テラーノベル
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神代さんに釘を刺されたあの日から、私の胸には常に薄く冷たい膜が張っているようだった。
『お見合い』
その四文字が、夜空に高く浮かぶ月よりも遠く
けれど鋭い棘を持って私の心に居座っている。
煌様は、いつか私ではない誰か
血筋も、教養も、立ち振る舞いもすべてが完璧に揃った
どこかのお姫様のような美しい令嬢と結ばれる。
それは、この明治という激動の世において
水が高いところから低い方へ流れるのと同じくらい、至極当然で逆らえない道理なのだ。
分かっている。
痛いほど分かっているけれど
お膳を運ぶ足取りが、どうしても以前より鉛のように重く感じられた。
「おい!こっちだ、酒が足りねえぞ!」
荒っぽい怒鳴り声が、一号室の宴席から響いた。
今夜の鳳凰館は、新興の商売で財を成したという成金風の商談客たちが集まり、ひどく騒がしかった。
煮え返るような熱気と、噎せ返るような安酒の匂い。
私は着物の裾を乱さないよう注意深く足元を運び
徳利を盆に乗せてその喧騒の中へと足を踏み入れた。
「失礼いたします。お酒をお持ちしました……」
「おっ、なかなかいい女じゃねえか。なあ、突っ立ってねえで酌をしてくれよ」
脂ぎった顔を赤く上気させた男が、どろりと濁った欲の混じった目で私を見上げた。
嫌な予感が背筋を駆け抜け、私はそっと視線を逸らして後ずさった。
「えっと…申し訳ございません。私は給仕ですので、お酌は……他の方にお願いいただけますでしょうか?」
「固いこと言うなよ。どうせ娼妓も呼べねえ寂しい宴なんだぜ?少しは楽しませてくれや」
男の腕が伸びてくる。
おら、こっちへ来いっつってんだ!」
男の太い指が、有無を言わさぬ力で私の手首を強引に掴んだ。
「や、やめてください……っ!放してください!」
咄嗟に振り払おうと力を込めたけれど、男の暴力的なまでの腕力には敵わず
「んだよ、お高く止まりやがって。たかが給仕の分際で、客の誘いを断るのか? ああ?!誰のおかげでこの店が回ってると思ってやがるんだ!」
怒号を浴びせられ、体が震える。
怖い。怖い怖い。
周囲の男たちも、それを肴にするように卑屈な笑い声を上げている。
脂ぎった男の太い指が私の腕を締め上げていく。
「へへ……逃げるんじゃないよ嬢ちゃん。こんな上玉を部屋の隅で埃かぶらせるなんて勿体ないぜ」
隣の禿頭の中年男がニヤリと歯茎を見せながら囃し立てる。
「おいおい旦那さん! いくら何でも強引すぎるってもんよ。ちゃんと順番決めなくちゃなぁ? 俺たち全員の相手してくれるんだろう?」
壁際にいる若い小太りの男まで悪ノリし始める。
「そうだそうだ! 商売の基本は持ちつ持たれつよぉ!」
「客にサービスするのが当たり前なんだからな!」
「ならこんな躾なってねぇ女は身体で分からせないとなぁ?」
突然の侮辱に思考が真っ白になる。
逃げ場を探すように視線を彷徨わせても、助けを求めて開いたままの襖の先を、廊下を見ても
忙しく立ち働く他の給仕たちは遠く、この喧騒にかき消されて気づかない。
恐怖で指先から血の気が引き、冷たく凍りついていく。
喉の奥が引き攣れて、叫び声さえ満足に出せない。
「おら! 暴れるなって!わざわざこんな田舎にまで来てやってんだ! 少しくらい遊ばせろよ!」
脂ぎった男の腕がさらに強く締まる。
痛みと恐怖で過呼吸になりかけた瞬間──
───ドォン、と。
衝撃波のような音を立てて、襖が左右に蹴り開けられた。
一瞬にして、部屋の騒がしさが凪いだ。
冬の夜気が流れ込んできたかのような、肌を刺す静寂。冷徹な威圧感が、土足で部屋を支配した。
そこには、廊下のガス灯を背負い、逆光の中で黒い影となって立つ、漆黒の軍服姿があった。
「……何をしている」
地を這うような、極めて低い声。
それは大声で怒鳴られるよりもずっと恐ろしく
剥き出しの殺意に心臓を直接鷲掴みにされるような感覚。
煌様だ。
軍帽の庇が深い影を作り
#シリアス
3,184
紫香楽
その奥で光る瞳は、いつも私に見せてくれる柔らかな慈しみなど微塵もなかった。
ただ冷徹に、獲物の喉元を狙い定める飢えた獣のように鋭く、鋭利。
「な……なんだ、お前は!?いきなり出てきて、邪魔するんじゃねえ!」
先程まで威勢よく私を睨みつけていた男も、目の前に現れた圧倒的な存在感にたじろいだように唾を飲み込む。
しかし煌様は眉ひとつ動かさず、ゆっくりと部屋の中に歩み入る。
「こっちは客だぞ!こいつをどうしようが俺たちの勝手だろ……っ!」
