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***
わたしは、自分の余命を知ってから、一日一日を大切にするようになった。
しかし、これといって特に何も変わらない日常。
ただ変わったのは、雨城さんがわたしの”期限付き”の恋人になったという事くらいだ。
ぼんやりとしながら見上げる社員食堂の窓から見える空。
今日は機嫌も良く、ゆっくりと流れる雲の間から綺麗な青空が見える。
社員食堂で空がよく見えるこの窓際の席が、わたしのお気に入りの場所となっていた。
わたしは日替わりランチのチキン南蛮定食を食べ終え、カフェラテで一息ついているところだ。
そこへ、「芽吹さんっ。」と声を掛けて来るハスキーボイスが斜め後ろで響き、わたしはクルリと声がした方向を振り向いた。
そこに立っていたのは、片手に珈琲カップを持つチームリーダーの篠原さんだった。
篠原さんはにこやかに「隣いい?」とわたしに尋ねてきた。
「あ、はい。どうぞ。」
ぎこちなくわたしがそう答えると、篠原さんは「じゃあ、失礼します。」と言ってわたしの隣の椅子を引き、そこに腰を下ろした。
篠原さんのチームに入ってから一週間が経つが、チームの人含め、社員の人たちとは業務以外で話した事はなく、まだまだ不慣れな環境ではあった。
元々社交的な方ではないわたしは、自分から話し掛けに行く事が苦手なのだ。
「どう?仕事には慣れてきた?」
柔らかい口調でそう訊いてくれる篠原さんは、チームの中では一番話し掛けやすい存在ではあった。
何かと気に掛けてくれ、わたしが手詰まりになると、いち早く気付いてくれるのが篠原さんなのだ。
「いえ、まだまだ分からない事ばかりで···、でも仕事自体は楽しいです。初めての事ばかりなので新鮮で。」
わたしがそう言うと、篠原さんは優しい笑みを浮かべながら「そっか、楽しいなら良かったよ。」と言って口角を上げた。
「いつも気に掛けてくださって、ありがとうございます。」
「いやいや、そんな事気にしないで。誰でも最初は戸惑うからね。分からない事あっても、自分から声掛けづらいでしょ?みんな忙しそうにしてるとさ。」
まさに図星をつかれ、わたしは笑って誤魔化してしまった。
篠原さんの言う通り、いつも周りの人たちは忙しそうで雑談などする暇もない程、忙しく業務に励んでいる。
そこへわたしが話し掛けて迷惑を掛けたくない思いから、わたしは手詰まりになっても一人でマニュアルとにらめっこをする癖がついていたのだ。
「分からない事があれば、訊いてね?俺で良ければ。」
「はい、ありがとうございます。」
篠原さんの優しさが温かい。
この人がチームリーダーで良かったと、そう思った。
そうして休憩時間も終わり、午後の業務に戻ろうと席を立った時。
コツコツとヒールを鳴らせながら歩く音が近付いて来たかと思うと、その音はわたしのすぐ傍で止まった。
わたしは何気なくそちらに目を向けたのだが、視界に入って来たその人物の姿を見た瞬間、その事を後悔する事となる。
「新人さんがこんなところでゆっくり休憩なんて取っちゃって、余裕なのね。」
嫌味たっぷりにそう声を掛けてきたのは、今日も大胆な服装でタイトなミニスカートを穿く畑山さんだった。
わたしは何と言い返したら良いのか分からず、とりあえず「お疲れ様です。」と言っておいた。
すると、そこへ「畑山さん。休憩時間をきっちり取るのも大事な仕事の一つですよ。何か問題でも?」と篠原さんが穏やかな口調で言い返してくれた。
わたしを鋭い瞳で直視していた畑山さんの視線は、素早く篠原さんへ移ると「あ〜ら、篠原さん。居たの?」と、これまた存在感を否定するような言葉が畑山さんの口が飛び出してきた。
