テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#作者が怖くてトイレに行けない小説
あさぎ 綴
35
ラチム
252
ピンポーン⋯
突然のインターホンの音に、私は昏い眠りの底から引きずり出された。
時計を確認すると枕元のそれは深夜3時を指している。
まさかこんな時間に訪問者などあるはずが無い。
ふと考えた。
もしかして私は、夢の中でインターホンの音を聞いたのかもしれない。
夢の境界線で聞いた残響があまりに鮮烈であったがために、目覚めた今も夢と現実の境目で迷子になっているのだろう。
ベッドから起き上がり、リビングに向かうと、こんな時間だと言うのに娘がパソコンを開いている。
「ねぇ、さっきインターホン鳴った?」
背中に向かって問いかけると、娘は耳を覆うヘッドホンを少しだけずらし、気怠げに振り返った。
「ううん、ゲームの音が大きくて気付かなかった。何、誰か来たの?」
こんな時間に訪ねて来る知り合いなどいないし、とにかく恐怖心しかない。
「お母さん、なんか気持ち悪いしモニター見てみる?」
娘の言葉に促され、私は壁に据え付けられたモニターへと近づいた。
冷たいプラスチックの感触に指を触れ、起動ボタンを静かに押し込む。
「……誰か、いる」
画面に灯った青白い光のなかに、黒い影が落ちていた。
深くフードを被った、おそらくは黒いパーカーのような衣服をまとった何者か。
そいつはカメラのレンズのすぐ手前に立っていた。
あまりに距離が近すぎて、その全容を推し量ることはできない。
だがその輪郭の歪さだけで、尋常の存在ではないことが直感的に理解できた。
そいつは、人間とは思えぬ不自然な硬直を見せたかと思えば、カク……カクッ……と、首を左右に激しく傾げながら、液晶の向こうで蠢いている。
暫背筋を凍りつかせながら見つめていると、その人物はおもむろに泥に汚れた掌を伸ばし、レンズを完全に覆い隠した。
視界が漆黒に染まった瞬間、再びあの金属質な音が鼓膜を震わせる。
ピンポーン…
私はハッと息を呑み目を覚ました。
時計を確認すると、やはり深夜の3時。
「え⋯?夢⋯?」
モニターで見た異様な人物がインターホンを鳴らしたその音で、私は目が覚めたのだ。
先ほどのあれは夢だったのか。
となれば、いま私の耳に届いたこのチャイムの音は、果たして現実のものなのか。
またもや夢と現実がわからず、私は泥のなかを歩むような足取りで再びリビングへと向かった。
そこには先ほどとまったく同じように、青白い光に照らされながら、ヘッドホンをしてゲームに興じる娘の背中があった。
「ねぇ、さっきインターホン鳴った?」
娘はヘッドホンを外しながら、気付かなかったと言う。
「でもなんか気持ち悪いし、モニターだけ確認する?」
娘の言葉に従うように、私は壁の画面へと歩み寄る。
そこには不審な人影など一切映っていなかった。
門灯に照らされた、静まり返った我が家の玄関先があるだけだ。
なんだ、やはりすべては私の杞憂、ただの悪夢だったのだと胸をなでおろした、まさにその刹那。
確かにそれはカメラに映った。
黒いパーカーをまとった、肉を削ぎ落としたような輪郭の人物が、じわりと画面の下から立ち現れ、その指先をゆっくりとこちらへ伸ばした。
ピンポーン⋯
私は強く身を震わせ、三度《みたび》目を覚ます。
暗闇のなかで時計に目をやれば真夜中の3時を指している。
どこまでが現実で、どこからが夢の領土なのか。
あまりにも生々しい無限のループに囚われ、私の精神はすり減り、ひび割れそうになっていた。
すがるような思いで寝室を出て、リビングへと向かう。
そこにはやはり、パソコンの光に顔を青白く染めた娘が座っていた。
しかし、今度は違った。
私がその唇を開くより先に、娘はヘッドホンを外し、暗い双眸でこちらをじっと見つめてきたのだ。
「ねえ、モニター確認しなくていいの?」
「……え?」
私は喉の奥からひび割れた声を絞り出した。
まだ私が一言も発していないというのに、すべてを見透かしたような昏い瞳で、娘は私を見つめている。
「どうして、モニターのことなんて言うの⋯?」
「だって、お母さんさ、」
娘は少しだけ困ったように眉を下げ、小首をかしげた。