「その汚い手を離せと言っている」
煌様が、音もなく一歩、踏み出した。
鏡のように磨き上げられた軍靴が畳を踏みしめる音が
静まり返った部屋に死刑宣告の鐘のように重く響く。
男がその圧力に怯んで私の手を離した瞬間
煌様は流れるような無駄のない動作で、腰の軍刀へと手をかけた。
抜き放つ――のではなく、鞘に入ったままのそれを
男の喉元へ電光石火の速さで突きつけた。
「ひっ、あ……っ!」
「私の大事な給仕係を汚すな」
煌様の声は、低く、冷たく、そして絶対的な拒絶を含んでいた。
――『私の』。
その響きが、私の耳の奥で熱く、激しく爆ぜる。
煌様は男を塵芥でも見るかのように見下ろし、鞘の先でわずかに男の喉を押しやった。
「鳳凰館は帝都の品格を守る場所だ。貴様のような野犬が泥足で吠えていい場所ではない」
「ひっ……!!」
「……失せろ。二度と、彼女の視界にその醜態を晒すな」
男たちは腰を抜かし、真っ青な顔で謝る暇もなく逃げるように部屋を飛び出していった。
静まり返った一号室。
倒れた徳利からこぼれた酒の匂いだけが、どこか虚しく漂っている。
煌様はゆっくりと、儀式のように軍刀を帯に収めると、ようやく私の方を向いた。
その瞬間
氷の壁のようだった瞳が、一気に焦燥と心配の色に染まって揺れる。
「……雪。大丈夫か、手、痛むか?」
伸ばされた手は、先程までの鋭利な刃物のようなそれではなかった。
壊れやすい宝物に触れるように、ためらいがちに私の手に触れる。
その温かさが、あまりに優しくて
緊張の糸がぷつりと切れてしまった。
「あ、煌、様……」
声が出なかった。
男たちへの恐怖よりも、彼に守られたという事実の圧倒的な熱さに、胸がいっぱいになってしまったから。
指先を通して伝わる軍服の硬い質感、彼から漂う石鹸のような清涼な匂い。
そして何より、私を『私の大事な給仕係』と呼び
自らの誇りを懸けるような覚悟で守ってくれたその凛々しさ。
気づけば崩れるように煌様の胸に縋りついていた。
「……こ、こわかった…っ、です……」
自分でも信じられないほど子供のような嗚咽が漏れる。
肩が大きく震えて、熱い涙が次々に溢れ出す。
「ごめんなさい…っ…ごめんなさい……」
謝る必要などないと分かっていても
自分の不甲斐なさや情けなさが込み上げてきて止められない。
そんな私の背中を、煌様は言葉ではなく
大きな手のひらで、ゆっくりと包み込むように抱き寄せてくださった。
「……よく耐えた」
その声は、さっきまで獅子のように咆哮していた人物と同じとは思えないほど穏やかで温かい。
「…あんなに男たちに責められて怖かったろう、もう、大丈夫だ」
涙で霞む視界の向こう側で
煌様は苦しそうに眉を寄せていた。
それはきっと
私が傷つけられたことに対する怒りと悔恨が混ざった表情。
「怖がらせてすまない。もっと早く助けに来られたら良かったのだが」
違う。
あなたが来てくれなければ、私は今頃……
でもそれを口にする余裕もなくて
ただただ彼の胸の中で震え続けた。
それでも早く仕事に戻らないといけなくて「あり、がと…ございまず…っ、もう、戻りますので…大丈夫です」
「ああ、このことは俺から女将に言っておこう」
静かだけれど強い決意を感じさせる言葉に
私はまたしても胸が一杯になって
小さく頷くことしかできない。
煌様は私を離すと、まだ赤くなった頬にそっと親指を添わせてくれた。
触れられた箇所から広がる甘い疼きに
思わず息を呑んでしまう。
こんな風に私を慮ってくださる気持ちがとても嬉しくて、切なくて
胸の奥がきゅっと締め付けられるようだった。
「……本当にありがとう、ございます」
か細い声しか出せなかったけれど
それでも精一杯の感謝を込めて顔を上げると
煌様は安堵したように微笑んで、頭を撫でてくれた。
あぁ、もう、だめだ。
神代さんの冷たい釘刺しも、見えない身分の壁も、もう私を止めることはできない。
私は、目の前に立つこの孤高で高潔な軍人様に
もう一度、いや何度でも、逃げ場がないほど深く、魂まで射抜かれてしまったのだから。
「雪?」
私を不安そうに呼ぶ、煌様の瞳。
その深い色の中に、情けないほど顔を真っ赤にして、涙を浮かべた自分の顔が映っていた。
私は震える手で、彼の軍服の袖をぎゅっと握りしめた。
この温もりを、二度と離したくない。
身分不相応な、分不相応すぎる願いだと分かっていても。
今はただ、この強い腕の中に閉じ込められていたいと、天に背くような気持ちで願わずにはいられなかった。
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