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紫香楽
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昨夜、口の中で溶けた金平糖の甘さが、まだ胸の奥に淡く残っているような気がした。
あの方がくださった白木の小箱は、鏡台の隅、一番目立つ場所に大切に飾ってある。
早朝の薄暗い部屋で、窓から差し込むわずかな光を反射するその箱を眺めるだけで、身体の芯に温かな灯がともるようだった。
指先に残る木の滑らかな質感。
鼻をくすぐった煌様の清涼な香水の残り香。
時折それを思い出すだけで、慣れない立ち仕事で棒のようになった足の痛みも
夜の帝都を吹き抜ける冷たい夜風も、すべてが愛おしい試練のように変わっていくから不思議だ。
「……よし。今日は、これに挑戦してみよう」
夜明け前の鳳凰館の厨房は、まだ静まり返っている。
私は料理長に幾度も頭を下げて、特別に厨房の隅を借りた。
手元には、昨日からこっそりと用意していた貴重な材料。
卵に砂糖、そして細かく振るった真っ白な小麦粉。
最近、帝都に新しくできた西洋式のカフェーで流行っているという『西洋菓子』。
煌様はいつも私の作る素朴な和の煮物を喜んでくださるけれど、たまには趣向を変えて
この新しい時代の風を、異国の甘い驚きを感じてほしかった。
文字も満足に読めない私だが、馴染みの古本屋で挿絵入りのレシピを必死に読み解いた。
それは、今の私にできる精一杯の、背伸びをした贈り物だった。
「焦げないように、ゆっくり…」
炭の火加減を慎重に調整し、生地を蒸し焼きにする。
次第にふんわりと膨らみ始め、甘く香ばしい匂いが厨房の重たい空気を塗り替えていく。
この香りを嗅いだ瞬間
煌様のあの綺麗な鼻筋が驚きにぴくりと動き
瞳が丸くなる姿を想像して、自分でも気づかぬうちに頬が緩んでしまった。
「あ、雪。また何かつくってるのかい?」
不意に背後からかけられた声に、心臓が跳ね上がった。
振り返ると、同僚の給仕係である男性が、寝癖のついた頭を掻きながら不思議そうに覗き込んでいた。
「あ……おはようございます。ええ、ちょっと……新しい料理の試作です」
「ふーん。煌少佐への『献上品』ってわけだ。本当に熱心だねぇ、雪は。……でもさ」
彼は少しだけ声を落とし、どこか同情を含んだ、醒めた目で私を見た。
その視線は、浮ついた夢を見る私を現実に引き戻そうとする重りのようだった。
「あんまり入れあげない方がいいぜ。相手はあの『氷の少佐』だ。家柄も、背負ってるもんも、俺たちとは違いすぎる」
「この帝都じゃあ、身分の壁はガス灯の光でも照らせやしないんだからな。俺たちみたいな奉公人は、おこぼれを貰って満足してるのが一番幸せなんだ。分かってるだろ?」
彼に悪気がないのは分かっている。
むしろ、彼なりに私を傷つかせまいとする優しさなのだろう。
それがこの明治という時代の、変えようのない「正論」だった。
私は曖昧な笑みを浮かべて言葉を濁し
焼き上がったばかりの、まだ温かな黄金色の菓子を、宝物のように丁寧に紙で包んだ。
◆◇◆◇
その夜
煌様はいつものように三号室にいらした。
他の方々への給仕をすべて終え、一息ついた頃。
私は懐に忍ばせていた包みを、指先の震えを必死に抑えて差し出した。
「あ、あの…煌様!これ、もしよろしければ、お口直しに」
「これは…?」
「西洋の菓子を、私なりに真似て作ってみたんです」
煌様は、漆黒の軍服に包まれた逞しい腕を伸ばし、意外そうに眉を上げた。
カサリ、と紙が擦れる音。
包みが開かれると、湯気と共に甘い香りが部屋に広がる。
不恰好に膨らんだ黄金色のカステラのような菓子が、行灯の火に照らされて優しく輝いていた。
「……君が、わざわざ私のために?」
「はい。昨日の金平糖のお礼……と言っては烏滸がましいですが」
「ふっ…お礼をお礼で返してくるとはな」
煌様はそれを一切れ、大きな手でゆっくりと口に運んだ。
彼が咀嚼するたびに、その喉仏が静かに上下し
私の心臓も同じリズムで脈打つ。
美味しいだろうか。
口に合わなかったらどうしよう。
祈るような気持ちで、その美しい横顔を見つめた。
「……甘いな。だが、ひどく優しい味がする。心が洗われるようだ」
「ふふ、喜んでもらえたなら何よりです」
煌様はふっと目を細め、私の方を真っ直ぐに向き直った。
その瞳には、昨夜よりもずっと深い、沈殿するような熱を帯びた光が宿っている。
「…私の荒んだ心が、君の料理の前では驚くほど静かになる。……ずっと、こうしていたいと思うほどにだ。ありがとう、雪」
舞い上がるような心地だった。
彼の手が、私の頬に触れそうなほど近くまで伸びてくる。
指先の温もりが伝わってきそうで、心臓がうるさく鳴り響き、視界が白く霞んでしまいそうだった。
しかし──
廊下から響く、床を叩くような同僚の神代さんの鋭い足音が、その夢を無慈悲に切り裂いた。
「雪! いつまで三号室に居座っているの。次のお客様がお待ちよ。早く戻りなさい!」
氷水を浴びせられたように現実に引き戻された私は、慌てて深く頭を下げた。
煌様もまた、伸ばしかけた手を不自然に止めてスッと視線を逸らした。
一瞬にして、彼はいつもの厳格で冷徹な「少佐」の顔に戻ってしまう。
「……失礼いたしました」
逃げるように部屋を出た瞬間、待ち構えていた神代さんに手首を強く掴まれた。
人気のない廊下の隅へと引きずり込まれ、冷徹な低い声で釘を刺される。
「雪、あんた。いい加減にしなさいよ。煌様はね、近いうちに由緒正しき華族の令嬢とお見合いをされるっていう噂もあるお方なの。私たちとは住む世界の違う、太陽のようなお方なのよ!」
「えっ…お見合い……」
「あんたみたいな名もない給仕が、個人的に贈り物をしようなんて、身分不相応も甚だしいわ。客寄せの『看板娘』を勘違いしないで」
「これ以上あの方に執着して鳳凰館の泥を塗るなら、あんたの居場所はなくなるからね。自分の立ち位置を、よーく考えなさい」
神代さんの言葉が、毒の塗られた針のように胸の奥深くまで突き刺さる。
さっきまで私を満たしていた
温かな西洋菓子の余韻も、煌様の優しい眼差しも、一瞬で凍りついていくのを感じた。
身分不相応。
そんなことは、誰に言われずとも痛いほど分かっている。
雲の上のあの方と、その足元を這う私。
それでも、あの方の「美味い」という一言だけで
泥にまみれた毎日が宝石のように輝いて見えてしまうのだ。
私は、手に残ったわずかな甘い香りと
神代さんに掴まれた手首の熱さを握りしめ、暗い廊下で立ち尽くすしかなかった。
雪解けは、まだ遠い。
私の片想いは、誰にも言えない、言ってはいけない秘密。
ただ静かに、夜の闇に積もっていく新雪のように、胸の中に降り積もっていく。
いつかその重みで、自分が壊れてしまう日が来ることも知らずに───