ぽかぽかと暖かい陽だまりに包まれながら、お昼ご飯を済ませた後の程よい眠気と戦っていると、左隣のデスクから遠慮がちに僕を呼ぶ声が聞こえてきた。
それは丁度、レシートの束を七つに分けていた矢先のことであった。
ツヤツヤな感熱紙の表面を親指の腹で軽く擦りながら、「なぁに?」と返事をして、その方を見やると、声の主の手は業務中であるにも関わらず、珍しく作業とは呼べない動きをしていた。
俯き、両手の人差し指と親指でボールペンを何度もクルクルとこねくり回しては、薄く開いた口を閉じて、また小さくそれを開けてを繰り返している。
呼びかけに対して返事はしたが、僕を呼んだ当の本人が黙りこくってしまっている状況に困惑しつつ、相手が話を切り出すのを待った。
しばしの沈黙と逡巡の末、ようやく絞り出された声を耳にした後、僕はその質問に首を傾げるばかりだった。
「初デートって、、どこ行った…?」
「…どうしたのいきなり」
質問の答えにはなっていないことは百も承知だったが、仕事中にこんなことを聞かれたのは初めてだったし、ましてや普段誰よりも真面目に働く人からそんなことを聞かれたのだから、少しは戸惑わせて欲しかった。
決して答えるのに頭を悩ませるような質問ではなかったが、この問題の出題者は未だ指の先でボールペンと戯れていた。
そして時折、こちらの様子を伺うようにチラチラと上目を遣っては、僕に視線を合わせてくる。
不安げに揺れる瞳、下がった眉、すぼめた肩、「困っています」と雄弁に語るように小さく山の形を作った唇。
「守ってあげたくなる」と、この身の全てで思わせられるようなその仕草は計算か、はたまた天然のものか。
今はひとまず、この状況を一言でまとめておこう。ここは佐久間くんの言葉を借りることにする。
どうやら僕の上司は、「あざとい」らしい。
「ちょっと、今、困ってて…」
困惑していた僕への説明が足りないと感じたのか、僕の上司ーー阿部ちゃんは、そう切り出してから事の顛末を話してくれた。
阿部ちゃんの話はこうだ。
めめと佐久間くんからデートに誘われたという。
しかし、二人の行きたい場所のジャンルがあまりにもかけ離れていたことと、一日ではどちらも回り切ることが難しいであろうことから、かなりの時間を要して「初デートはどこに行くか」についての会議が行われたそうだ。
しかし、その甲斐は虚しかったと阿部ちゃんは嘆いた。
結局、いつまで経っても二人は譲らず、ついに痺れを切らした阿部ちゃんは「そんなことで喧嘩するならどこにも行かない!」といつもの如く二人を叱って、部屋を飛び出したという。
それが昨日の夜の話らしい。
一晩置いて怒りが収まった阿部ちゃんは、「流石に言い過ぎた」と二人に少しの申し訳なささを感じて謝ろうと決意したという。
しかし、ただ謝るだけでは根本の問題は解決しないので、三人とも楽しめる場所を一つでも用意した上で話を切り出したいそうだ。
ただ、ここが問題だったらしい。
「どこに行ったらいいか分からない」
苦しそうに溢した後、阿部ちゃんはデスクに突っ伏した。
僕は「ふむ…」と、考え込むようなため息を大袈裟に吐いてから、まずは一番最初の質問に答えることにした。
「初デートは写真展と電気屋さんに行ったよ」
「そうだったんだ。写真ってことは、康二が行きたい場所?」
「うん、康二くんが「この写真展行きたい!明日までやねん!」ってすごい焦ったように言うもんだから、どこに行こうかーって、ゆっくり二人で話し合う暇もなかったんだよね」
「へー、ラウールは楽しめた?」
「うん!とっても楽しかったよ!僕、写真って最初、全然興味なかったんだけど、一つ一つゆっくり見て行ったらなんだかすごく綺麗だなって、こんな風に撮ることもできるんだって知って、興味湧いちゃったの」
「うんうん」
「それで僕も写真撮ってみたくなったから、大きな電気屋さんに一緒に行ってもらったの」
「買ったの!?」
「買ったって言っても、そんな高いものは買えないし、康二くんみたいに毎日お手入れできるかどうか、自分と約束できなさそうだったから、撮った瞬間写真が出てくるのを買ったの」
「あ…だからあの頃ずっと写真撮ってたのか」
「そうそう!その日からしばらくの間、夢中になってみんなのこと撮って、写真渡してたのはそれが理由!」
阿部ちゃんは納得したように大きく頷くと、デスクの引き出しから小さなカードのようなものを取り出した。裏面は光沢のある黒いプラスティックの材質をしている。
世間では「チェキ」と呼ばれているものである。
それは、何年も前に僕が撮影したもので、阿部ちゃんの手には4枚ほどの写真が握られていた。
懐かしむように「過去」を眺めながら、阿部ちゃんは話を続けた。
「じゃあだいぶ前から付き合ってたんだね。ほんとに気付かなかったよ」
「あははー、この間はうっかり口が滑っちゃった」
「きっかけはなんだったの?」
「ん?」