「見えませんでした?僕、これでも175はあるんだけどなぁ。」
「存在感が無さ過ぎて、わたしの視界には入って来なかったわ。」
「そうでしたか。畑山さんの視界には、雨城課長しか入って来ませんもんね。雨城課長の視界には、畑山さんは入ってないと思いますけど。」
にこやかに穏やかな口調で言う篠原さんのどぎつい言葉に、畑山さんの顔は見る見る内に真っ赤になり、鬼の様な形相と豹変する。
(篠原さん、結構凄い事言うなぁ······)
わたしには恐ろし過ぎて言えないような言葉をズバズバと言ってしまう篠原さんに、わたしはある意味尊敬の念を抱いてしまう。
畑山さんは篠原さんを睨みつけた後、「ふんっ!」とそっぽを向き、またコツコツとヒールを鳴らせ、全身で怒りを表しながら去って行ってしまった。
「言い返さなかったって事は、本人も自覚あるんだね。」
畑山さんの後ろ姿を眺めながら、相変わらずな篠原さんの言葉に、わたしは苦笑いを浮かべる事しか出来なかった。
それからその日の帰宅時は、何故かドッと疲れが出て、わたしはソファーの上に倒れ込んでしまった。
わたしもすっかり、雨城さんの自宅を自分の自宅のように気を許して過ごせるようになってきていた。
「今日はお疲れのようですね。」
わたしの様子を見ながらそう言う雨城さんは、無駄な動き一つ無く上着を脱ぐ。
わたしは苦笑いを浮かべながら「ちょっと色々ありまして。」と答えた。
「それじゃあ、ゆっくり過ごしていてください。夕飯は僕が作ってしまいますから。」
穏やかな表情でそう言う雨城さんは、ワイシャツの袖のボタンを外し、腕捲くりをする。
しかしわたしはソファーから起き上がると、「いえ、わたしも作ります!」と気合いを入れるように力強く宣言し、立ち上がった。
「無理しなくても大丈夫ですよ?」
「無理なんてしてないです。わたし、雨城さんと一緒にキッチンに並んでご飯作るのが楽しいんです。」
そう、あれ以来、わたしは毎日雨城さんとキッチンに並び、料理するのが日課のようなものになっていた。
恋人らしい事がなかなか思い浮かばず、頭を悩ませていたわたしたちなのだが、二人で何とか考えを絞り出し、唯一思い浮かんだのが二人で料理をする事だったのだ。
「今日は何を作りましょうか。」
そう言いながら、わたしはキッチン内の壁に掛けてある元自宅から持って来ていたエプロンを手に取り、身に付ける。
雨城さんはキッチンへ入って来ると、「今日は親子丼とかどうでしょう?」と言いながら冷蔵庫を開け、卵を取り出して見せた。
「親子丼いいですね!」
「それじゃあ、決まりですね。」
そして、二人でキッチンに並び、親子丼と味噌汁を作っていく。
メイン料理はいつも雨城さんが担当してくれ、わたしは汁物や副菜などを作るようにしていた。
そんな雨城さんが鶏肉を捌いている中、わたしはその隣である疑問を問い掛けた。
「死神って、ご飯を食べる習慣って無いですよね?最初は、戸惑いませんでしたか?」
わたしがそう尋ねると、雨城さんは鶏肉を捌く手を止める事なく「そうですね、最初は不思議な感じがしました。」と答えた。
「やっぱりそうですよね。」
「こちらの世界で暮らし出す前から人間の生活は一通り把握はしていたので、食事を摂る事自体は知っていたんですけど、実際に肉体を持って、お腹が空くという感覚を知り、初めてこういう事なのかと知りましたね。」
そう話しながらも、手際良く鶏肉を捌いていく雨城さんは、次に鍋を取り出し、早速作る工程へと移ろうとしていた。
その横では、鰹節から出汁を摂りながら「なるほどぉ。」と納得している自分がいた。
