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専務と秘書になって三週間が過ぎ、同居生活が始まって二週間が過ぎた。
馨は俺の監督下で、しっかり食べてしっかり眠って、少しふっくらしてきた。
逆に、俺は触れられる距離に居ながら触れられないストレスと禁欲生活に、悶々とした夜を過ごすようになっていた。
寝ても覚めても、馨の事ばかり。
それでも、会社では硬い馨の表情が、俺の前では和らぐのが、嬉しかった。
「本当に一人で大丈夫か?」
ピザを頬張りながら、馨は頷いた。
馨のリクエストでクアトロフォルマッジとベーコン&ポテトピザ。
二十時を過ぎてピザを食べたがるなんて、馨らしい。
明日の夜、取引先の創業記念パーティーがあって、馨は副社長の代理として出席する。社長も一緒に。だが、秘書は断られた。
専務になってから、馨が一人で人前に出るのは初めてだった。
俺は娘を初めての外泊に送り出すような気分で、心配しかなかった。たった三時間程度のパーティーなのに。
我ながら、過保護だと思う。
「社長も一緒だし、大丈夫」
元々、馨は優秀な部下だった。仕事は早くて正確だし、機転もきく。
馨と付き合いだしてからの目まぐるしい状況の変化で、俺が何かと過剰反応しているだけだ。それは、自覚している。
だから、明日のパーティーも、専務として送り出す分にはあまり心配していない。心配なのは、馨が公に『立波リゾートの後継者』として認められてしまうこと。
本当に馨が立波リゾートの社長になってしまったら、俺の社会的地位はどうやっても馨より下。
夫が妻の部下、ってのは避けたい……。
馨のそばにいるための苦渋の決断だったとはいえ、一生秘書で終わる気はなかった。
そんな俺の気持ちなど露知らず、馨は大胆に肩を出した薄い赤のロングドレスにショールという格好で、パーティーに出かけて行った。
俺のためにドレスアップしたことないくせに……。
欲求不満のせいか、いじけ癖がついてしまった。
帰りは社長が送り届けてくれることになっているから、俺は一人寂しくマンションに帰った。
ふと、オートロックの扉の前に立っている女性が目に入った。どこか、見覚えがあるような気がしたが、二十歳になるかならないかの年頃の女性に知り合いはいなかった。友達か誰かを待っているのだろう。
このマンションには、富裕層の家族も暮らしている。
そう思って、パスワードを入力しようとした時、ハッとした。女性の顔を正面から見て、確信を持った。
「桜……ちゃん!?」
見覚えがあったのは、馨から見せてもらった写メで、だ。
見せられた写メでは制服を着ていて、髪も黒く、化粧もしていなかった。
だが、目の前の桜は、ピンクのワンピースを着て、茶色く長い髪は毛先がクルクルと巻かれていて、化粧もしていた。唇が艶々輝いている。今日でさえ、馨はこんなに口紅を塗っていなかった。
絶対キスしたくない、な……。
不謹慎だが、正直な感想だった。
「槇田雄大さん、ですか?」
桜の声は馨より細くて高くて、少し甘ったるい話し方だった。
「那須川桜です」
桜はゆっくりとお辞儀をした。
「お姉ちゃんに会わせてください」
随分と大人びているな、と思った。
顔つきもそうだが、自分の倍ほどの年の男に対して全く物怖じしない話し方や目つき、が。
『桜の何がそんなに怖いんだ』と黛に聞いた時、あいつは『会えばわかる』と言った。
具体的に『どこが』とは言えないけれど、一筋縄ではいかない女なのは直感でわかる。
腹違いとは言え兄妹だと知っていながら恋人となり、その恋人のために一回りも年上の男と婚約しながら、恋人を留学先にまで呼び寄せるような女だ。
「馨は仕事中だよ」
「なら——」と、馨が留守であることを知っているかのように、桜は次の言葉を発した。
「お義兄さんが私の話を聞いてください」
『聞いてもらえますか?』ではなく『聞いてください』と言うあたりが馨に似ているな、と思った。
「今日はもう遅いから、明日にしよう。馨も一緒に」
桜はクスッと笑って、言った。
「賢也くんが敵わないはずですね」
俺を見上げた桜の目に、ゾクッと背筋が寒くなった。
殺意すら覚える、冷たい目。
「お姉ちゃんの秘密を買ってください」
そう言って、桜は俺の胸に手を当てた。
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