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hotaru🌙
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昼下がりの下町の街角。送り届けた主からの命令を胸に刻み、ラウールは店前で立ち止まり、深く息を整えた。そして、静かに其の扉を開ける。
「いらっしゃいませー… あれっ、?」
部品の在庫を確認していた向井が、帳簿を手にし乍ら目を丸くする。
「ラウールさんや。」
「お久しゅう御座います、向井様」
「…未だ昼やんな…?こんな時間にどないしました?」
向井は不思議そうに首を傾げた。いつもと変わらぬラウールの穏やかな声音。けれど、表情だけが影を帯びて妙に硬い。其の姿を見た瞬間、向井の胸に嫌な予感が過った。
「…目黒さんは?」
僅かな間の後、ラウールは目を伏せた。
「臨時召集により…既に御出立されました。」
「え?」
向井は大きく目を見開き、顔からすっと血の気が引くと、
「何で…?」
思わず、声が上擦る。
「うちに来たん昨日の今日やで!?そん時は何も云うとらんかった!」
昨日まで、出征の前触れ等何も無かった。彼の時計が此処に在るからこそ、次に会える日をひっそりと心待ちにしていたのに。
「…早朝の、緊急命令だったもので。」
「でも…っ!」
ラウールのあくまで平静な声に、向井は言葉を失った。ギリギリと胸の内が嫌な音を立てると同時に、鉛筆を持っていた指先も軋む。
一度、戦地へ送り出して。じっと待って、心配と不安に耐えて。漸く無事に帰って来てくれたばかりだった。それなのに、また。
「…目黒さん…もう、行ってもうたんですか…?」
ぽつりと零れた震える声に、ラウールは小さく息を吐く。胸元から自分の懐中時計を取り出して盤面を確認すると、静かに言葉を紡ぐ。
「はい、既に出船の予定時刻も過ぎております。…只、」
パチン、と時計の蓋を閉じ、再び衣囊へ仕舞い乍らラウールは云う。
「御館様より向井様へ御依頼が御座います。」
「…依頼?」
「はい。…時計が欲しい、と。」
向井は数回瞬きをすると、《あぁ…、》と声を漏らした。店に残された、目黒家の時計。向井は帳簿を作業場にぱさりと音を立てて置くと、
「一寸待ってて下さい。取って来ます。」
奥の金庫へと身体を向けた其の時。
「向井様、」
ラウールの声が、彼を引き止める様に飛んでくる。
「御所望の品は御館様の時計では御座いません。貴方の時計です。」
「俺の?」
ラウールは頷いた。向井は反射的に自身の胸元へ手を遣る。其処に在るのは、自らの手で組み上げた真鍮の懐中時計。
「…此れを?目黒さんが?」
「はい。」
向井は胸元から時計を取り出し、掌の上で困惑した様子で見つめる。其の視線を気に留める事も無く、秒針はカチ、カチと静かに時を刻んでいる。
「…何で…?」
其の問いにラウールは、只々小さく首を横に振った。
「私にも、御意向は解りかねます。」
「…そっか。」
時計を包む様に、向井は手を握り込む。自分自身の分身である存在の時計。此れを、目黒が求めている。
軈て向井は、ゆっくりとラウールへ時計を差し出した。
「ええよ。持ってき。」
「よろしいのですか?」
「目黒さんの頼みやねんな?…ちゃんと届けてくれたら、それで。」
「…では、お預かり致します。」
「ん。俺からも…頼んます。」
ラウールの掌に移った時計は、向井の想いと温もりを宿した分だけ、ずっしりと重く感じられた。
出征から二ヶ月。前線近くに設けられた仮設の指揮所。