そこから順調に親子丼と味噌汁を作り上げていき、家中に食欲をそそる良い香りが漂い始める。
わたしは、この時間が堪らなく好きだった。
雨城さんとキッチンに並び、他愛もない話をしながら料理をする時間。
その時間が、わたしにとっては生きている喜びを感じられる瞬間となっていたのだ。
今日もわたしは雨城さんと共に出来上がった親子丼と味噌汁をテーブルへと運び、食卓テーブルに向かい合って座り、手を合わせ「戴きます。」と声を揃える。
ただそれだけのごく普通な日常が、残り僅かな時間しか残されていないわたしには、穏やかな心で過ごせる貴重な時間となっていた。
(でもいつか、この時間にも終わりがくるんだよね······)
そんな切ない事を思い浮かべながら、わたしは目の前にある食事を大切にした。
「仕事の方はどうですか?何か不便な事はありませんか?」
味噌汁が入るお椀に手を添えながら雨城さんが言う。
わたしはすすった味噌汁を飲み込んだ後、「有難い事に篠原さんが気に掛けてくださってるので、今のところは何とか大丈夫です。」と答えた。
「そうでしたか、それなら良かった。でも、何か困り事があればすぐに言ってくださいね。」
そう言い、目を細め綻ぶ雨城さんの瞳は優しく、雨城さんは手を添えていたお椀を持ち上げると、そっと口へと運んだ。
困り事···――――
全く無いと言えば嘘になるが、それを雨城さんに伝えていいものかのかを迷ってしまう。
わたしが今一番に思い浮かぶ”困り事”は、畑山さんの事だ。
やはり、最初に感じていた予感は的中しており、畑山さんはわたしを見掛けると何かと嫌味を吐いてから立ち去って行くようになっていた。
しかし、わたしが何かを言い返せる訳もなく、ただただその畑山さんが吐き出して行く刺々しい言葉を聞き流す事しか出来なかったのだ。
(畑山さんの事を話しても、雨城さんを困らせてしまうだけだよね。)
わたしはそう思い、つい零れ落ちてしまいそうになった愚痴を味噌汁と一緒に飲み込むのだった。
それから食後の片付けは雨城さんが担当してくださり、わたしは洗濯機を回した後で湯船にお湯をため始めた。
お風呂が沸き上がる前に乾いた洗濯物を片付けていくのだが、そこでわたしはある重大な事に気付いてしまったのだ。
(あれ?わたしの着替えが······)
実は、私は持っている僅かな2着の部屋着を着回しているのだが、その両方が洗濯物の中から見つからなかったのだ。
そこでわたしは気付いた。
今その両方が洗濯機の中で回っている事を···――――
(あー···やっちゃったぁ······)
どうやらわたしは、今日の着替えを失ってしまったようだ。
洗濯を終えてすぐに乾燥機に回せば間に合うだろうか。
そんな事を考えながら、わたしはドラム式洗濯機の前にしゃがみ込み、洗濯機の中で回る洗濯物たちを待ち構えていた。
すると、そんなわたしに気付いた雨城さんが「雫さん?何をしてるんですか?」と洗面室を覗きにやって来た。
わたしは雨城さんの声に振り返ると、「実は、着替えを全て洗濯してしまって···」と苦笑した。
「あぁ···、それは着替えがない、という事ですか?」
不思議そうに問う雨城さんの言葉にわたしは「はい。」と返事をする。
雨城さんは「それなら、僕のを貸しますよ。」と当然のように言ってくれたのだが、わたしは覚えている。
雨城さんの服がわたしには大き過ぎて、ワンピース状態になってしまう事を···――――
「あ、でも、すぐ乾燥機で回せば···」
「すぐ乾燥機で回しても、終わるのは深夜になってしまいますよ?」
その雨城さんの回答に(···確かに。)と納得してしまう自分が居たが、どうしても迷ってしまう。