「さっきから何度もベッドから起きてきては同じことを聞くんだもん。『インターホンが鳴らなかった?』って。そのたびに私は聞こえなかったって答えて、お母さんはモニターを見に行って、それからまたふらふらと寝室に戻っていくの。寝ぼけてるのかなって思って見てたんだけど。」
心臓が、冷たい泥水に浸されたようにひやりとした。
夢のループだと思っていたものは夢などではなかった。
私は本当にベッドから起き上がり、薄暗い廊下を渡ってリビングへ行き、娘に問いかけ、モニターを確認していたのだ。
「……玄関には?本当に誰かいた? 」
「さぁ⋯。私はここから動いてないから。でもそんなに気になるなら、もう一度見てみたら?」
娘はそう言って、再びヘッドホンを耳に当て、ゲームの画面へと視線を戻してしまった。
その横顔は、深夜特有の無関心さに包まれていて、どこか人間らしい生気を欠いているようにすら見えた。
私はごくりと乾いた唾を飲み込み、壁に取り付けられたインターホンのモニターへと一歩、また一歩と近づいた。
プラスチックの四角い機械が、暗闇の中で妙に不気味な存在感を放っている。私は震える指先を伸ばし、通話ボタンの横にある
モニターのボタンを押した。
カチリ、と硬い音がして、画面に青白い光が灯る。
映し出されたのは、我が家の玄関前の風景だった。門灯の薄暗い光が、コンクリートの床を頼りなげに照らしている。
誰も、いない。
黒いパーカーの人物も、不審な影も、そこには存在しなかった。
ただ、風に揺れる庭木の葉が、不規則な影を地面に落としているだけだ。
「よかった、誰もいない。」
私はほっと息を吐き出し、胸に手を当てた。
やはり、あの不審者は私の脳が見せた幻覚だったのだろうか。
その時だった。
電子部品の駆動音に混じって、モニターのスピーカーから砂嵐のような雑音が漏れ聞こえてきたのだ。
ザー、ザー……という、深夜のテレビ放送終了後のような、不快なノイズ。
やがてそのノイズの隙間から、粘り気のある、湿った音が這い出してきた。
ピチャ、ピチャ、ピチャ。
まるで、濡れた裸足で、硬いコンクリートの上をゆっくりと歩き回っているかのような足音だ。
私は画面を凝視した。
やはり誰もいない。
ただのガレージと、門扉と、植え込みがあるだけだ。
なのに足音は確実に近づいてくる。
ピチャ、ピチャ、ピチャ。
足音は、カメラの真下あたり――すなわち、レンズの直前でぴたりと止まった。
冷たい汗が、額から目に入りそうになる。私は瞬きすら忘れて、数インチの液晶画面を見つめ続けた。
「え、何、何これ⋯。」
カメラの最下部から、何かが生えてきた。
「⋯⋯指?」
爪が剥がれかけ、泥と赤黒い汚れに塗れた指が、一本、また一本と、画面の底から這い上がってくる。
指はカメラのレンズにしがみつき、まるで画面の向こうからこちらの世界へ這い出そうとするかのように、細かく、不自然に蠢いている。
ぞわり、と総毛立つような悪寒が背筋を駆け抜けた。
指の隙間から、黒いフードを深く被った頭部が、ゆっくりと持ち上がってくる。
フードの奥。
そこには本来、人間の顔があるはずだった。
しかし、そこにあったのは、顔ではなかった。
皮膚がぐちゃぐちゃにただれ、目も、鼻も、口も、すべてが一つの悍ましい肉の渦となって、ゆっくりと回転しているような、名状しがたい異形。
その肉の渦の中心に、ぽっかりと黒い「穴」が開き、そこから粘つくような細い舌が、蛇のように伸びて、レンズを、すなわち私の瞳を内側から舐め回すようにして這い回った。
「ヒッ……!」
私は短い悲鳴を上げ、モニターのボタンを何度も激しく叩いた。
しかし、画面は消えない。
それどころか、ノイズはますます大きくなり、スピーカーからは、キリキリキリ、と金属を爪で引っかくような凄まじい高音が出始めた。
その異形は、画面の向こうで、狂ったように頭を左右に振り始めた。
激しく、激しく、首の骨が折れるような速度で。
そして、その肉の渦の「穴」が、歪な言葉を形作ったのだ。
『ミツケタ、ミツケタ、ミツケタ、ミツケタ』
スピーカーから放たれたその声は、私の耳元で直接囁かれたかのように、異常な生々しさで鼓膜を震わせた。
同時に、玄関のドアが激しく叩かれ始めた。
ドンドンドンドンドンドンドン!