薄暗い天幕の中、机上に広げられた地図を前に、目黒は幾枚もの報告書へ順に目を通していた。
周囲では伝令が絶え間なく行き交い、刻一刻と変化する戦況が次々と齎されていく。
「右翼部隊より報告。敵部隊、昨夜より北東へ移動している模様です。」
「補給線は。」
「予定より三時間遅れております。此の侭では明朝迄に前線への物資が届かぬ可能性が。」
「…三時間…そうか。」
目黒は短く返すと、真鍮の懐中時計を開き、刻まれた時と地図へ交互に視線を落とした。掌に伝わる小さな駆動音を感じ乍ら、指先が地図の一点を静かに辿る。
幾つもの可能性を頭の中で組み立て、潰し、又組み直す。
「少佐、視察の準備が整いました。」
振り返った副官へ、目黒は頷く。
「分かった。直ぐに向かう。」
「前方は先程より騒がしくなっております。少々危険かと。」
「だからこそだ。」
目黒は時計を納め、地図を畳んで立ち上がった。
「報告だけでは判断出来ない。現地を見てくる。」
「はっ。」
軍帽を深く被り直し、天幕を出る。
外へ出れば、硝煙と乾いた風に土煙が混じっていた。遠くから大気を揺らす低い轟音が響く。
「少佐、此方です。」
案内する若い兵の後を目黒は歩く。
其の兵は未だ十代に見えた。幼さの残る顔立ちには、初めての戦場への恐怖が隠し切れず滲んでいる。
「緊張感を持つ事は良い。只、固くなり過ぎる事は良くない。」
「はい、申し訳御座いません、少佐!」
目黒の低い声に背筋を伸ばすも、引き攣った表情は解けない。
「少佐、此方より先は前線視察路で、」
更に前方を行く兵が歩みを止め、振り返ろうとした其の時だった。
空を切り裂く、甲高い異様な風切り音が頭上から降り注ぐ。
「!総員、伏せろ!!」
目黒の鋭い一喝が響いた、その直後。
──ドォンッ!!
一発目の砲弾が、僅か数十メートル先の地面を穿った。
激しい地鳴りと共に爆煙が吹き上がり、黒い土砂と強烈な爆風が雨の様に降り注ぐ。
周囲の兵達が一斉に声を上げて地面へ伏せる中、案内役の若い兵だけは目の前で起きた破壊の光景に恐怖で全身を縛られた様に硬直していた。見開かれた瞳は完全に泳ぎ、迫る死の気配に足が地面へ縫い付けられている。
続いて向かって来る音は、一発では無い。
「、っく…!!」
刹那、目黒の身体が反射的に動いていた。
迷う事無く地を踏み込み、硬直した若い兵の肩を強く引き寄せると、其の華奢な身体を抱え込む様にして己の身の下へと叩きつけた。
「少佐──っ!!」
周囲の兵の驚愕の声すら覆い尽くす、天地を覆す程の爆音。至近距離で着弾した砲弾が地面を抉り、猛烈な爆風と殺傷力の高い土砂、破片が一気に二人を襲った。
目黒は若い兵の頭部を両腕で固く覆い、全ての衝撃を背で受け止めた。
灼熱が皮膚を焼き、圧殺される様な衝撃が背骨を揺らす。目黒の身体は二重三重の爆風に煽られ、受け身を取る間もなく地面を転がり、叩き付けられた。不意に、ゴッ、と云う音と同時に眉間に硬く鋭い衝撃が走る。
「っ゛…!!」
叫びそうになる声を押し殺し、視界が激しく歪み、真っ白な閃光と漆黒の闇が交互に交錯する。鼓膜を刺す激しい耳鳴りの向こうで、誰かの狂乱した叫び声が聞こえていた。
「少佐!少佐!!…誰か、衛生兵を!早く!!」
尚も覆い被さる目黒の下から這い出た若い兵は無傷の侭、ぐったりと血に染まる目黒の身体を目の当たりにして泣き叫んでいる。
目黒は《退避しろ》と口を開こうとした。しかし、肺が潰れた様に上手く息が出来ずに、掠れた息が洩れるばかりで声にならない。
