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雨上がりの路地に、ぽつんと一枚の古びた看板が立っていた。「◯◯探偵事務所」──煤けた文字が雨粒を吸い込み、夜の闇に溶けかけている。
街灯の光はそこまで届かず、看板の縁をかすかに濡らしているだけだった。
排水溝を流れる水が、静かにコンクリートを叩く。
湿った空気に混じって、どこかで漂う錆びた鉄の匂い。
俺はその前で足を止めた。
ずっと胸の奥にこびりついていた“あの日”の光景が、頭の奥で軋むように再生される。
血の匂い。裂けた口。壊れた声。
――あの夜から、世界の音はどこか歪んで聞こえるようになった。
忘れたことなんて、一度もなかった。
忘れたくても、夢の中まで追ってくる。
“あの女”の笑い声は、今も耳の奥で生きている。
この足でここに来るまでに、十年以上かかった。
生き延びるだけで精一杯だったあの頃の俺が、
今ここに立っているのが、不思議なくらいだ。
ギィ……と音を立てて、ドアを押し開ける。
中から漂ってきたのは、古い紙と湿気と、苦いコーヒーの匂い。
壁の時計の針が、かすかに音を立てていた。
埃に包まれた部屋の奥、ひとつの机。その後ろに、男がいた。
無精髭、草色の上等な和装、煙草の煙の向こうに光る鋭い眼。
その眼が、俺の全てを測るように動いた。
生き方も、過去も、これからの覚悟までも。
「……何の用だ?」
短い問い。
その一言が、まるで銃口のように冷たく突きつけられた。
「ここで──働かせてほしい」
言葉が落ちる音が、やけに鮮明に聞こえた。
男の眉がぴくりと動く。
煙の中で、視線がわずかに細くなる。
「探偵志望、ってわけか。ガキが面白半分で来る場所じゃねぇぞ」
「面白半分じゃない」
声は静かだった。
けれど、胸の奥で何かが確かに燃えていた。
十年前の夜に置き去りにした“叫び”が、ようやく形を持ちはじめていた。
俺はここで探偵になる。
そして、自分の手で──“あの女”を見つけ出す。
外では、まだ雨のしずくが屋根を打っていた。
その音が、まるで遠い誰かの泣き声のように聞こえた。
「俺は……やらなきゃいけないことがある。……この命にかえても、だ」
握った拳がわずかに震えていた。だが、目だけは真っすぐだった。
「そのために──俺はここで、働きたい」
室内に静かな間が落ちる。
男はタバコを灰皿に押し付け、ゆっくりと身を乗り出した。薄い笑みを浮かべた口元とは裏腹に、その目は獣のように鋭い。
「……そうか」
低い声が室内を満たす。
「お前、ここの“業務内容”を知ってるのか? まさか、知らねぇで来たわけじゃねぇだろうな?」
男の口の端が不敵に吊り上がる。試すような、挑発するような笑みだった。
まるで“この先は戻れねぇぞ”と、目で語っているみたいだった。
「……知ってる」
俺は短く答えた。
「けど、市場にほとんど情報が出回ってない……詳しくは、ほんの少ししか知らない」
心臓がひとつ、大きく鳴った。
──ここからが、本当の“地獄”の入り口だと、直感していた。
男が口の端を持ち上げ、不敵な笑みを浮かべた。
その目は笑っていない。まるで、俺の内側を透かして見ているようだった。
「……知っている。けど、市場にほとんど情報が出回っていないんだ。少ししか知らない」
俺の答えに、男は一つ頷き、ゆっくりと口を開いた。
「なるほどな。お前が知っているのは──ここが、“対怪異”専門の探偵事務所ってことだけだろ」
煙草の煙を吐き出しながら、男は淡々と続ける。
「それは当たりだ。……だがな、化け物相手に、言葉が通じると思うか?」
わずかに身を乗り出して、俺を射抜くような目で言い放った。