それはまるで、巨漢の男が鉄槌を打ち付けているかのような、暴力的な衝撃音。
家全体がきしみ、床が小刻みに震える。
「ねえ! ちょっと、誰か来てる! 誰かドアを壊そうとしてる!」
私は半狂乱になって振り返り、娘に助けを求めようとした。
だが、リビングの様子が、おかしい。
いつの間にか、部屋の温度が異常に低下していた。
吐き出す息が、冬場のように白く濁る。
パソコンの青白い光に照らされた娘は、相変わらずヘッドホンをしたまま、画面に向かっていた。
しかし、その動きはどこか機械的だった。
キーボードを叩く指が尋常ではない速度で動いている。
カタカタカタカタカタカタカタカタカタ
人間技とは思えない、プラスチックが擦り切れるような超高速の打鍵音。
「……ねえ、ちょっと、聞いてる?」
私が娘の肩に手をかけようとした、そのとき。
娘の首が、不自然な角度で、真後ろへと一瞬で回転した。
それは生き物の動きではなかった。
ゼンマイ仕掛けの人形が、壊れて弾けたような、唐突で、暴力的な回転。
彼女の顔は、先ほどのモニターに映った異形と同じように、目鼻の境界が溶けかかっていた。
ただ、ぽっかりと開いた口だけが、真っ暗な洞穴のように私を見つめている。
「お母さん、ゲームが、終わらないの。」
娘の口から出たのは、何十人もの老若男女の声を同時に重ね合わせたような、不協和音の合唱だった。
「キーを押しても、押しても、押しても押しても押しても押しても押しても押しても押しても押しても押しても」
娘の身体が、椅子からずり落ちるようにして床に崩れた。
「いやあああああああ!」
私は恐怖のあまり腰を抜かし、床にへたり込み、耳を塞ぎ、目を強く閉じた。
これは夢だ、悪夢だ。
私はまた、あのベッドの上で目を覚ますはずだ。
早く、早く醒めて。
目を醒まして!
ドンドンドンドンドン!
玄関の扉を叩く音は、ついにリビングの引き戸のすぐ向こう側まで移動していた。
ガタガタガタガタ!
