな姉は、王子様のことがとても好きだったので、シンデレラにやきもちを焼きました」
やきもち。
…俺が?
ふっかの知り合いに?
まさか。
そうは思っても、その言葉から目が離せなかった。
絵本に縦書きで記されたその四文字を凝視していると、不意に静かになった気がして翔太の方に目をやった。
翔太も俺を見上げていた。
「ん?どうした?」
「照、やきもちってなに?」
「んー、その人のことが好きだからとか、大切だからとかで独り占めしたいって思う気持ちのこと……か、な………」
翔太に説明しておきながら、なんだか俺自身が教えてもらったような気分だった。
全てのピースがはまる。
真っ白だったノートに急速に黒いボールペンでたくさんの文字が書き記されていく。
俺自身の今の気持ち、今までに浮かんだ漠然とした疑問に対する答え、その答えが運んできた新しい発見、そんなもので溢れたノートは、その文字の分だけずっしりとした重みを持ったような感覚が確かにあった。
気付いた。翔太がいなければ、きっと考え付きもしなかっただろう。
ふっかといると気持ちが落ち着く理由も。
俺の知らない人とふっかとの間にある繋がりに対して心を曇らせた感情も。
ぶわぁぁあ。
そんな音が鳴ったような気がしてくるくらい、顔に一気に熱が溜まっていく。
あつい。
それ以外、なにも考えられそうになかった。
「照、どうして顔赤いの?またお風呂入ったの?」
「あー、うん、そんな感じ」
「いいな。俺もお風呂入りたい」
「また明日ね。そうだ。今度一緒に入るときは泡風呂にしようか」
「あわ?今日のぶくぶく?」
「ううん。もこもこしてる泡」
「ふーん」
興味のなさそうな声の割に、翔太の口は、にまにまと緩んでいるように見えた。
康二の言う通り、言葉は素直じゃない。
でも、そこが翔太の可愛いところだ。
読み終わった絵本を枕元に置いて、翔太は既に眠ってしまっていた坊ちゃんをゆっくりと布団に寝かせてから、自身も布団の中に潜り込んだ。
先日のハロウィンでラウールからもらったお化けのポンチョと毛布に首までくるまりながら、ゆっくりと目を閉じた。
「おやすみ」
そう声をかけてから、電気の紐を二回引っ張ってオレンジ色の小さな電球を灯した。
くすんだ橙の灯りが、寄り添いあって眠る二人の横顔をほのかに照らしていた。
屋敷の一番奥にあるその部屋を出て、自室まで続いている長い廊下を歩きながら、俺は静かに頭の中にある思考のスイッチを押して、やっと文字が詰まってきたノートを開いた。そんなイメージを頭に描きながら次のページを捲り、一人静かに呟いた。
「これからどうしようかな…」
続
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わー!!夫婦が始まるー!!嬉しいです✨✨

初コメです!三文小説さんのお話いつも繰り返し読んでます!今回のお話もすごい素敵でした。応援してます!