近頃は暑くなってきて、ワンピース状態になるTシャツの下にスウェットを着ると確実に寝苦しくなってしまう。
しかし、Tシャツ一枚の姿を雨城さんに見せるのは、どうなのだろうか。
色々考えて迷った挙句、わたしが出した決断は······
「じゃあ、Tシャツだけ···お借りしてもいいですか?」
思い切ってTシャツ一枚のワンピース姿になる事だった。
そしてお風呂が沸き、わたしは先にお風呂をいただく事になった。
雨城さんの黒いTシャツを借り、わたしは一人で浴室へと入る。
大きな浴槽に足から入り、わたしは膝を抱え小さくなりながら肩までライム色の湯船に浸かった。
その中で考えるのは、お風呂から上がった後に着る雨城さんのTシャツの事ばかり。
あんな姿で雨城さんの前に現れて、はしたないなんて思われないだろうか。
しかし、人間の姿をしているとはいえ、雨城さんは死神だ。
死神は、女性の姿から欲情する事はあるのだろうか。
と、そんな事を考えてしまう自分に恥ずかしくなる。
(いやいや、わたしは色気の欠片も無いし、大丈夫。変な心配なんてする必要ない。)
わたしは自分の中で呪文のようにそう唱え、不要な心配だと自分に言い聞かせた。
「···お風呂、いただきました。」
お風呂に入り、着替えを済ませたわたしは、恐る恐るリビングへと向かう。
そこには、ソファーに座り本を読む雨城さんの姿があり、雨城さんはわたしの声でふとこちらを向いた。
その瞬間、わたしはまるで氷漬けにでもされてしまったかのように身動きが取れなくなる。
それは、わたしの姿を見た雨城さんの反応があまりにも気になってしまったからだ。
雨城さんの黒いTシャツ一枚の姿のわたしは、雨城さんの反応を見る勇気が持てず、視点が定まらずにモジモジしてしまう。
すると、雨城さんは「おかえりなさい。」と優しい口調で言った後で本を閉じ、その本をテーブルに置くと、スッと立ち上がった。
そして、ゆっくりとわたしの方へ歩み寄って来たと思えば、その勢いのまま腕を広げ、わたしを包み込むようにギュッと抱き締めたのだ。
「···えっ?」
状況が読み込めないわたしは、困惑の言葉を漏らす。
雨城さんはわたしを抱き締めたまま「すみません、つい雫さんが可愛らしくて、抱き締めたくなってしまいました。」と、言ったのだ。
その雨城さんの言動にわたしの鼓動が早くなり、顔が火照っていくのを感じる。
その火照りは、お風呂上がりのせいではない事は、わたし自身がよく分かっていた。
「でも···、恋人同士ですから、問題ないですよね?」
わたしを抱き締めたままそう言う雨城さんに「そう、ですね。」と片言に返事をするわたしの耳は、長身の雨城さんの胸元あたりにあり、耳を澄ませてみると雨城さんの鼓動が聞こえてきた。
その鼓動は、わたしが思ったよりも早く、もしかしたら雨城さんもわたしと同じ気持ちかもしれない、なんて感じてしまった。
すると、雨城さんの腕が緩み、わたしたちの身体が離れる。
雨城さんはわたしの腕を優しく掴むと、穏やかな眼差しでわたしの姿を見下ろしていた。
「僕の服を女性が着ると、こんな感じになるんですね。」
「···変じゃ、ないですか?」
わたしが恐る恐るそう訊くと、雨城さんは口角をクッと上げ「全然、変じゃないですよ。」と答えてくれた。
「むしろ可愛らしいです。たまに、僕の服を着て見せてください。」
「えっ!たまに、ですか?」
「雫さんが抵抗あるなら、無理にとは言いませんよ。」
そうは言われたが、「可愛らしい」と言われ、嬉しかったわたしは「たまになら···」と返答してしまう。
「ありがとうございます。それから···」
雨城さんはそう言うと、再びわたしを包み込んだ。