「だから、康二と付き合うようになったきっかけ」
「別に普通だし、特別なことはないよ?」
「いいじゃん」
視線を手のひらの上のチェキからまた僕の方に戻すと、阿部ちゃんは悪戯っ子のように微笑んだ。
「教えてよ、先輩?」
「うわぁ…」
生憎僕のタイプではないので、その計算なのか天然なのか、どちらとも判別がつかないあざとさを前にしてもどうということはなかった。
むしろ、30を超えた成人男性でそんな仕草がいちいち絵になるというか、様になることに、妙な感動を覚えた程度だった。
だからどうというわけではないが、どうかこの屋敷の女王様の、こんな表情を独り占めしてしまっているこの状況については目を瞑っていてほしい。
心の中で拝むように手を合わせて、今はここにいない、あの等身大小学生二人の姿を思い浮かべながら、僕はこの屋敷に来たばかりの頃まで、自身の記憶を遡らせていった。
「ラウールです!よろしくお願いしまーす!」
この屋敷に来た初日の僕は、かなり張り切っていた。
今までずっと、ここで働くことを夢見てきたからだ。
僕がそう思うようになったきっかけについても簡単に話しておこうと思う。
順を追わなければうまく説明できないような気がするのだ。回りくどいかもしれないだろうが、どうか勘弁してほしい。
僕はずっと、何不自由なく生きてきた。
両親は幼い頃に亡くなってしまったが、母方のおばあちゃんとの二人暮らしはいつだってのんびりしていて、ごく平凡なものだった。
そんな生活に転機が訪れたのは、僕が中学生の頃のことだ。
いつも通り学校から帰るとすぐに、通学カバンを玄関に放り投げて友達と商店街まで遊びに行った。
駄菓子屋さんでお菓子を買ってから、近くにあった公園でそれを食べて、追いかけっことボール遊びをしているうちに日が暮れて、家に帰る時間になった。
家に帰る途中、商店街の並びにある電気屋さんの前で、突然友達の足が止まった。
「これ、かっこいいな」
そう言って友達が見つめていたのは、どこにでもあるような音楽プレーヤーだった。
値札の数字は六つもあり、当時の僕たちのお小遣いでは到底買えそうに無かった。
友達の言うことには僕も同感だったので、素直に「そうだね」と返した。
いつまで経ってもお店の前から動かない友達に「もう暗くなるから帰ろう」と声をかけたが、「うん…」と心ここに在らずな返事が返ってくるだけで、僕は次第に捉えようのない不安に襲われた。
友達の目も心も、その音楽プレーヤーの中に引き摺り込まれてしまうのではないかと、そんな気がした。
その魔物とも呼べるであろう小さい鉄の塊から逃げるようにして、彼の腕を無理やり引っ張って歩いた。
友達の視線は、僕に腕を引かれている間もずっと、その電気屋さんの方を向いていた。
友達と別れて家に帰った後、おばあちゃんが作ってくれたご飯を食べながら、僕は今日の出来事についておおよそのところだけをなぞって質問した。
「ねぇ、おばあちゃん。周りが見えなくなっちゃうほど欲しくなっちゃうものってある?」
これまでの人生の中で、我を忘れるほど欲しいものに出会ったことはなく、友達の気持ちが分からなかったからだ。
おばあちゃんは、食べていた煮物を飲み込んでから少し上を向いて答えてくれた。
「そうさねぇ…。そういうものは、自分の身の丈に合った時に、自ずと向こうから やってくるものさ」
「ふーん…。どうしても欲しい時には手に入らないの?」
「そういう時は、誰しも盲目になる。自分にとって本当に必要なものか、そうじゃないか、選ぶ前にちゃんと考えることが大切だよ。いいかい?」
「はーい」
おばあちゃんの言うことは、分かるような分からないような、しかしじんわりと体に染み込んでいくような心地がした。あの友達もそれに気付ける日が来たらいいな、と思いながら僕も煮物を口に運んだ。
次の日も、学校終わりにその子と商店街の方へ遊びに行った。
今日は駄菓子も買わずに、友達は一直線にあの電気屋さんの中に入って行った。
「何か買うの?」
そう聞いても、友達は何も答えなかった。
友達は突然、昨日じっと見つめていたあの音楽プレーヤーが入った箱を一つ手に取って、お店の奥へと足を進めた。
「ねぇ、どうしたの?それ、どうするの?」
「俺、どうしても欲しいんだよ」
「え、でも、、お金持ってるの…?」
「無い。けど、こうすればいい」
そう言うと、その子は小さな箱を手に持っていた袋に入れようとした。
なんとなく、それがいけないことであるということは分かっていた。
しかし、 何も言えなかった。
咎めることでその子が僕から離れて行ってしまうかもしれないと思ったら、怖くなった。
その子は僕と仲良くしてくれていた、たった一人の友達だったから。
「やめようよ…、いつもみたいに公園に遊びに行こう…?」
当たり障りのない言葉を探して絞り出すようにそう伝えたが、ほぼ同時に僕の声に被さるように、レジの前あたりから聞こえたおじさんの大きな声が、それを掻き消した。