薄いガラス戸が、今にも叩き割られそうに激しく振動している。
『お母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さん……』
不自然に床に崩れ落ちたまま、娘が瞬きもせず私を凝視する。
周囲のすべての空間から、私を呪い、貪り食おうとするような音が押し寄せてくる。
もう駄目だ。
私が恐怖で意識を手放そうとした時、耳元でひどく冷徹な、しかし聞き覚えのある機械的な音が響いた。
ピンポーン…
一瞬にして、すべての音が静まり返った。
玄関を叩く音も、部屋中に響く不快な音も、血の凍るような囁き声も、すべてが嘘のように消え去った。
私は恐る恐る、閉じていた目を開けてみる。
リビングには静寂が戻り、エアコンの微かな運転音と窓の外を通り過ぎる、深夜の車の走行音が小さく響く。
ただ、パソコンの前に娘が静かに座っている。
ヘッドホンをつけ、キーボードを静かに叩いている。
いつも通りの、見慣れた娘の後ろ姿だった。
「……ねえ」
私の声は、ひどく掠れていた。
喉が完全に干からびて、声を出すのもやっとの状態だ。
「ねえ、あなた、誰…?」
娘はキーボードを叩く手を止め、ゆっくりと振り返った。
今度は首は正常に回っていた。
その顔も、見慣れた、愛らしい娘の顔そのものだった。
けれど、彼女は私を見て、どこか酷く哀しそうな、あるいはすべてを憐れむような、不自然な笑みを浮かべた。
「お母さん、どうしたの? そんなに怯えて。また、変な夢でも見たの?」
「変な、夢……?」
「そうだよ。お母さん、最近ずっとおかしいよ。寝室から起きてきては、同じことを聞いて。モニターを見ては、青い顔をして戻っていくんだから。」
娘の言葉は、以前の夢の記憶と寸分違わず重なっていた。
しかし、何かが決定的に違っていた。
彼女の正面にそびえる、リビングの大きなガラス窓。
そこにはカーテンが引かれているはずだった。
なのに、今はカーテンが開け放たれており、外の闇がガラス一面にべったりと張り付いている。
よく見ると、そこには無数の手のひらの跡が、赤黒く残されていた。
外側から、何度も何度も叩きつけたような、小さな、子供のような手の跡。
「ねえ、お母さん」
娘は立ち上がり、私に向かって一歩、歩を進めた。
その瞬間、私は彼女の足元を見て、息が止まる。
娘の足。
彼女が履いているスリッパは、左右でまったく別のものだった。
片方は、数年前に捨てたはずの、夫が愛用していた古いスリッパ。
もう片方は、酷く泥に汚れたスニーカー。
「……あなた、本当に、実花なの?」
いや、そもそも――実花は、今、どこにいる?
「何言ってるの、お母さん。私が実花だよ。それより……」
娘は、私の手元を指さした。
「それ、いつまで持ってるの?」
言われて、私は自分の右手に目を落とした。
驚愕が、全身の血を凍らせた。
私の右手には、いつの間にかインターホンの子機がしっかりと握られていた。
持ち運びができる、ワイヤレスの室内用子機。
その液晶画面には、赤く点滅する文字が表示されている。
『通話中』
「あのね、お母さんがずっとそれを持ったまま寝室から出てこないから、私、困っちゃって。」
娘は首をかしげた。
その角度が、先ほどの首が回った化け物の角度に、酷く似ていた。
「インターホンが鳴って、目が覚めて、リビングに来て、私に話しかけて、モニターを見る。その一連の動作のあいだ、お母さんは一度でも、玄関の鍵が閉まっているかどうか、確認した?」
心臓がどくりと大きく跳ねた。
そうだ。
私は一度も、玄関を確認していない。
「もしもね」
娘に酷似しているその生き物は、貼り付けたような笑顔で、ゆっくりと私に囁いた。
「最初の一回目のインターホンが鳴った時、もう、アレが中に入っていたとしたら?」
耳の奥で、ひどい耳鳴りがした。
キィィィィィン――という、高周波の暴力的な音。
「中に入って、お母さんのベッドの横に立って、ずーっと、その子機の通話ボタンを押してたんだよ。お母さんが、起きるまで。お母さんが、本当のことに気づいてくれるまで。」
ガタガタと、リビングの扉が震えだした。
違う、扉だけではない。
壁も、天井も、床も、家全体が生き物のように脈打ち、震えだしている。
私はたまらず後ずさりし、背中を壁に強くぶつけた。
「……お父さん⋯お父さんは?」
私は、震える声で尋ねた。