「ハグって、いいものですね。一日一度は、ハグを習慣にしませんか?」
「習慣、ですか。いいですね。どのタイミングにしますか?」
「お互いにハグがしたくなったら、いつでも。」
そう話しながらわたしを抱き締める雨城さんの背中に、わたしもそっと腕を回すと「分かりました。」と答え、温かい雨城さんの温もりに瞳を閉じるのだった。
それから、わたしたちの日課に”ハグ”が追加されたわけだが、大体いつも先にハグをするのは雨城さんからだった。
わたしはどうしても恥ずかしさが勝ってしまい、ハグをしたくても躊躇ってしまうのだ。
しかし、どこかで雨城さんからハグをしてくれる、という甘い考えもあり、それを待っている自分もいた。
今までの過去の恋愛で、こんなにも抱き締め合う事に心が満たされる感覚があっただろうか。
過去の恋愛では、いつもわたしがパワーバランスが下で、抱き締めてもらう事よりも、わたしの方が我慢出来ずに寄り添う事の方が多い気がする。
それは甘えたいという気持ちよりも、自分への好意を確かめるような行動に近かったように感じる。
思い返せば、わたしから抱きつく事で相手が嫌がらないか、嫌われていないか、そんな事を試していたように思えた。
その頃の恋愛は、本当に恋愛と呼べるものだったのか···――――
そう思えば、わたしはまともな恋愛をしてきていないような気がした。
そんなある日の休憩時間。
わたしがいつものように窓際の席で日替わりランチのカレーライスを食べていると、背中側から若い女性たちが盛り上がる会話が自然と耳に入って来た。
「雨城課長、今日は仕事のフォローありがとうございました。」
「本当に助かりました!」
話を聞くに、どうやら総務課の事務員さんたちの話し声のようだ。
するとそこへ「いえ、僕は大した事はしていませんよ。」と言う雨城さんの声が聞こえてくる。
後ろを振り返ったわけではない為、人数は定かではないが、どうやら雨城さんと複数の女性社員たちが一緒にお昼休憩を取っているようだ。
「雨城課長って、本当に素敵ですよね。」
「彼女は、いらっしゃるんですか?」
ある女性社員の質問がヤケに耳に響いて聞こえてくる。
――――彼女は、いらっしゃるんですか?
わたしはそこで無意識に後ろへ聞き耳を立ててしまっていた。
雨城さんがその質問にどう答えるのか、気になってしまったのだ。
すると、雨城さんは穏やかな口調でこう答えた。
「いますよ。大切な人が。」
雨城さんの回答に「ですよね〜。」と少し残念がる女性社員たちの声が聞こえてくる。
――――いますよ。大切な人が。
それは、誰を差しているのだろう。
わたしは確かに一応、今は恋人関係にあるが、期間限定付きだ。
それでも、わたしの事を”恋人”と認識して答えてくれたのだろうか。
それとも、違う誰かの事なのだろうか···――――
雨城さんは、今はただ、恋人を演じてくれているだけ。
それだけなのに、何処かで嫉妬心を抱いている自分がいた。
わたしは、何を嫉妬しているのだろうか。
雨城さんはわたしの我儘に付き合ってくれているだけだ。
それなのに、他の女性にわたしを”恋人”だと話すはずがない。
だとするならば、誰の事なのだろう。
そう考えたら、わたしは雨城さんに失礼なお願いをして、無理に我儘に付き合わせてしまっている事に後悔が湧き上がってきてしまった。
雨城さんは優しい人だ。
きっと、大切に想っている人が居るにも関わらず、わたしの我儘に付き合ってくれているのだ。
(帰ったら、ちゃんと謝らなきゃ。そして···、あの約束を解消しなきゃ。)
わたしは、最期だからと調子に乗り過ぎたのだ。
そんな自分が恥ずかしくて、情けなくて堪らなくなり、スプーンで掬い上げていたカレーライスを口へ運ぶ事も忘れ、喉を通らなくなってしまっていた。
