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雫石しま
河内村にも雪解けの季節が来た。路肩の残雪は粉塵で黒く綺麗とは言い難いけれど、その隙間にちょこんと蕗のとうが顔を出している。拓也さんの除雪車の出番も終わり。鈴の音は来年までお休みだ。朝、縁側に座って湯気を立てるコーヒーを飲んでいると、畑の向こうから拓也さんが歩いてくる。
白衣じゃなくて、今日はカーキのジャケットに長靴。雪解け水で濡れた道を、ゆっくり踏みしめて。
「おはよう、里奈。蕗のとう見つけた?」
「はい……もう出てましたよ。春、来ましたね」
拓也さんが縁側に腰を下ろして、私の隣に座る。コーヒーの匂いが混じって、春の土の匂いがする。
「除雪車、今日で完全にオフだ。チェーン外して、車庫にしまう」
「寂しいですね……あのシャンシャンシャンが聞こえなくなっちゃう」
私は少し笑って、拓也さんの肩に頭を預ける。
「でも、鈴の音が聞こえなくなったら、来年の冬が待ち遠しくなるかな」
「……でも雪は、あまり降らないで欲しいです」
私は軒先のショベルを恨めしげに見た。拓也さんが私の髪を撫でて、静かに言う。
「来年は、一緒に雪かきしよう」
思わず頬が赤らむ。今年の夏、二人の結婚が決まった。私たちはこの祖母の家で暮らす。私は拓也さんの手を握って、蕗のとうの方を見る。黒い残雪の隙間から、緑の小さな頭が、ぴょこんと顔を出してる。
「春って、こんなに静かに来るんですね」
「うん。雪の下で、ずっと待ってたんだ」
拓也さんが立ち上がって、畑の方へ歩き出す。
「里奈、ちょっと来て」
私は長靴を履いて、後を追う。残雪の道を踏みながら、蕗のとうの群れに近づく。拓也さんがしゃがみ込んで、一つ摘んで、私に差し出す。
「ほら、里奈の春」
私は受け取って、鼻先に近づける。ほのかに苦い、土の匂い。
「苦いけど……優しい匂い」
拓也さんが笑って、「里奈みたいだな。苦い過去もあったけど、今は優しい里奈」 私は頰を赤くして、拓也さんの胸に顔を埋める。「拓也さんこそ……雪の下で待っててくれた優しい人」 春の風が、蕗のとうを揺らす。
雪解け水が、畦道をさらさら流れて、白山の雪が少しずつ溶けていく。除雪車の鈴は来年までお休みだけど、今は、春の静かな音が、私たちの日常を包んでる。
里奈カフェの夢も、少しずつ形になってきた。青年団の剛くんとスケッチブックを広げて相談する。ちょうどいい距離に、古い納屋がある。持ち主のおじいちゃんも、「いいよ、好きに使うまっし」と無料で貸してくれることになった。納屋の
リフォームも青年団の有志が集まって引き受けてくれることに決まった。剛くんは立派な一枚板の看板に鑿を入れて、「cafe里奈」と彫り始めた。新しい夢が、河内村の中でどんどん膨らんでゆく。最高じゃん。