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俺はその夜、愛する瑞月に襲われたことで自制心が吹っ飛んだ。瑞月を欲しいという気持ちを止められなくなり、深酒で正体を失くしていた彼女を抱いてしまった。
この行動は、俺が幼馴染から一人の男に昇格できるかどうかの賭けだった。このことが原因で瑞月に完全に嫌われてしまえば、今度こそ、彼女のことを諦めざるを得なくなるだろうと覚悟してのことでもあった。
ところが、正気に戻った彼女には、俺を嫌悪する気配がなかった。その後色々あったやり取りの末、再び瑞月を抱いたが、その時には体だけではなく彼女の心もまた、俺を受け入れているように思えた。
それだけのことで、瑞月が俺を愛し始めていると言い切れるものではなかったが、そこに、僅かな希望の光を見出していた。いや、見出そうとした。
俺はその頃、職場のある女性から、ねっとりとした熱い視線を向けられていた。その昔、俺に付きまとっていた女性とは異なるタイプの人だ。その時はまだ、被害らしい被害は受けていなかったし、これから先にも、特に重大な何かが起こるとも思えない状況だった。そしてこれは、瑞月との距離を縮めるための、ちょうどいい口実になると思った。
恋人のふりをしてくれないか――。
はじまりは偽りの関係だとしても、本物の恋人同士のように振る舞っているうちに瑞月の心境が変化し、俺を男として本当に愛するようになってくれるかもしれないと、未確定の未来を期待したのだ。
瑞月は即座に拒否した。
当然の反応だと分かってはいたが、ある意味、これはチャンスだ。そう簡単に諦められない俺は、彼女の体を質にするようなやり方で、強引に恋人役を引き受けさせたのだ。
翌朝目覚めた瑞月は慌ただしく身支度をし、俺から逃げるようにして玄関へと急いだ。
前夜までは、彼女を家まで送り届けるつもりでいた。しかし瑞月の近くにいればいるほど、もっともっとと彼女を求めてしまいそうだった。だから、やめた。そのことに触れないまま、俺はただ黙って彼女の後ろ姿を見守っていた。
靴を履き終えた瑞月は、俺を見ないままドアに手をかけた。
彼女に何かしらの言葉をかけようとして、はっとした。彼女の耳がそれと分かるくらいに赤く染まっていたのだ。
もしかして、と甘い期待が胸に浮かんだ。華奢なその体を抱き締めたくなった。しかし思いとどまった。そんなことをすれば、瑞月の心があっという間に逃げて行ってしまいそうだったからだ。
「またな。連絡する」
弾かれたような勢いで瑞月は振り向き、俺を見た。しかし彼女はまたすぐに不機嫌そうにぷいっと顔を背け、無言で玄関を出て行った。
それからしばらくは、瑞月に連絡しなかった。多忙だったせいもあるが、それ以上に、もしも彼女の気持ちが揺れ始めているとしたら、当面はあえて連絡は取らずに、距離と時間を置いた方がいいだろうと考えたのだ。
そうこうしているうちに、二週間ほどが経過した。
その日俺は、例の女性の待ち伏せを受けた。仕事を終えて、帰りが一緒になった先輩と話しながら通用口を出てすぐに、彼女に気がついた。しかしあえて見えていないふりを装って、駐車場に向かった。ちらりと横目で見た彼女はそこから動かず、俺の方をじっと見ていた。どうすれば諦めてくれるだろうかと考えた末、瑞月に電話をかけることにした。恋人役を頼んだのは決して嘘ではなかったことを分かってもらえるだろうと思いながら、彼女の番号をタップした。
もしも彼女が出てくれなかったらとは、なぜか思わなかった。そして電話は、俺が思っていたよりも早くつながった。
二週間ぶりに聞く瑞月の声に胸の奥を熱くしながら、俺は言った。
『これから行っていい?腹減っててさ。なんでもいいから食わせてくれないか』
電話で話す俺の声は、例の女性にも聞こえたはずだ。俺には「それらしい存在」がいるらしいと、彼女に対して印象付けることができただろう。いや、ぜひ、そうあってほしい。俺の電話を聞いていた先輩は、にやにやと笑っている。それを見る限り、少なくとも彼は俺の企み通りの解釈をしてくれたようだ。
先輩と別れて車に乗り込んだ俺は、どきどきしながら瑞月のマンションに向かって車を走らせた。
電話をかけ直し、事情を話して、この訪問を取りやめても良かったが、そんなことをしては、せっかくできた瑞月に会う機会を失ってしまう。彼女の声を聞いたせいで、会いたい気持ちはすでに抑えきれないほどに膨れ上がっていた。あの夜のように触れることはできなくても、可能な限り彼女を近くに感じたかった。
出迎えてくれた瑞月の顔を見たら、嬉しくて舞い上がりそうになった。リビングのテーブルには本当に、俺のための食事が用意されていた。それもまた嬉しくて仕方がなく、あぁ嫌われてはいないようだと安堵した。俺は瑞月の表情、言葉、動作の一つ一つに一喜一憂していた。
数年ぶりに食べた瑞月の料理はやっぱりうまかった。学生時代、妹と三人で度々食事を共にしていた当時のことが懐かしく思い出され、あの時のような時間を持ちたいと思った。断られるに決まっていると思いながらも言ってみる。
『また瑞月の料理を食べたい』
すると瑞月は瞳を揺らしながら言ったのだ。
『できる時は用意してあげてもいいよ』
どきりとした。彼女が、俺に淡い期待を抱かせるような表情をしていたからだ。
俺をもっと意識して、このまま好きになってほしいと思った。その時が早く現実となるようにと祈りながら、俺は彼女に口づけた。
『キスしていいなんて言ってないよ』
文句を口にする瑞月の声の弱々しさに、彼女の心が解け始めていることを感じた。今度こそ彼女を手に入れるためには、決して焦ってはいけないと、俺は自分に言い聞かせた。
本当は毎日のように瑞月に会いたい。けれど実際それは難しかったし、俺たちの今の距離感は微妙だ。
だからその代わりとして、彼女に他愛のない内容の電話やメッセージを入れることにした。幼馴染として屈託なく付き合っていた頃と比べると、遥かに少ない頻度ではあったが、むしろそれくらいがちょうどいいと思えたのだ。