「こら!!お前たち何やってんだ!!!」
「ッやべ!逃げるぞ!」
「へっ!?」
友達は、袋に入れたその箱を僕に渡した後、すぐに店から出て、どこかへ走り去って行ってしまった。
おじさんは、取り残された僕の首根っこをぎゅっと掴んで離さなかった。
そんなことしなくても、僕は逃げないよ。
空っぽながらどこか落ち着いた頭でそんなことを思いながら、僕はその場に立っていた。
「僕は取ろうと思ってなかったです」
「じゃあ、隣にいた子がやろうって言ったのかい?」
「僕、あの子が何するつもりでここに入ったのかも知りませんでした」
「そう。でも、止めなかった君にも、少しは万引きしようって気持ちがあったんじゃないの?」
「止めようとしました、けど…」
「けど?」
「……っごめんなさい…。」
何に謝りたいのか、全く分からなかった。
目の前で腕を組み、怒りと困惑を示しているこのおじさんになのか、僕の弱い心のせいで悪者になってしまった友達になのか、僕に大切なことを教えてくれたおばあちゃんになのか。
それ以上は言葉が紡げなくなってしまって、僕はお店の奥にある部屋の中で、小さくなって俯き続けた。
頭上からは、数分おきにおじさんの困ったようなため息が聞こえていた。
僕、警察に捕まるのかな…。
おばあちゃん、今頃ご飯作って待っててくれてるだろうな…。
もう一緒に食べられないかもしれない…。
そんなことを考えていたら、涙が出てきた。
「泣きたいのはこっちだよ、困ったなぁ…。」
おじさんは僕が泣き出すと、今度は面倒がるようにため息をついた。
ずっしりとした重たい空気が流れていた丁度その時、それを断ち切るように、のんびりとした声が遠くから聞こえてきた。
「おーい、おっちゃんいるー?」
おじさんは、僕に「ちょっと待ってて」と言った後、その声の方に急いで向かって行った。
「あー、どうも!」
「よ、調子どうよ?」
「相変わらずですよ。あなた方のおかげで本来なら商売敵になるはずの、はす向かいの電気屋のばあちゃんとも仲良くやってますよ」
「そりゃ何よりだよ。今日も、まぁ…あんま乗り気で受け取るのもどうかと思うけど、みかじめ貰いに来た」
「あぁ、そうでしたね!ちょっと中で待っててください。ちょうど、貰い物の茶菓子があるんですよ。食べてってください」
「いつもありがとねー。じゃ遠慮なく邪魔するよー」
おじさんと誰かが話しているのをじっと聞いていると、その声は次第に近付いてきて、そのまま今僕が小さくなっている部屋まで到達した。
「お?君、おっちゃんの親戚の子?」
「ううん、違います…」
「元気ねぇな、子供は元気が一番だろ?」
「……ぁ…ぇっと…」
「あ、そうそう。深澤さん、ちょっと助けてくれませんか」
「ん?」
「その子、万引きしようとしたんですよ」
「そーなの?」
「えっと…僕は…止めようとしたけど…できなかったんです…ごめんなさい…」
「そう。モノは?」
「取られる前に捕まえられたんで被害は無いです。けど、全然喋ってくれないんですよ…。俺もこういうの初めてで、どうしたらいいか分からなくて…」
「深澤さん」と呼ばれた人は、頬杖をついておじさんからもらったお菓子を食べながら、僕を眺めていた。
派手な柄のシャツを着て、首にも指にもゴツゴツの金色のアクセサリーがはまっているその姿は、俗に言うチンピラのように見えた。
警察に捕まるよりも、もっと悪いことが起こるかもしれない。
そんな予感がして、僕はまた下を向いた。
まったりとした平凡な幸せにさよならを告げようとぎゅっと目を瞑って、深澤さんの言葉を待った。
しかし、次の瞬間耳に触れたその声は、とても優しかった。
「お前がそう言うんなら、そうなんだろうね」
「えっ…」
「深澤さん!ほっとくんですか!」
「まぁまぁ落ち着いて。カッカすんのも分かるけどさ、見てみ?こんなキレーな目してる子が、嘘なんか吐かないっしょ?」
「…まぁ、嘘を吐いてるようには見えませんでしたけど…」
「なら、この件はこれでおしまいってことで。もう帰んな?日ぃ暮れるよ。」
「はい…すみませんでした…」
「いいのいいの。モノは無事だし、おっちゃんもお前も、なんにも無かったってことで。じゃあまっすぐ帰れよー」
「はい…。さようなら」
捕まることも、殴られることも何も無く、僕は深澤さんに言われた通りに真っ直ぐ自分の家に帰った。
「遅かったね。どこ行ってたんだい?」
玄関まで出てきてくれたおばあちゃんに、僕は何も言えなかった。
「ちょっと…帰り道に迷っちゃったんだ…」
「…そうかい」
おばあちゃんは何かを察したようだったが、それ以上は何も言わなかった。
続
コメント
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わぁ……とっても綺麗なお話✨✨