この家には、夫も一緒に暮らしているはずだった。
彼は二階の書斎で寝ているはずだ。
「お父さん? お父さんなら、とっくにあきらめて、あっちに行っちゃったじゃない。」
娘は部屋の隅にあるクローゼットを指さした。
隙間から、何かがはみ出している。
それは見覚えのあるグレーのスーツだった。
夫が最後に着ていたスーツ。
しかしそのスーツは、ハンガーにかけられているのではない。
中身が入っていた。
スーツの袖から、干からびて骨と皮だけになった手首が、だらりと床に垂れ下がっている。
その指先は不自然に長く伸び、床のフローリングを、カチ、カチ、と爪で叩いていた。
「ヒッ……!」
「ねぇお母さん、まだわからないの?」
娘は、にっこりと笑った。その笑顔は、あまりにも美しく、そして、あまりにも生気がなかった。
「この家にはね、もう誰もいないんだよ。私だって、本当はもう、ここにいちゃいけないの。お母さんが、どうしても私を手放してくれないから、こうして毎日、深夜3時にあの日を繰り返してあげてるだけ。」
あの日。
脳裏に、真っ赤な閃光が走った。
豪雨の夜。深夜3時。
激しいインターホンの音で、私は目を覚ました。
モニターを確認すると、そこにはずぶ濡れの、黒いパーカーを着た警察官が立っていた。
彼は、悲痛な面持ちで、私に告げたのだ。
「娘さんの実花さんが、深夜、アルバイトからの帰路で、居眠り運転のトラックに…。」
その瞬間、私は狂ってしまったのだ。
現実を受け入れることができず、心の中に強固な夢の結界を張り巡らせた。
深夜3時にインターホンが鳴る。
私は起きる。
リビングには、いつものようにゲームをしている娘がいる。
「ねえ、さっきインターホン鳴った?」と聞く。
「気付かなかった」と娘が答える。
それでいい。
それだけで、娘は私の世界の中で生き続けることができた。
たとえ外で警察官が、親戚が、友人が、何度も何度もドアを叩き、私を救い出そうとしていても。
私はそのすべてを「不審者」や「化け物」の恐怖として脳内で変換し、頑なにドアを開けず、夢のループの中に閉じこもり続けた。
夫は、私の狂気に耐えかねて、やがてこの家を去った。
それでも私は一人で、この暗い家の中で、毎夜毎夜、死んだ娘の幻影を作り出し、同じ会話を繰り返していたのだ。
「でもね、お母さん。もう、お母さんの身体も限界だよ。」
娘――実花の幻影が、私の目の前までやってきて、私の頬を包み込んだ。
その手は、冷たくはなかった。
けれど、物質としての確かな重みがなかった。
「ほら、見て。外の人たちが、またドアを叩いてる」
ドンドンドンドン!
今度は、現実の音が、私の耳に届いた。
「奥さん! 開けてください! 奥さん!大丈夫ですか?!」
それは隣の家に住む、仲の良いご近所さんの声だった。
そして、遠くから聞こえる、救急車のサイレンの音。
「お母さん、ゴメンね、私もう行かなくちゃ。」
実花は、優しく微笑みながら、ゆっくりと後ろへ下がっていった。
彼女の身体が、足元からすうっと、朝の霧のように薄くなっていく。
「置いていかないで!」
私は手を伸ばした。
けれど、実花の身体はすり抜けて、ただ冷たい空気だけが残された。
「実花! 実花!」
リビングのパソコンの画面が、ぷつりと消えた。
同時に、世界が、激しい振動と共に崩壊を始める。
壁が剥がれ落ち、そこから乾いた、冷たい現実の光が差し込んでくる。
……ピンポーン。
最後の一回。
それは、私の頭の中のインターホンではなく、現実の、私の家の本物のチャイムの音だった。
私は、冷たい寝室のベッドの上で目を覚ました。
身体が、信じられないほど重い。
指一本動かすのにも、途方もない労力が必要だった。
喉はカラカラに乾き、部屋の中には、何ヶ月も放置されたゴミの腐敗臭が漂っている。
私は本当に、一人きりだったのだ。
「奥さん! 入りますよ!」
玄関のドアがこじ開けられる、激しい音が聞こえた。
救急隊員の慌ただしい足音が、廊下を走ってくる。
重苦しい沈黙の中、ついに寝室のドアが開け放たれた。
飛び込んできたのは、防護服を着た男たちの影。
「うわっ……なんだ、この臭いは……!」
男の一人が鼻を覆い、思わず呻いた。
「これ……もう手遅れですね。完全にミイラ化しています。死亡してから少なくとも数ヶ月は経過していますね。」
その言葉を聞いた瞬間、私の意識の奥底で、奇妙な不協和音が鳴り響いた。
手遅れ?