その日の午後は、何だか仕事に集中出来ずにいた。
しかし、新入社員の身でダラダラもしていられない。
ミスだけは避けたいわたしは、入念に確認をしながら、まだ不慣れな業務を進めていた。
(帰ったら、まず雨城さんに謝ろう。)
その事ばかりが、頭の中をグルグルと巡り、業務の妨げとなっていた。
そして、その日の就業時間が終了すると、周りの社員たちは次々と帰宅して行った。
すると、そこへ雨城さんが上の階から下りて来て、わたしを迎えに来てくれた。
「雫さん、お疲れ様です。」
いつもの変わらぬ優しく穏やかな表情でやって来た雨城さんだが、わたしはどうしてもそんな雨城さんの姿を見る事が苦しくなってしまっていた。
「お疲れ様です。」
わたしがそう返すと、雨城さんはすぐにわたしの異変に気付き、「どうかしましたか?」と心配そうに尋ねてきた。
しかし、社内で話すような事では無い為、わたしはその場しのぎで「何でもありませんよ。」と無理に笑みを浮かべて答えた。
それで雨城さんが納得するはずもないが、雨城さんはそれ以上、その場で問い詰めるような事はせず、「そうですか···、それじゃあ、帰りましょうか。」と優しく促してくれた。
その後の帰宅途中の車内では、帰宅後の夕飯の話をした。
最近はお肉類が続いていた為、鮭のバターソテーにしようという話になった。
「あとは、わたしが野菜たっぷりのコンソメスープを作りますね。」
「はい、お願いします。」
そう話していると、何だか切なくなってきてしまった。
これから帰宅して、どのタイミングで言い出そうか。
もし今のこの関係を解消すれば、雨城さんとのこの生活も無くなってしまう。
せっかく一緒にキッチンに並び、ご飯を作ったり、向かい合って食事する喜びを感じて居たところだったのに···――――
一日一度はハグをしようと決め、雨城さんに包まれる幸せに心が満たされ始めていたところだったのに···――――
わたしが”関係解消”を口にすれば、それも無くなってしまうのだ。
そう思うだけで、わたしは胸の奥底から悲しみが押し寄せ、つい涙となって溢れ出してきてしまいそうになった。
しかし、まだダメだ。泣いちゃダメだ。
わたしは必死にその涙を堪え、潤む瞳を隠す為に窓の外へ視線を向けたのだった。
自宅に到着すると、すぐに夕飯の支度に取り掛かった。
エプロンを身に付け手を洗い、それから冷蔵庫を開け、食材を取り出して行く。
そして、わたしが玉ねぎを切り始めたタイミングで、雨城さんが「雫さん?」と声を掛けてきた。
「はい、何ですか?」
そう言って、わたしがふと雨城さんの方を見ると、雨城さんはわたしの横で手を洗いながら「今日は、何があったんですか?」と尋ねてきた。
雨城さんの問いに、わたしは言葉に詰まる。
今、このタイミングで言うべきだろうか。
でも、どちらにしろ今日中には話さなくてはいけない事だ。
そう思い、わたしは思い切って、”その事”について話す事にした。
「···雨城さん、わたしの我儘に付き合ってくださって、ありがとうございました。」
わたしが手元を見ながら玉ねぎを切りそう言うと、雨城さんは「えっ?」と不思議そうに言った。
「わたし、あと余命が少しだからって、調子に乗っていました。申し訳ありません。雨城さんに···甘え過ぎてしまっていましたよね。」
「···雫さん?突然、どうしたんですか?」
わたしの言葉に困惑している様子の雨城さんは、わたしの横に立ち、手を洗い終えた後、そのままわたしの言葉に耳を傾け続けてくれていた。