「……答えは NO だ」
部屋の空気が、ぐっと重くなった気がした。
「だから、俺たちは“武力”を使って依頼を解決する。話し合いなんて、通じない相手ばかりだ」
男の声には一切の揺らぎがない。ただ、長年の修羅場をくぐってきた者の“実感”が滲んでいた。
「……俺の部下たちはな、少々血の気が多くてな。おいたが過ぎる連中ばっかりだ」
口元に薄い笑みを浮かべ、肩をすくめる。
「まぁ、そのうち嫌でも分かるさ」
「……ところで、お前──」
男がふいに声のトーンを落とした。
「“口の裂けた女”を……探してるんだろ?」
その言葉が耳に届いた瞬間、俺の体がピタリと止まった。
心臓が、一拍、ズドンと大きく鳴る。
まるで、胸の奥を見透かされたみたいだった。
俺は思わず男を見た。
男は椅子の背にもたれかかり、薄暗い室内の中で静かに俺を観察している。
その目には、ただの好奇心でも、同情でもない……“確信”があった。
「……なんで、それを……」
喉の奥が乾いて、声が掠れた。
あの夜の光景が、頭の中でフラッシュバックする。
血の色、女の笑い声、母の叫び──全部が、再び鮮明に蘇った。
男の口元が、ゆっくりと持ち上がる。
……だが、その笑みに確かな意味を読み取ることはできなかった。
「さぁな……たまたま、そんな顔してたんじゃねぇのか?」
肩をすくめ、まるで話題を軽く流すように言う。
ふざけているようでいて、その目だけは一瞬たりとも俺を離さなかった。
まるで、“本当の答え”を奥に隠したまま、俺の反応を楽しんでいるかのように。
その反応に、胸の奥が一気に熱を帯びた。
こいつは、絶対に何かを知っている。ほんの一欠片でもいい、情報が欲しかった。
「……はぐらかすな!! お前の知ってることを、洗いざらい吐け!!」
声が、怒鳴り声に変わっていた。
俺の様子に、男は逆に楽しそうに口元の笑みを深める。
「青いな……」
低く呟き、ゆっくりと煙を吐き出す。
「だが、そんな調子じゃ──いずれテメェの身を滅ぼすことになるぞ」
その忠告めいた言葉も、今の俺には届かなかった。
頭の中で怒りの音だけが鳴り響く。
視界が赤く染まる感覚と共に、理性の糸がぷつりと切れた。
「ふざけるな……ッ!!」
気づいたときには、勢いのままに男の胸ぐらを掴み上げていた。
椅子がきしみ、室内の空気が一瞬で張り詰める。
至近距離で見た男の顔には──焦りも、驚きもない。ただ、余裕の笑みだけが浮かんでいた。
「お〜怖い怖い」
男は肩をすくめ、まるで子供の駄々を眺める大人のように、軽くあしらった。
俺は大きく拳を振りかぶった。
怒りに任せ、狙いなんて関係ない。ただ、目の前の男の顔面をぶん殴る──その一心だった。
だが、その拳が男に届くことはなかった。
バシッ──という乾いた音が室内に響く。
俺の腕が、途中でぴたりと止められていた。力を込めても、まるで壁にぶつかったように一歩も動かない。
「おい、お前……うちの“大将”に殴りかかるとは、いい度胸じゃねぇか?」
低く澄んだ声が背後から響いた。
振り返ると、いつの間にか、もう一人の男が立っていた。
黒いシャツの袖を無造作にまくった腕は、細いが無駄な肉が一切なく、しなやかな筋肉が浮き上がっている。
全体的に線が細いのに、掴まれた腕から伝わる力は鋼みたいに硬く、ブレない。
その眼差しは鋭く、まるで獲物の動きを一瞬で見切る猛禽のようだった。
「離せっ……!」
思い切り力を込めるが、びくともしない。
拳を止めた男は涼しい顔のまま、ほんの少し口角を上げた。
「暴れるのは、入社してからでも遅くねぇだろ?」
室内の空気が、一瞬で凍りついた。
今の俺は、“組織の中”に足を踏み入れたのだと、嫌でも思い知らされる。