急速に体温が失われていく感触。視界の端から深い暗闇が侵食し、意識が濁濁とした泥の底へと引き摺り込まれていく。
絶望的な静寂の中で、目黒の意識は途切れた。
──遠くで、子供達の甲高い笑い声が聞こえる。
父を亡くした後の、未だ亮平が幼かった頃の記憶。
春の柔らかな陽射しが降り注ぐ目黒邸の広大な庭園で、身体の弱かった幼い亮平は、数人の同年代の子供達に取り囲まれていた。
「また稽古を休んだんだって?」
「身体が弱いから仕方ないよな。」
「そんなので、本当に歴史ある目黒家の人間なのかよ。」
無神経で悪意の籠もった幼い笑い声。亮平は何も言い返さなかった。只唇を噛み締め、小さな拳を強く握り締め乍ら俯いている。言葉にならない悔しさと情けなさに、其の華奢な肩が微かに震えていた。
暫くして亮平は何も言わぬ侭、弾かれた様に駆け出し、庭を離れていく。
其の小さな背中が屋敷の奥へ消えていくまで、目黒は太い木の幹の陰から、じっと無言で見送っていた。
そして、弟の姿が完全に見えなくなったのを確かめると、目黒は静かに影から踏み出した。
「お前達。」
「…っ、蓮様…?」
静か乍らも冷ややかな声に、先程迄笑っていた子供達が一斉に振り返る。目黒は感情の窺えない瞳で、ゆっくりと彼等の前まで歩み寄った。其の佇まいには目黒家の当主としての格別の威厳が漂っていた。
「先程、亮平に何を言った。」
「い、いえ…何も…。」
「そうか。」
一歩。目黒が間合いを詰める。圧迫感に押し潰されそうになり、子供達は思わず後退った。
「もう一度聞こう。」
声変わり途中の少年の声音。だが、其処には一切の妥協を許さぬ絶対的な重みが宿っていた。
「亮平に、何を言った。」
「…か、身体が弱いって、言っただけで…。」
「其れの何が悪い。」
「え…?」
「身体が弱ければ、嘲笑って良いのか。亮平が自ら其れを望んだと?」
誰も答えない。風の音さえ消え失せた静寂の中、目黒は子供達を一人ずつ冷徹な眼差しで見つめた。
「それに、人には其々、得意不得意が有る。」
「………。」
「だが、不得意を笑う事は、許される理由にはならない。」
努めて静かな声だった。しかし其の瞳の奥には、弟を傷付けられた激しい怒りが蒼い炎の様に静かに、強く揺らめいていた。
「次に先程の様な真似をすれば──」
一度、言葉を切る。
「私が許さない。」
「…っ!」
其の威圧感に子供達がひゅっと息を呑み、恐怖に顔を強張らせる。
「二度と、私の弟を揶揄うな。」
其れだけを残し、一瞥もくれずに其の場を去った。
次の日の夜。静かな執務室で目黒が文机に向かっていると、扉が軽く叩かれた。
「兄様。」
「何だ。」
《んしょ…、》と重い扉を開けて入ってきたのは、亮平だった。
「…昨日ね、庭で皆に笑われてたんだ。」
筆を握る目黒の手が、僅かに止まる。だが、弟へ顔を向ける事なく、淡々と返した。
「そうか。」
「でもね…もう大丈夫。」
「………。」
「何でか分からないんだけど、今日は皆、何も言ってこなかったんだ。それに、優しくしてくれたんだよ。」
「………そうか。」
「…うん、其れだけ。」
亮平もそれ以上は追及せず、《お休みなさい。》と小さく笑って部屋を去っていった。
其れが、陰で兄のした事だとは知る由もなかった。
「少佐!…少佐!聞こえますか!!」
遠くから、鼓膜を揺らす悲鳴の様な問い掛けが聞こえる。目黒は答える事が出来ない。意識は未だ、深く冷たい暗闇の底に沈んでいる。
それでも。
幼い弟を守る為に握り締めた拳の感触と、胸元でカチ、カチと静かに鼓動を打つ真鍮の時計の温もりだけが、暗闇の中で目黒の魂を強く引き繋ぎ止めていた。