「最期くらい、誰かに愛されたいだなんて、馬鹿な発想ですよね。それに、雨城さんを巻き込んでしまって···、わたし、とても反省しました。雨城さんには、大切な人がいる事も考えずに、恋人になって欲しいだなんて···、ごめんなさい···っ―――」
そう話している内にわたしの声は震え、堪えきれずに涙を零してしまっていた。
そんなわたしに雨城さんは、「雫さん、落ち着いてください。」と言い、わたしを後ろから抱き締めた。
しかし、ダメだ。このまま雨城さんに甘えてはいけない。
そう思ったわたしは、平常心を保とうと努力し、自分に言い聞かせるかのように「わたしは、大丈夫ですよ。」と言い、一度玉ねぎを切る手を止めた。
「雨城さんには···、大切な人がいるんですよね?」
わたしは包丁を置き、静かにそう言った。
すると、わたしのすぐ後ろの耳元から雨城さんの「えっ?」と言う声が聞こえる。
それでもわたしは振り返らずに、そのままの状態で話を続けた。
「聞くつもりはなかったんですけど、休憩時間に、雨城さんが女性社員の方と話しているところを偶然聞いてしまって···。雨城さんには、大切な人がいると聞いたので···、それでわたし、雨城さんに大変失礼なお願いをしていたなって、」
わたしがそう言い掛けたところで、雨城さんが「ちょっと待ってください。」と、わたしの言葉を遮った。
そこでわたしは初めて、振り返り雨城さんを見上げる。
雨城さんは、今にも泣き出しそうな程に切なく複雑な表情を浮かべ、わたしを見つめていた。
「それは、雫さんの事ですよ?」
雨城さんがハッキリとした口調で言ったその言葉に、わたしは間抜けな表情で「···えっ?」と呟く。
(今、何て?)
ハッキリと聞こえたはずの雨城さんの言葉が、わたしには幻聴のように思え、もう一度訊いてしまいそうになる。
しかし、わたしがそれを言わなくとも、雨城さんはもう一度ハッキリと、わたしに同じ言葉を繰り返してくれた。
「あの時、僕が言った”大切な人”は、雫さんの事です。他に違う誰かが居るわけではありません。」
「えっ、わたし?···ですか?」
わたしの気の抜けたような問いに、雨城さんは「はい。」としっかり答えてくれる。
その瞬間、わたしの瞳からはドッと涙が溢れ出してきてしまった。
その事に慌てる雨城さんは「し、雫さん、どうしたんですか?」と珍しく、どうしたら良いのか分からずにいる様子だった。
「わたし、てっきり···雨城さんには大切な人がいて、それで、無理に恋人を演じさせてしまってると思って···」
涙声でわたしがそう言うと、雨城さんは切なくも優しい微笑みを浮かべ、「そんなわけないじゃないですか。」と言い、正面からわたしをそっと抱き寄せた。
わたしは途轍も無く安堵した。
その事から不安で一杯だった涙が溢れ、堪えていた分まで止め処なく零れ落ちていた。
「僕の大切な人は、雫さんだけですよ。だから、泣かないでください。」
そう言う雨城さんの口調は穏やかで、自分の勘違いが徐々に恥ずかしさへと姿を変えていく。
しかしわたしは、恥ずかしさを誤魔化す為に「泣いてません。これは、玉ねぎのせいです······」と無理な言い訳をし、雨城さんの胸に額をつけ、勘違いから赤面する顔を隠したのだった。
コメント
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第5話、読み終えました…!もう、雨城さんの「大切な人は雫さんですよ」のシーンで泣きそうになりました😢 主人公が自分の誤解で関係を終わらせようとするところ、すごく切なくて。でも雨城さんの優しい言葉でほっとする展開が本当に好きです。Tシャツ一枚のハグ習慣も、二人の距離が自然に縮まってて甘くてドキドキしました…続きが気になります!🌙