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3
あれはいったい何だったんだろう。
夜。風呂に浸かりながら、私は改めてあの狐面のお母さんや父娘について考えを巡らせていた。考えたところで多分、何も解りはしないのだろうけれど、どうしても考えずにはいられなかったのだ。
狐面の父娘と、狐面のお母さん。これがもし本当に暑さにやられて見た幻だったとして、どうして狐面だったんだろうか。
確かに、狐面を被ったキャラクターの登場する漫画や小説なんて世の中には山ほどある。私も読んだことがあるし、恐らく狐面=神社というイメージから、そんな幻を見てしまったんだろうと考えることはできると思う。
だけど、そうは言っても何の脈絡もなく突然、あんな幻を見たりするだろうか。
私はこれまで一度も幻なんてものを見た覚えがない。覚えがない、というだけで実は見たことがあるかも知れないとは言えるのだけれど、そんなことを言い始めるとキリがないので、この際そういう考え方はなしにしよう。
では逆に、実際にあの狐面の父娘もお母さんもどきも実際にあそこに存在していたのだとしたら?
父娘の方はそうかも知れない。ただ狐のお面を被っていただけの、変わり者の父と娘。それくらいなら別に普通にいてもおかしくはない、と思う。
けれど、狐面のお母さんは? しわがれたお爺さんの声で、いつの間にか居なくなっていた謎の存在。父娘を見たせいで――あるいはあの小さな祠?の鈴を落としてしまったせいで、その娘に何か含みのあるような声で「切っちゃったね」と言われたことに気が動転して、あんな幻を見てしまったのか。
……わからない。やっぱりどう考えてもあり得ないし、何もわからない。
わからないといえば、あの洗濯物もそうだ。
お母さんは、洗濯物を取り込んだだけで畳みはしなかったという。私だって、家に帰ってシャワーを浴びて、お母さんのバニラバーを食べながらゆっくりしていたのだから、そんなことは一切していない。そうなると、あの洗濯物を畳んだのは狐面のお母さん、ということになる。つまり、あの謎の存在はやっぱりあの場に居たのだ。
なら、あいつはいったいどこへ消えたのだろう。部屋の中には居なかった。狭いマンションの一室で、いつまでも隠れ続けられるわけもない。お父さんも弟も帰ってきて、誰の目にも止まらず隠れ続けることなんて、果たしてできるのだろうか。
もし今も家の中に隠れているのだとしたら、いったいどこに――
私はまだどこかに潜んでいる狐面のことを考えると居ても立っても居られなくて、お風呂から上がると手早く着替えて、家じゅうの押し入れやクローゼット、ベッドの下、とにかく人が隠れられそうな場所を覗いていった。
「……何してんの?」
弟が不思議そうに私に声をかけてくる。
「探し物」
と答えると、弟は、
「一緒に探してあげようか?」
「いい」
私は即座に断った。
まさか『狐のお面を被ったお母さんの偽物』なんて言えるはずもない。そんなものは夢だったんだよ、と一笑されてしまうのがオチだろうから。
「……そう?」
言って、弟は私の顔を覗き込んできて。
「――っ!」
その瞬間、私は思わず息をのんだ。
いつの間にか弟はあの狐面を被っていて、その目の小さな穴から金色の瞳で私のことをじっと見つめていたのだ。
「えっ……あっ……」
「本当にいいの?」
と狐面の弟は首を傾げる。
私はそんな狐面の弟に対して、
「う、うん……」
頷くでもなく、返事した。
狐面の弟は「ふぅん」と鼻を鳴らして、
「わかった」
そう言い残して、たたっと居間の方へと駆けて行った。
私はその後ろ姿に、ただ茫然と、口を開けていることしかできなかった。
4
何が何だか解らなかった。
夢じゃなくて、あの狐面が現実だというのなら、アイツはいったい、何者だったんだろうか。
あの後、恐る恐る居間に戻った私の目の前にいたのは、テレビを観ながらけらけら笑う弟とお父さんの姿だった。
弟は私の姿に気づくと、
「見つかった?」
と訊ねてきた。
私が「あ、うん」と答えると、「よかったね」と再びテレビに眼を向ける弟。
あの狐面の弟は確かに私の弟で、けれどどういうわけか、あの瞬間だけ狐のお面をつけていて。
いったい、どういうこと? 私にいったい、何が起こっているというのだろう。
眠れない夜を過ごした私は早朝、気分転換に散歩がてら、少し遠いコンビニまでとぼとぼ歩いて行くことにした。
時計の針は午前五時過ぎを指しており、いつもならまだ布団の中で眠っているような時間だった。
陽はすでに辺りを明るく照らしており、私と同じように散歩をする老夫婦や犬を連れたおじさんやおばさん、並んでジョギングをする若いカップルの姿もあった。
みんな、意外に早くから起きてるんだなぁ。
そんなことを漠然と思いながら歩いていると、道の向こう側から、これまでおよそ見たこともないような姿の女性が、こちらに向かって近づいてきているのが目に入り、私は「えっ」と思わず立ち止まった。
その女性は全身パステルカラーの薄いピンク色で、縁に小さな白い花が散りばめられたピンクの日傘をさし、肩口のふわっとしたピンクの服に、大きく広がったスカートにはふりふりの白いレースがあしらわれていて、そこから伸びる細い足には白いニーハイソックス、そして大きな黒い厚底靴を履いていて――と、どう言葉で表現すればよいのか解らなくなるような――そう、ロリータ服だ。まるで大きな西洋人形が、自分の意思で動いているかのような、そんな印象を私に与えた。
そんなロリータ服の隣には、なんてことない普通のプリントシャツを着てジーンズを履いた若い女性が歩いており、ふたり並んで何か会話を交わしながら、楽しそうに笑いあっていた。
これまでロリータ服を着た女性なんてリアルに見たことがなかったから、私は狐面の時と同じくらいの衝撃を受けて、しばらくその場を動けず、ただそんな彼女たちを見つめることしかできなかった。
ロリータ服は私とすれ違い際に、にっこりと微笑んで、
「おはようございます」
可愛らしい声で会釈して、甘い匂いを振りまきながら、すっ私の脇を抜けて去っていく。
……日常的にあんな格好をしている人が居るんだ。
そう呆気に取られてふたりの後ろ姿を何となく見送っていると、不意に彼女は立ち止まり、私の方を振り向いた。
「あっ」
と私は口を開き、
「どうしたの?」
とロリータ服の隣に立つ女性が、彼女に首を傾げた。
ついつい見つめてしまったことを謝るべきだろうか、と思っていると、彼女は可愛らしい足取りで小走りに私のところまで戻ってくると、その整った眉に小さな皴を寄せながら、
「……もしかして、何かお困りのことがありませんか?」
私の顔をじっと見つめ、そう訊ねてきたのだった。