ミイラ化?
何を言っているのだろう。
私は、今こうして目を開けて、彼らの姿を見ているというのに。
私はベッドから起き上がろうとした。
しかし、自分の腕を持ち上げようとした時、視界に入ったのは、肉の完全に削げ落ちた、茶褐色に干からびた骨と皮だけの手だった。
それは先ほどクローゼットの隙間から見えていた、あの夫の手と同じ形をしている。
「……あ、」
声を出そうとしたが、喉からはヒューヒューと乾いた風が抜ける音がするだけだった。
私の喉頭はとうの昔に枯れ果て、声帯は蜘蛛の巣のように干からびていたのだ。
私は、すでに死んでいた。
娘の死を受け入れられずに狂い、この部屋に引きこもり、餓死したあの日から。
私はとっくに、このベッドの上で冷たい肉塊になり果てていた。
では、今まで目を覚まし、廊下を渡り、リビングで娘と会話をしていた私とは、一体何だったのか。
救急隊員たちが、私の骸を静かに布で覆い、担架に乗せようとしている。
その慌ただしい作業を、私は部屋の隅から見下ろしていた。
実体のない私。
肉体を失ってもなお、娘を失った狂気から解き放たれず、この家に縛り付けられた執念の残滓。
私は、救急隊員たちが私の遺体を運び出していくのを、ただぼんやりと眺めていた。
これで、すべてが終わるのだろうか。
私の孤独な劇は、幕を閉じるのだろうか。
ガサリ。
背後で、小さな音がした。
振り返ると、そこには、いつの間にかリビングが戻っていた。
救急隊員たちの姿はなく、部屋は再び、あの不気味な深夜3時の暗闇に包まれている。
そして、パソコンの前には――あの黒いパーカーを深く被った人影が、静かに座っていた。
「お母さん。」
その影が、ゆっくりと振り返る。
フードの奥。
肉の渦が、歓喜に震えるように激しく蠢いていた。
その声は、娘の声ではなかった。
それは、私の狂気が生み出した、本当の化け物の声だった。
私は悟った。
私は救われなかったのだ。
死んでもなお、この永遠に繰り返される深夜3時の地獄から、逃れることはできないのだろう。
化け物は、泥に汚れた手を私に伸ばし、耳元で嬉しそうに囁いた。
「やっと、こっち側に来られたね。」
ピンポーン…
私は突然のインターホンの音に目を覚ました。
時計を確認すると深夜3時。
まさかこんな時間に訪問者などあるはずが無い。
ふと考えた。
もしかして私は、夢の中でインターホンの音を聞いたのかもしれない。
私はベッドから起き上がり、リビングへと向かう。
そこには、ヘッドホンをしてゲームをしている、愛しい娘の後ろ姿があった。
コメント
1件
うわ、これ……めっちゃ怖かったです。冒頭の「ピンポーン」で始まるループ構造が巧くて、読んでるこっちまで現実と夢の境界が揺らぐ感覚になりました。特に、娘の首が真後ろに回転する場面と、最後の「やっと、こっち側に来られたね」の台詞がゾッとしました……。 それでいて、全部が「死を受け入れられなかった母親の狂気」だったという真相に、切なさと恐怖が同時に来ます。1話でここまで世界観を畳みつつ、なおもループが続くラスト——構成力、めちゃくちゃ素敵でした。